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【サイケデリック学探究記】11949-11959:2024年1月25日(木)



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タイトル一覧

11949. 立つことの効能を感じて/今日の読書

11950. 今朝方の夢

11951. ビョンチョル・ハンの執筆スタイルを参考にして/VR時代の書籍の価値

11952. これからのVR技術に期待する2つのこと/サイケデリクスとVR技術

11953. 今朝方の夢の続き

11954. トランスヒューマン的・ポストヒューマン的な生き方の加速/VR技術やメタバースの英語学習への活用

11955. 意識に関する興味深い問い

11956. 他我問題について考えながら

11957. 生まれ変わりについて

11958. VRゲームにおける固有のストーリーラインの価値

11959. 同行二人/唯識の思想を通じたサイケデリック体験とVR体験の解釈


11949. 立つことの効能を感じて/今日の読書 


時刻は午前4時を迎えた。今日も早朝からすこぶる調子が良い。この調子の良さは、朝を含めた日中の読書を立って行うようにしたからだろうか。立っている間にはマッサージボールを用いたり、ここ最近は気温が暖かいこともあって裸足になってマッサージマットの上に立ったりしている。足裏をほぐしながらの読書と足裏のツボを刺激しながらの読書はこれまで以上に捗り、全身の血流も良く、睡眠の質もさらに高まっているように思える。夜はぐっすり眠れて朝はシャキッと起きれることは以前からだったが、その度合いもさらに高まっているのではないかと思うぐらいに、座ることをやめて立つことにしたことの効能を感じる。今日も食事と瞑想実践以外は基本的に立ちっぱなしで学術研究に明け暮れようと思う。


ここ最近はもっぱら意識哲学の探究に精を出しており、意識哲学につながるテーマについて閃くことを絵を描いていて表現したり、音楽で表現したりするようになった。意識哲学に関する閃きや洞察を言葉の形にすることが難しい場合に、絵や音楽で表現することはとても理にかなっていて、それを通じてさらに真理に近づいていくことができればと思う。学術書を通じて得られた事柄も、リサーチノートの執筆を通じて言葉の形にしていくだけではなく、絵や音楽でも形にしていこう。そうした工夫を最近行い始めている。


一昨日と昨日は風が強かったが、今日はとても穏やかな1日になるようだ。1日を通して微風が吹くだけのようで、気温も7度まで上がるので比較的過ごしやすい。土日に最低気温が1度や0度に下がるようだが、氷点下にはならず、最高気温は7度あるので寒さを感じることはないだろう。2月を目前に控えたここからの1週間も今日のような気温が続くようなので、過ごしやすそうで何よりである。


今日の読書の焦点はやはり意識哲学にあり、中でもインド哲学における意識論を引き続き追っていこうと思う。昨日の「インテグラル・サイケデリックラジオ」では西洋の意識哲学について扱うことができたので、このように東西の意識哲学の横断的な探究をこれからより一層行っていきたいと思う。今日の読書はまず最初に、昨日届けられた大乗仏教の唯識派に関する書籍の初読をしていく。それが終わったら、インド哲学の全体像がうまくまとめて解説された“An introduction to Indian philosophy: Perspectives on reality, knowledge, and freedom (2nd ed.)”という書籍の再読を行いたい。今のところはインド哲学の学派の中で注目しているものに絞って読書を進めているが、今後は関心の幅を広く取るなどして、これまで注目していなかった学派の思想に触れることを通じて、意識についてより多角的な探究をしていきたいと思う。フローニンゲン:2024/1/25(木)04:33


11950. 今朝方の夢


今日もまた実り多き日になるであろうという実感。実りを感じるだけではなく、良き種まきの日になるであろうという実感を早朝から感じることができている。こうした感情的な後押しを受けて、自分の取り組みは少しずつ着実に自らが求める真理に向かって前進している。

