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【フローニンゲンからの便り】18958-18961:2026年7月2日(木)

  • 5 時間前
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タイトル一覧

18958

七年間支えてくれた小松美羽さんの二冊の画集を誰かのもとへ

18959

今朝方の夢

18960

今朝方の夢の振り返り

18961

速さによって露わになる非効率さ

18958. 七年間支えてくれた小松美羽さんの二冊の画集を誰かのもとへ

                        

昨夜、小松美羽さんの画集を二冊、久しぶりにゆっくり眺めていた。2019年に一時帰国した際に購入したものだから、もう七年ほど自分の生活の傍らにあったことになる。画集というものは不思議である。書物でありながら、読むものというより、浴びるものに近い。頁を開くたびに、そこから色彩と線と祈りのようなものが立ち上がり、自分の内側の眠っていた感覚に触れてくる。小松さんの作品は、単に美しいというより、生命の奥で燃えている霊的な火をそのまま紙面に封じ込めたような力を持っている。この七年間、折に触れてその画集を眺めてきた。次の創造へ向かう力を必要としているとき、画集の中の獣や神獣や守護的な存在たちは、無言のまま自分に力を分け与えてくれたように思う。それは励ましというより、魂の奥に火打ち石を打ち込まれるような体験であった。絵の中にいる存在たちは、こちらに優しく微笑むだけではなく、もっと強く生きよ、もっと深く見よ、もっと自分の内側の野性と霊性を信じよ、と迫ってくるようだった。その画集を、エディンバラへの引っ越しに向けて手放そうとしている。これは単なる断捨離ではないように感じられる。物を減らすというより、エネルギーの流れを止めないための行為である。画集はこの七年間、自分のもとで十分に役割を果たしてくれた。であれば、今度はフローニンゲンの誰かのもとで、新たな役割を担ってもらうのがよいのかもしれないと考えた。作品の力は、所有されることで閉じるのではなく、手渡されることで新たに息を吹き返すのだろう。思えば、フローニンゲンでの生活そのものが、一冊の大きな画集のようであった。曇天の空、運河沿いの風、静かな書斎、研究と思索の日々、そして内面の奥で少しずつ形を変えていった自分。そこに小松さんの画集は、異界への扉のように置かれていた。日常の部屋の中にありながら、それを開くと、土地や文化や時代を超えた、もっと原初的な生命の場に連れていかれる。画集は、フローニンゲンの部屋の片隅にあった小さな祭壇のようなものだったのかもしれない。手放すことには、少し寂しさが伴う。しかし、その寂しさは喪失というより、感謝が形を変えたものに近い。長く支えてくれたものを、感謝と共に送り出すとき、物は単なる物ではなくなる。それは、旅を終えた同伴者を次の旅人に託すような行為である。自分が受け取った火を、今度は誰かの内側にそっと移す。画集の頁に宿っていたエネルギーは、所有者が変わっても消えるわけではない。むしろ、新しい眼差しに触れることで、別の火花を散らすはずである。エディンバラへ向かう自分は、すべてを持っていく必要はないのだろう。本当に大切なものは、物として運ばなくても、すでに感覚の奥に移植されている。小松さんの作品から受け取った生命力、霊性、色彩の激しさ、見えないものを見る勇気は、画集を手放しても自分の内側に残り続ける。むしろ、画集を手放すことで、それらは外側の所有物から内側の質へと変わっていくのだと思う。昨夜の頁めくりは、別れの儀式であると同時に、継承の儀式でもあった。フローニンゲンで受け取った火を、次の土地へ向かう自分の中に残しつつ、もう一つの火をこの街の誰かに手渡す。そのような静かな循環が、今まさに始まろうとしているのである。フローニンゲン:2026/7/2(木)07:15

