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199. 愚直なまでにただひたすらに


——学ぶとは、自分の中で何かが変わることである——上原専禄

愚直なまでにただひたすらに。この5年間、毎日継続してきたことがある。それは、起床直後の20分間の身体運動——ヨガと太極拳を統合したような脱力と柔軟力を意識した身体動作——と30分間の座禅である。その後の15分間の英語の音読。美を体現した書籍や学術論文を15分間ただひたすらに筆写するということ。

各実践の所要時間に変動はあったものの、これらをこの5年間、愚直なまでに継続してきた。継続の成果は、日々目に見える形で顕在化してくれる親切さを持ち合わせていなかった。成果を期待して実践すればするほど、成果が現れないのではないかと思わされるほどであった。

しかし、それらの成果は予期せぬところで思わぬ形で姿を現わす。特に、自分を惹きつけてやまない美を体得した文章をひたすら書き写すことは、自分にとって非常に価値を持った修練であったように思う。

振り返ってみると、この5年間で日本語においては、井筒俊彦氏の主著「意識と本質」を二度ほど全文筆写し、松永太郎氏の翻訳書「存在することのシンプルな感覚」も二度ほど全文筆写した。これは自分の日本語を鍛えたいという思いよりも、米国在住時に私の深層意識が時折感じていた、日本語に対する強烈な渇きを癒すための実践だったのかもしれないと振り返ってみて思う。

また、英語に関する筆写行は、日本語の量と質を遥かに凌駕していたことに気づかされた。英語に関しても様々な書籍や論文を筆写してきたが、米国在住時代の後半からは、ただ一人、私が敬愛する生粋の発達科学者カート・フィッシャーの学術論文だけをただひたすらに書き写し続けてきた。日本にいる今も毎朝である。今日もだ。そして、明日もだ。

上述した日本語の書籍に対しては、ただ音読をした後に、その文章を書き写すということしか行っていない。そこには、その文章構造や使用語彙を解析してやろうというような作為的な意図もなければ、そうした文章を自分でも紡ぎだしたいというような思いもなかったように思う。何かあったとすれば、それは精巧かつ重厚な日本語に触れたいという極めて純粋な思いだろう。

一方、英語に関しては様相がまるっきり異なる。私は、最初から一貫して、いつかフィッシャーのような学術論文を執筆するということを強く意識していたように思う。もちろん、私はフィッシャーが論文の中で創造する美に共感・感銘を受けているのは間違いない。ただし、それを味わうだけで留まれない強烈な思いがあった。

自分も作る。自分も創造する。そうした思いに突き動かされ、私は5年間、フィッシャーが論文中に使う語彙、コロンやセミコロンの打ち方、接続詞を挟むタイミング、一段落中に盛り込む他論文からの引用数とその配置など、解析的にフィッシャーの論文を読み込み、フィッシャーの鼓動を感じれるレベルまでただひたすらに筆写を続けてきた。

今でも鮮明に覚えている。フィッシャーが37歳の時に、心理学の学術誌の中で最も権威のある「Psychological Review」に投稿した論文 “ A Theory of Cognitive Development: The Control and Construction of Hierarchies of Skills (1980)“を読んだ時、自分は一生かけても同様の論文を執筆できないと思った。

富士山の麓にいる感覚のよう。富士山の麓にいる時、遥か彼方にある頂きに到達することなど不可能ではないかと思えてくるものである。フィッシャーの論文を毎日書き写す日々を始め、一年ぐらい経過した時、これまで見えなかった富士山の頂が見えるような瞬間があったのだ。

しかし、それでもフィッシャーの論文と同じレベルのものを書くのに、最低でも20〜30年かかると思っていた。フィッシャーの論文と同じ水準のものを書くことなど不可能だという思いもやはり交わりながらも、毎日彼の論文を書き写し続けてきた。

すると突然、7年後あたりに同質の論文を執筆できる可能性が見えてきたのだ。まさに光が差し込んできたのである。これは大きな体験であった。手に届かないと思っていたものが目の前に近づいてくる感覚、と形容してもいいだろうか。

いや、全くもって目に見えなかったものが突然視野に飛び込んで来る感覚だろうか。いずれにせよ、確固たる思いと愚直なまでの実践によって、大いなる跳躍の瞬間がやってくるということを身を持って体験させてくれた出来事であった。

あぁ、これが能力の成長というものなのだろう。

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