今朝方見ていた夢は、前職時代の人が多く登場するものだった。いくつかの断片的な夢のそれぞれで前職時代の人が結構登場していたのを覚えている。


夢の中で私は、前職時代の部門は異なるが仲良くさせてもらっていた少し年上の女性の社員の方と話をしていた。話の内容は職場近くの美味しいレストランに関するもので、私は大抵会社近くにやって来る弁当屋で弁当を購入してオフィスの中で昼食を摂ることが多く、近くのレストランについてはあまり知識がなかった。なのでその方からレストランについて色々と話を伺うことは今後の食事会における店選びの際に役に立つと思ったので有り難かった。

その方と話し終えると、同じ部門の4つ歳上の同期と話をした。彼はどういうわけか、私が卒業した大学を志望する高校生の小論文指導をしていた。その高校生がわざわざ九州から大阪までやってきて、同期の彼に小論文の指導を受けに来ていた。その熱意はすごいと思ったし、その熱意があれば合格の可能性は高いのではないかと思った。もちろん現実的には熱意だけではダメで、実力が求められるのだが、彼の小論文は非常に素晴らしいと同期の彼が述べていた。彼が相当に褒めるのでその高校生が書いた小論文を少し見せてもらったところ、確かに見事なできだった。自分が知らないような硬質な語彙が使われていたりして、1つ1つの言葉選びがまず見事であった。言葉選びに加えて、全体の構成と論の運びも素晴らしかったので、これは合格が期待された。しかし、そもそも自分の大学の入学試験に小論文などあったかと疑問に思った。あったとしても後期日程の試験であろうし、国語の問題の最後には要約問題はあれど小論形式ではないので、その高校生はどうしてそこまで小論文に力を入れているのだろうかと思った。純粋に小論文を書くのが好きなのかもしれないと思い、仮に入試でそれほどのウェイトを占めていなかったとしても、その好きなことを今後も突き詰めていって欲しいと思った。それは彼にとっての芸となり、芸は彼を助け、社会をより良いものにしていくことにもつながるであろうと考えていた。


この場面の後に閑話休題的に、オフィスの資料室で小中学校時代の友人(KS)と話をしていた場面があった。彼は資料を手に抱えていたが、突然新体操選手を彷彿させるかのような開脚を披露し、前後に広げた足が床にペタンとついて私を驚かせた。彼がそんなに体が柔らかいとは知らず、その柔らかさの秘訣について尋ねようと思ったところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2024/1/25(木)04:54


11951. ビョンチョル・ハンの執筆スタイルを参考にして/VR時代の書籍の価値


昨日は韓国系ドイツ人の思想家ビョンチョル・ハンの書籍を何冊か久しぶりに読み返していた。彼は多筆家であり、その一連の書籍は学術書に定評のあるPolity出版から出版されている。ハンの書籍が素晴らしいのは、私たちの生活や在り方に関連する哲学的に重要なトピックを哲学に親しみのない人にもわかるような表現で執筆していることだ。彼はもともと韓国人であり、ドイツ人の国籍を取得した背景があり、ドイツ語運搬能力が母国語の韓国語を上回っているほどなので、基本的に彼の書籍はドイツ語で書かれている。ドイツ語から英語に翻訳した翻訳者の功績もあって、彼の英語の書籍はとても読みやすく、今後自分が一般の人にも読んでもらえるような学術書を英語で執筆する際の最良のお手本だと考えている。その道の専門家しか読めない書籍ではなく、自分は多くの人に自ら学んだことを共有していきたいという思いがある。その思いを実現させるときに、ハンの執筆スタイルは大変参考になる。内容としても非常に現代的で、現代の実存的諸課題と真摯に向き合って思索を深めているあたりにも好感と敬意を持つ。自分の執筆スタイルとして、何か大著を1冊執筆するよりも、自分の関心と問題意識の赴くままに小さな書籍を数多く執筆していくことの方が望ましいように思える。自分のそうした性向とハンのそれは非常に近しいものがあるであろうということもハンの執筆スタイルに注目している理由である。