18959. 今朝方の夢 


今朝方は夢の中で、教室の中にいた。どうやら給食の時間のようで、蕗のとう入りのうどんがとても美味しそうで、余っていたので少し多めによそうことにした。その場で一口食べてみると、出汁が絶妙で、とても美味しかった。気がつくと給食を食べ終えており、教壇には中学校時代の担任の先生かつ英語の先生がいて、教室の後ろには小学校5年生の時の担任の先生がいた。まず教壇の先生が、「点・線・面・立体のうち、どれが一番優れていると思う?」という問いを生徒に投げかけた。その問いを受けて、点・線・面・立体のサイクルにおいて、形成された立体は新たな点でもあり、立体には線と面の両方が内包されていることもあり、そもそもの始点の「点」が重要であると考えた。周りの友人たちはどうやらそのようなロジックを組み立てておらず、みんな直感的に好きな意見を述べていた。しかしそこでふと、そもそも点・線・面・立体に優劣をつけることは、発達的な価値論として問題があるのではないかと思った。仮に何かを優先させると、その他が蔑ろにされてしまい、それは発達を停滞させてしまうことや歪な発達の形を生み出しかねないと思った。点・線・面・立体に対して価値づけすることの不毛さと有害さに問題意識を持ち、その点を先生に問うた。自分の語り口は冷静であるが、鋭く、そして批判的であり、問いただされた先生はたじたじの状態になっていた。そこで私は改めて、先生の力量が生徒に与える影響の大きさを思い、無能な教師には本当に注意しなければいけないと思った次第である。

もう一つ覚えているのは、朝夕が冷え込み、昼との温度差があるので、朝夕の格好には気をつけた方がいいと親切に助言してくれた女性がいたことである。その女性とは顔見知りではなく、比較的若い人であった。彼女の助言に従うことによって、どれだけ温度差があっても体調を崩さずにやっていけるような気がした。フローニンゲン:2026/7/2(木)07:28        


18960. 今朝方の夢の振り返り

             

今朝方の夢は、自分の内面において「評価する知性」から「関係性を見抜く知性」への移行が静かに進んでいることを象徴しているように思われる。夢の舞台が教室であり、給食の時間から始まることは興味深い。教室は知識を受け取る場であるが、給食は知識ではなく生命を養う糧である。しかも蕗のとう入りのうどんという春を思わせる食事は、ほろ苦さを含みながらも新しい生命力を身体へ取り込む象徴であり、自分は知識よりもむしろ経験そのものを栄養として吸収する段階に入っているのかもしれない。出汁の深い味わいは、表面的な情報ではなく、その背後に流れる見えない原理を味わう感性が育ちつつあることを示しているようでもある。その後に現れる「点・線・面・立体」の問いは、単なる幾何学ではなく、世界をどのような枠組みで理解するかという認識論的な試験であった可能性がある。自分は立体が新たな点となる循環性を考え、各要素が互いを内包することを見抜いていた。この思考は一本の木を見るのではなく、森全体の生態系を見る視点へ近づいていることを暗示しているのかもしれない。しかし夢は、その論理的な回答に満足させることなく、さらに一段深い場所へ導く。そもそも優劣を問うこと自体が問題ではないかという問いである。この転換は非常に象徴的である。点・線・面・立体は、一つの旋律を構成する音符のようなものであり、どれか一つだけを最上位に置けば音楽そのものは失われてしまう。自分の無意識は、発達とは頂点へ登る競争ではなく、多様な要素が互いを支え合う有機的な循環であることを伝えようとしているのではないだろうか。この感覚は、これまで探究してきた発達理論への理解をさらに超え、価値づけそのものを相対化する地点へ近づいていることを示唆しているように感じられる。先生へ向けられた鋭い問いも印象深い。夢の中で批判されているのは特定の教師ではなく、権威が無自覚に価値観を植え付ける構造そのものである可能性が高い。教師は羅針盤にも灯台にもなれる存在である一方、方角を誤れば船団全体を暗礁へ導いてしまう。その危うさを、自分の無意識は非常に強い調子で映し出したのであろう。近年の探究において、自分が既存の理論を鵜呑みにせず、自ら検証し直そうとしている姿勢とも重なって見える。最後に現れた見知らぬ若い女性は、この夢全体を穏やかに締めくくる存在である。朝夕と昼との寒暖差への助言は、単なる健康管理ではなく、精神や知性にも温度差が存在することを象徴しているようである。厳密な論理を働かせる時間と、感性に身を委ねる時間との間には大きな落差があり、その変化へ柔軟に適応できる者ほど長く探究を続けられるのかもしれない。その女性は、理論ではなく身体感覚を通して世界と調和する智慧の化身であり、自分の探究が今後さらに深まるためには、鋭い批判精神だけではなく、季節に衣を合わせるようなしなやかな適応力も同時に育てる必要があることを静かに告げているように思われる。夢全体は、知性という刃を磨くだけではなく、その刃を包む鞘の柔らかさをも育てる時期が訪れていることを象徴しているのであろう。フローニンゲン:2026/7/2(木)08:21


