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277. 黒輝な物体に思いを馳せて:路肩を歩く馬から学んだこと


家のリフォームも無事に完了し、本日はフローニンゲンの中心街へ散策に出かけた。新居の周りは非常に閑静な住宅街であり、朝昼晩ともに嘘のように静かである。綺麗に整備された家の前の大きな道路を通る車も通行人も少なく、今までに味わったことのない小さな人口密度である。

もしかしたら、今は夏のバケーションの季節であるから、近隣住民のほとんどは南ヨーロッパの方にバカンスに出かけているのかも知れない、と思った。それぐらい人が少なく、ただただ静かに時が流れる環境の中に自分が入り込んでいる感じなのだ。

中心街に到着し、半年前にフローニンゲンを訪れた時に立ち寄った古書店 “Antiquariaat Isis”に足を運んだ。前回の訪問時は、それほど時間にゆとりがなく、所蔵されている書籍にじっくりと目を通すことができなかったのだ。そのため、今回はできるだけ時間を使って、ゆっくりと今の自分に必要な書物を発掘しようと思った。

前回の訪問時にも思ったが、この古書店に対して有り難く思うのは、荘厳なクラシック音楽を書店内に流していることである。音楽が私たちの心に与える影響というのは多大なものがあり、荘厳なクラシック音楽に身を包まれていると、心まで厳格な気持ちになり、古書と向き合う真剣さも増すように思えた。

この古書店は学術専門書を主に取り扱っており、同じ通りのすぐ近くには音楽・芸術に特化した専門書を扱う古書店もある。今回の目的は、優れた学術専門書の古書を発掘することにあったため、“Antiquariaat Isis”のみに立ち寄った。

この古書店で、心理学と哲学の棚に置いてある全ての古書を丹念にチェックしていった。自分の関心に合致したカテゴリーに置いてある全ての書籍に目を通すことを実践し始めたのは、最初のキャリアから離れるきっかけを生み出した、大阪梅田のジュンク堂でのケン・ウィルバーの書籍との出会いに端を発する。

それ以降、大学図書館や大型書店、そして古書店において同様の実践を行う癖が付いている。今回も同様のことを行った結果、残念ながら心理学書コーナーには光る書籍はなかった。もちろん、取り扱っている多くの書籍はオランダ語であり、英語の古書は数が限られているため仕方のないことではあるが。

しかしながら、哲学書コーナーには一冊の光る書籍が置いてあった。この古書店の哲学書コーナーは大変充実しており、人生の違う時期に訪れていれば思わず購入するであろう書籍が山のように存在した。

私の頭の中では、インド洋を漂う貨物船の中に積み込まれている、数多くの自分の蔵書たちのことが気にかかっており、ここではとにかく、フローニンゲン大学での2年間の研究に必要な書籍だけを購入するようにしようと思っていた。

そこで入手したのは、 “Cognitive Systematization (1979)”という一冊だ。私はこの著者を初めて知ったのだが、この書籍はアメリカのプラグマティズム哲学者のニコラス・レシャー(Nicholas Rescher: 1928-)によって執筆されたものだ。

なぜこの書籍に惹かれたかというと、この書籍はシステム理論を用いて、知識の形成過程に哲学的に迫っていたからである。立ち読みをしながら、この書籍には既存の発達心理学にはない角度とアプローチで知性の発達に迫っていくための重要な洞察がふんだんに盛り込まれていると判断した。

優れた掘り出し物を入手することができて上機嫌になり、古書店を後にした。通りに出るやいなや、後方から聞いたことのある動物の歩く音が聞こえた。振り返ると、そこには毛並みの綺麗な馬が心地いい蹄の音と共に歩いており、人を乗せた馬車が目に入ったのだ。

好奇心を持っておもむろに馬に近寄って行き、馬車を運転する御者に写真を撮影してもいいか許可を取った。快諾を得たので、数枚ほど写真を撮らせてもらった。「可愛いなぁ〜」と思いながら、その馬に別れを告げ、いつもとは違う道を通って自宅に帰ろうと思った。

先ほどの古書店がある「Folkingestraat」という通りをまっすぐ行くと、フローニンゲン大学を象徴する建物が右手に見えてきて、その通りの名前は「Oude Kijk in Het Jatstraat」という名前に変わる。さらに直進すると運河に行き着き、橋を渡って「Noorderhaven」という通りを左折した。

道のりにしばらく歩いて行くと、自転車道——フローニンゲンの街の道路は、自動車専用道路、自転車専用道路、歩行者専用道路と三つに分かれている——に何やら大きな黒い塊が落ちているのが見えた。こんもりとしたその黒い塊の右横には、建物の工事をしている様子が遠目から見てわかり、工事用部品が落ちているものだと推測した。

「自転車専用道路にこんなものを置いていると危ないではないか」と思いながら、大きな黒い物体に近寄ってみると、大量の馬糞だった・・・。「綺麗な毛並みを持った、クリッとした瞳の、あ、あの可愛らしい馬がこれを・・・」とおびただしい量の馬糞に唖然として立ちすくんだ。

しばらく茫然自失の状態に陥り、その状態から回復すると、私は先ほどの古書店で書物を吟味した時と同じ真剣さの伴った眼光で、馬糞を眺めていた。書棚に置かれている無数の本を舐め回すように眺めていたのと同様に、その馬糞の全てを捉えようとしていたのだ。

透徹した眼差しで馬糞を真剣に凝視する、路肩にたたずむ一風変わった東洋人。近くにいた建設現場の人から、「おい、それは馬のクソだぞ!(笑)」という実に親切な声が背後から聞こえた。

しかし、私はそうした野次馬の声を一切気にかけることもなく、本物の馬の糞だけを気にかけていた。というのも、私にはこの物体が単なる馬糞に見えなかったからだ。そこには見逃してはならぬ重要な真理が内包されている、と思って凝視していたのだ。

そうなのだ。私は馬糞に掴まれたのだ——逆に掴みたくはないが。観想的な意識状態において、そこで黒々と輝いている物体の「如性(あるがまま性)」に触れてしまったようなのだ。

そしてあろうことか、フローニンゲンの路肩で一挙に意識が拡張してしまい、宇宙規模の視点から見ると、馬糞と私はどちらも等しく「点」に過ぎず、両者が共に近しい存在であるという考えに至ったのだ。

そして、あれだけ得も言われぬ「美」を体現していると思われた馬が、なぜ世間一般で「醜」と呼ばれるこのような排泄物を世に生み出すことができるのかが不思議だったのだ。

美の中に醜が宿るのか、それとも醜の中に美が宿るのか。あるいは、美と醜はそもそも独立した現象なのか。それらが気になって仕方なかったのだ。同時に、いかに敬愛・崇拝する人物も必ず醜を内側に抱いていることを決して忘れてはならない、と自らを戒めた。

私はこうした自戒に到達したため、路上の馬糞が、人生の師に思えた。世界が開示する諸々の現象からできる限りの意味を汲み取ること。あるいは、諸々の現象に新たな意味を付与すること。それが何にもまして重要な自分のあり方なのだ、と再確認した。

そして、フローニンゲンの警察に不審者と思われて逮捕されないようにしよう、ということも合わせて確認したのだった。

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