ここから人々が徐々にVRの世界を物理的世界よりも重視し始めたときに、書籍という存在はどうなるのだろうか。書物の価値は維持されるのか、毀損されるのか、それとも高まるのか。VRの世界において書籍が果たす役割はなんだろうかと考えさせられる。個人的には、例えば今Zoomで行っている読書会よりもVRの世界の中で行った方がより臨場感があり、参加者同士の一体感が醸成されやすいのではないかと思う。地球のどこに住んでいても今はもうZoomなどのコミュニケーション手段でやり取りができるが、そこでのコミュケーションは情報量的にはリアルで話をする時よりも随分と少ないはずである。ところがVR技術を活用することによって、まるで物理世界で話をしているかと思ってしまうぐらいの豊富な情報量でコミュニケーションができるようになるのではないかと思う。そうなってきたときには読書会を超えて、会社内でのミーティングの質も学校教育も色々と変革が起きそうである。話をVR時代の到来における書籍の価値に戻すと、人々がより長くVR世界の中で生きたとしても、書籍の価値は現在とさほど変わらない可能性が見えてくる。もちろん人々が書籍ではなくゲームの世界に大量に流れ、VRゲームの世界にどっぷりと浸かるのであれば書籍の価値が減退するかもしれないが、VR世界が主流になる時代が到来することをもってして、即書籍の価値が上下に触れることはないように今のところは思える。個人的にはVR世界の中でより臨場感を感じて書籍を通じた対話会を積極的に行っていきたいと思う。今後は、Zoomを通じた対談動画なども減っていき、VRの世界での対談などが増えていくのではないかと思う。そしてそこに多くの参加者が参加できるようになる日も近いのではないだろうか。そんな考え事をしていた。フローニンゲン:2024/1/25(木)06:01


11952. これからのVR技術に期待する2つのこと/サイケデリクスとVR技術   


意識とリアリティについて探究するための道具としてのVR技術の進展にはここからさらに期待をしたい。1つには、現状は大きなヘッドセットを装着しないとVRの世界に深く没入していけないが、ここからはその縮小化と軽量化に技術革新が向かっていくのではないかと思う。次のフェーズとしては、メガネぐらいの多きさになって欲しいと思うし、ゆくゆくはコンタクトレンズのような形や大きさにもなるかもしれない。コンタクトレンズのように目の中に入れることは自分はあまり好まないので、メガネぐらいまで縮小化と軽量化が進めば十分である。もう1つの方向性としては、AI技術がよりVR技術と掛け合わされていき、VR世界をAIが無限生成していく形で導入されることが今後増していくであろう。この物理世界においても絶え間なく変化が起こっているが、それと同じかそれを凌駕するぐらいの勢いでAIがVR世界に変化をもたらし、その世界を絶え間なく刷新・拡張していくことになるのではないかと思う。さらには、AIが生成する人間や人間以外の存在もその世界に誕生していき、VRの世界はさらに多様性と複雑性を増すかもしれない。すでにVRゲームの中にもAIの生成技術を取り入れているものがあるようなので、それがプレイステーションVR2でプレイできるのかは不明だが、VRゲームを含めたVRの世界には絶えず関心を払っておきたいと思う。それは意識とリアリティの研究において極めて重要なことである。サイケデリクスと同等の重要性を持つ存在としてVR技術を位置付けておこう。