18961. 速さによって露わになる非効率さ


ブランダン・エイカー氏の助言の核心は、「速さが問題なのではなく、速さがすでに存在していた問題を露呈させる」という点にある。遅いテンポでは、演奏者には余白がある。少し指の準備が遅れても、次の音までに修正できる。余分な動きがあっても、時間の余裕によって帳尻を合わせられる。右手にわずかな力みが残っていても、次の動作までに緩めることができる。左手の移動がやや大きくても、遅いテンポなら間に合う。つまり、遅いテンポは技術的な欠陥を隠してくれる毛布のようなものなのである。しかしテンポが上がると、その毛布が剥がされる。指はすでに次の場所に準備されていなければならない。弾いた後の脱力は、あとから行うのではなく、その瞬間に起こっていなければならない。左手の移動は最短距離でなければならず、右手の接触も無駄なく弦に到達していなければならない。遅いテンポでは「なんとなく間に合っていた」動きが、速くなると一気に遅れとして現れるのである。ここで重要なのは、速く弾けないときに、単純に「もっと頑張る」「もっと力を入れる」「勢いで突破する」と考えないことである。速いテンポで崩れる箇所は、筋力不足というよりも、動作設計の粗さを示している可能性が高い。指の移動が大きすぎる。準備が遅い。不要な緊張が残っている。弦を弾いた後に指が離れすぎている。次の音に向けた意識が遅れている。テンポは、それらを冷酷に、しかし正確に映し出す鏡なのである。したがって、速いテンポで崩れたときには、テンポと戦うべきではない。むしろ、その崩れ方を観察する必要がある。どの音で遅れるのか。どの指が遠回りしているのか。どこで音が薄くなるのか。どの瞬間に手が固まるのか。どこで準備が間に合っていないのか。速さは敵ではなく、診断装置なのである。この助言は、クラシックギターの練習に非常に有効である。たとえばスケールやアルペジオ、スラー、バレーを含むパッセージが、あるテンポまでは安定しているのに、少し上げると急に崩れることがある。その場合、問題はそのテンポで突然発生したのではなく、遅いテンポの段階から小さく存在していたのである。ただ、遅いテンポでは修正可能だったため、問題として感じられなかっただけである。練習上の要点は、崩れたテンポから少し戻り、「何を精密化すれば自然に速くなるのか」を探ることである。速くするために力を加えるのではなく、余分なものを削る。動きを小さくする。弾いた瞬間に離す。次の音を早めに準備する。音を出す前に身体の経路を整える。そうすると、速さは無理に獲得するものではなく、効率の結果として立ち上がってくる。要するに、エイカー氏は「速く弾く練習」を「速さに耐える練習」としてではなく、「速さによって露わになる非効率を発見し、洗練させる練習」として捉え直しているのである。速さは問題を作るのではない。速さは、見過ごしていた問題を見逃せないものにする。だからこそ、テンポを上げて崩れる瞬間は失敗ではなく、技術が次に進むための最も正直なメッセージなのである。フローニンゲン:2026/7/2(木)10:01


Today’s Letter 

Light has tremendous benefits, but it also creates shadows. Can I transcend both light and shadow? I wish to become something beyond brightness and darkness. Groningen, 7/2/2026

 

 
 
 

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