サイケデリクスとVRをこれからの意識研究・リアリティ研究における同等の存在とみなすだけではなく、両者は今後どのような関係性を持つのかにも注目したい。親友のメルヴィンから教えてもらったところ、すでにVRゲーム中にDMT的な世界観、すなわちサイケデリック的な世界観を描くものがあるらしく、ゲーム作品へのサイケデリクスへの影響はすでに見られる。それだけではなく、VR世界の中で果たして私たちはサイケデリック体験を積めるだろうかという点も気になる。それが積めるような技術が開発されたら実に興味深い。サイケデリクスの世界観の影響あるなしにかかわらず、見方によってはすでにVRの世界はサイケデリック的だと表現することもできるだろう。今後は、サイケデリック体験とVR体験における現象学的体験の類似性と相違性に注目をしていき、両者が人類と社会に果たすべき意義と価値、そして役割について考察を深めていきたい。そうなってくると、昨日の考え方を早速変更しなければならないかもしれない。とにかく自分の直接体験が重要であり、今はサイケデリック体験を豊富に積んでいるフェーズだが、VR体験も豊富に積んでいく必要があるだろう。今のところ目立ったVR体験は美術館でしかない。1つはリトアニアのカウナスにある国立チュルリューニス美術館での体験と、もう1つはイタリアのフィレンツェにあるダンテ記念館での体験ぐらいしかない。前者の方がVR技術が本格的で、1つの大きな部屋に客を集めて、チュルリョーニスの絵画作品の中に入っていくプログラムに参加することとができたのは、今思えば幸運なことだったと思う。いずれにせよ、ここからはまずはVRゲームを体験してみて、そこからゲームではないVR世界の体験を積んでいきたいと思う。それに向けて色々とまた調査をし、実際にタイミングを見て必要な器具を購入しようと思う。フローニンゲン:2024/1/25(木)06:32


11953. 今朝方の夢の続き


時刻は午前7時を迎えようとしている。日の出は以前に比べて早くなったとは言え、午前8時を迎えないと明るくならず、今はまだ真っ暗な状態である。この日記を書き留めたら、今日はまず昨日届いた“Making sense of mind only: Why Yogacara Buddhism matters”の初読を行い、唯識派の思想について理解を深めていきたい。そこで得られたことを動員する形で、VR世界の関心から、デイヴィッド・チャーマーズの“Reality+: Virtual worlds and the problems of philosophy”を読み返していきたいと思う。どちらの書籍もここからの意識とリアリティ探究の鍵となるであろうし、サイケデリック体験とVR体験を紐解く際にも重要になるだろう。


サイケデリック体験やVR体験と類似する性質を内包した夢の体験。今朝方の夢についてもう1つ覚えている場面があるのでそれについても振り返っておきたい。


夢の中で私は、前職時代の上司の方と数人のメンバーとオフィスの外の見慣れない建物の入り口の前で話をしていた。その上司の方は同じ大学の卒業生でもあり、気さくでいつも自分に優しく接してくれていた。そんな上司が朝から酔っ払っているかのような雰囲気を発していて、面白く思った。よくよく話を聞くと、実際に酔っ払っているわけではなく、酔っ払いの物真似をしているとのことだった。その見事な物真似を受けて私も何か物真似をしようと思い、建物の前で暴れる酔っ払いを通報する一般人の物真似をしてみようと思った。手には携帯電話などなかったのだが、警察に酔っ払いが暴れていることを通報する仕草をしてみたところ、なんと本当に警察と通信ができてしまい驚いた。「もしもし、警察の方ですか?今、XXの通りの建物の前で酔っ払いが暴れていまして・・・」と携帯をかざす振りをして話をしたところ、手には携帯などないはずなのに、耳から警察の男性の声が聞こえてきて驚いてしまった。驚いですぐに私は電話を切った。通りの名前を伝えてしまったので、警察の方が本当にここにやって来るかもしれないと思うと、無駄足を運ばせてしまって非常に申し訳なく思った。芝居であってもそんなことはするべきではなかったと反省したところで上司の方を見ると、上司はもう酔っ払いの物真似をやめていて、素面の状態に戻っていた。もう一度警察にちゃんと電話をして事情を説明するか、何もしないままにその場を去るのか悩んでいたところで夢から覚めた。


今日の夢の中では前職時代に関わりのあった人たちが多く登場していたことが印象的である。これまでも前職時代の人が登場することは時折あったが、ここ最近はやはり夢の情景や象徴内容に変化があるように思われる。これは間違いなく体系的なサイケデリック実践を頻度高く行っていることに関係しているだろう。ここからVR世界にも参入し、VR世界の探索を始めると、自分の意識と無意識はどのように変貌を遂げていくのだろうか。そうしたことにも非常に関心がある。意識探究手段・意識変容手段として、サイケデリクスと瞑想に加え、VR技術を加えると、自分の中での三位一体の完成となるだろうか。フローニンゲン:2024/1/25(木)07:04


11954. トランスヒューマン的・ポストヒューマン的な生き方の加速/

VR技術やメタバースの英語学習への活用      


これから自分は何重のリアリティ生活を送るのだろうか。そのようなことに思いを巡らせながら朝の瞑想実践に耽っていた。こうして物理世界で日記を書いている最中も実は臨場感は物理世界になく、自分の知的世界にある。学術研究もまた肉体を通じて物理世界で行っているようでいて、確実にそれは知的世界の中での営みである。そこにサイケデリクスやVR、そしてメタバースなどが入って来ると、自分の生活は何重にも及ぶ異なるリアリティが織り成す世界での営みとなる。それらを含めて「メタリアリティ」と総称するならば、自分はそうしたメタリアリティの中で生活を営んでいくことになるのだろうか。いずれにせよ、多様なリアリティの中で多様な階層構造のリアリティにアクセスする形での日々はこれからさらに色濃くなっていくであろう。そんな予感がする。


自分の生活はこれからますますトランスヒューマン的・ポストヒューマン的なものになっていくような気がしている。サイケデリクスとVR技術の双方を生活に落とし込み、それを起点にして生活をしている人はそれほど多くないだろう。しかもそれらを現実逃避的に活用するのではなく、むしろそれらが開示する世界により現実さを見出す試みをしながら、同時にそれらの世界体験を学術的に研究しようとしている人は世界的に見てもそれほど多くないのではないかと思う。これもまた自分の使命なのだろうか。きっとそうなのかもしれない。ここからは随分とトランスヒューマン的・ポストヒューマン的な生き方が加速するだろう。物理世界での楽しみを残しつつ、それ以外での世界における楽しみを見出していく。多様な多階層的リアリティで生きてみることを通じて自分がどのように変化していくのか。自己の存在も世界観も、きっと大きな変容を遂げていくであろう。


VR技術やメタバースに関する卑近で実用的な活用の仕方について考えていた。それらは例えば英語学習において大きな力を果たすであろう。英語学習においてはイマージョン型の学習が最も効果的かつ効率的であり、これまでは外国で生活をしたり、実際の外国人と話をしなければなかなかイマージョンできなかったところを、単に動画や音声を視聴することを超えて、より臨場感のあるVR世界やメタバースの世界の中で英語を活用することがとても効果的な学習方法なのではないかと思う。親友のメルヴィンはオランダ人だが、VRゲームの言語設定は英語にしているらしく、例えばVRゲームを通じてもそこに色々なインタラクションやコミュニケーションが関与していればいるだけイマージョン学習ができる。とにかく学習上重要なことは臨場感であり、没入感なので、それをもたらしてくれるのがVR技術やメタバースの世界だと考えてみると、それらの実用的な使い方というものが見えて来るのではないだろうか。フローニンゲン:2024/1/25(木)09:37


11955. 意識に関する興味深い問い       


自分の中で大切にしたい問いは、「どうやって物質的な脳が非物質的な意識を生み出すのか?」という物質主義や物理主義が前提になった問いではなく、「どうやって意識は物質的な脳を通じて具体的な内容物を生み出すのか?」という問いである。あるいは、「どうやって普遍意識が個別の脳を選択する形で個別の意識を生じさせるのか?」という問いも重要かつ面白い。普遍意識がそもそも個としての純粋意識を生成していることそのものが実に興味深く、大きな謎である。それはこの宇宙においてある惑星がどのように誕生したのかを説明することに似ているかもしれない。この宇宙を大海に喩えたときに、ある惑星は泡沫のような存在である。そうした泡沫のような存在が巨大な海の中でどのように発生したのかを考えることとその問いは似ている。また、宇宙論と絡めれば、無限の宇宙の中でどうやってこの宇宙が誕生したのかを考えていくことと基本的には構造が同じかと思う。意識の誕生メカニズムの解明は宇宙の誕生メカニズムの解明につながり、逆もまた然りであることが見えて来る。


ひとたび普遍意識が個の意識を生成させたとき、今度はその個としての意識はフィルター役である脳を探さなければならない。そして脳を見つけてそこに付着することができたら、意識が脳をフィルターとして活用することができるようになる。そうして意識は様々な機能を発揮し、種々の内容物を生み出す。これまでの意識研究の大半は、アウトプットとしての意識の機能や内容物に注目する形か、アウトプットからその大本を見ていくアプローチを採用する傾向にあるが、その方法には限界がある。そうではなくて自分は、意識の根元にある純粋意識を一人称的な探究手法を通じて探究していき、一人称的直接体験データを集め、それを解析することを通じて上記の問いに答えていきたいと思う。そのようなことを考えた後にふと、こうした純粋に学術的な研究だけではなく、企業との協働を通じて哲学的なテーマを与えてもらえることは自分にとって魅力的であり続けており、それが学術研究の支えになっているし、跳躍台になっていることに改めて気づいた。とりわけここからは意識哲学の探究に焦点を当て、サイケデリクスとVR技術やメタバースに関して企業と協働していく中で様々な哲学的な問いを発見し、その問いに答えていくことをしていきたいと思う。フローニンゲン:2024/1/25(木)09:58


11956. 他我問題について考えながら 


他者が本当に心を持っているかどうか、犬や猫などの動物が本当に心のようなものを持っているのかどうかという通称「他我問題」について考えていた。この問題に答えるためのアプローチとしては、客観的な科学ではほぼ回答は不可能なのではないかと思う。科学にできることはその答えが出た後の答え合わせとしての種々の実証結果の提示であったり、その答えに対する種々の説明に留まるのではないかと思う。その理由としては、そもそもここで問われているのが自分ではない他者や生命体にあるであろう主観性を取り扱っているからであり、それを客観性の側からアプローチすることは乗り越えられない壁がそこに存在していると考えるからである。主観性に関する問題は主観性からアプローチをするか、間主観性からアプローチをすること以外に方法はないのではないだろうか。結局、他者が本当に心を持っているかどうかを証明するのは科学的なデータや数字の提示ではなく、その当人が他者が心を持っているかを主観性を通じて感じるかどうかという1人称的アプローチか、間主観的にそれを感じるかどうかという2人称的アプローチ以外には方法はないように思える。3人称的なアプローチではあくまでも心があることの証明に関するデータや数字の提示か、証明後の説明の提示に留まる。意識が主観的なものであるゆえに、それを主観的なレンズを通さずして客観的なレンズだけを通して解釈しようとするから行き詰まりに至るのではないだろうか。そんな問題意識が絶えずある。


物理学者のデイヴィッド・ボームが晩年に意識に関心を持ち、「ボームダイアローグ」という意識探究的対話技法を開発した背景には、科学の側からでは他者が本当に心を持っているのかの解明ができないと判断し、対話という間主観的なアプローチを通じて他者の心の存在を感じるためにその方法を考案したのではないかと思われる。現状、他者に心があるかを感じる方法としては対話や内観的な方法に限られるが、その方法の開発には科学は力を貸してくれるかもしれない。そう考えてみると、科学は他者に心が存在しているかの問題に直接答えてくれることはなかったとしても、その問題に取り組むための方法やテクノロジーの開発を通じて間接的にその問題の解決に貢献してくれるのではないかと思う。意識を研究する科学者の関心がそうした方法やテクノロジーの開発に向かってくれることを期待しながら、引き続き自分なりに他者や動植物たちに心のようなものがあることを証明するにはどのような方法があるのか、またどのような方法を作り出せるのかを考えていきたい。そこには大乗仏教で言うところの阿頼耶識や、ユングが述べる集合意識などの考え方が大きな役割を担い、問題解決のヒントを提示してくれるのではないかと思う。その他の解決方法として、他者と私が非二元になる直接体験をすることは極めて重要な方法であり、そうした体験を生み出すものとしてのサイケデリクスの活用があることを記しておく。フローニンゲン:2024/1/25(木)10:25


11957. 生まれ変わりについて


時刻は午後1時を迎えた。ここからもう1時間ほど学術研究に従事したら自宅を出発してジムに行ってこようと思う。今日もまた天気が良いのでジムまでの散歩はとても心地良いだろう。


仮眠の前に、Netflixの死後の世界を扱うドキュメンタリーを見ながら考えていたことを書き留めておきたい。端的には、生まれ変わりはあるのかどうかというテーマについてである。意識哲学の観点からすると、生まれ変わりなどないというのが自分の結論である。超心理学の観点での研究報告がそのドキュメンタリーの中で紹介されているのだが、そこでは“reincarnation(生まれ変わり)”という仰々しい言葉が使われおり、研究者も一般人もその言葉が何を意味しているのかをきちんと吟味していないように思える。確かに調査結果にあるように、ある個人が「前世」と呼ばれる世界で生きていた別の人が体験していたことを非常に正確に語り出す現象が確認されているが、それを「生まれ変わり」などど表現するのは実に浅はかなことかと思う。よくよくその現象を見てみれば、その個人と前世の個人は外見が完全に同一しているわけでも心や人格が完全に同一しているわけでもないのだ。両者は完全に別の個人であって、そこで起きている現象は記憶の想起にしか過ぎないというのが自分の意見である。意識哲学の用語で言えば、それはある個人の記憶を集合記憶から引き出しているだけなのではないかと思う。もちろん過去に生きた人の記憶が保存されている集合意識にアクセスし、非常に正確にその記憶を引き出してこれることは注目するべきことなのだが、それを「生まれ変わり」などど表現して議論するのは相当に馬鹿げているように思える。おそらくその個人は集合意識にアクセスしやすいような体質を持っていたり、集合意識にアクセスできる特殊な意識状態に入りやすい性質を持っているのだろう。そうした性質について調べていくことは興味深い。


「生まれ変わり」という言葉で乱暴にその現象を括ることは学術研究上も望ましくなく、一般人や社会にとっても望ましくないように思える。例えばかつてのオウム真理教の事件のように、生まれ変わりを信じたり、それを洗脳によって信じ込ませることによって、来世での生まれ変わりがあると思い込ませ、来世への生まれ変わりを期待して苦行に励んだり、今世の罪を浄化するためという名目の下に平気で殺人を犯すなどの帰結を導いてしまうことがあるのだ。また、生まれ変わりがあると信じることによって、今世での命を平気に捨ててしまい、自殺を助長する可能性もある。そうした社会的な帰結を考えたとき、生まれ変わりという言葉は死語にした方が望ましく、逆に「集合記憶へのアクセス」や「集合記憶からの記憶の抽出現象」などのより学術用語に近い言葉を当ては方が望ましいのではないだろうか。いずれにせよ、大海の中では2度と同じ泡は生じないということ、ヘラクレイトスの「同じ川に2度と入ることはできない」という格言にあるように、命は一回きりの非常に貴重なものであることを伝える意味でも、神話的な意味が付帯する「生まれ変わり」という言葉を下手に使わない方が良いというのが自分の考えである。フローニンゲン:2024/1/25(木)13:27


11958. VRゲームにおける固有のストーリーラインの価値


こうして昼食後に仮眠を取った後の今は早朝と同じぐらいに集中力がある。しかしよくよく午後からの集中力の度合いを観察してみると、午後3時頃からは読書から得られるものが減退し、洞察も考察も減退することがわかる。であればそこに別の活動を取り入れることを検討してみるのも悪くないと思った。確かにこれまではその時間帯から少し瞑想をして、再び脳をリフレッシュしてそこからさらに夕食までの準備の時間に向けて学術研究に励むことをしていた。だがその質を改めて吟味してみて、今後はその時間にVR世界を探究する意味でのVRゲームのプレイを取り入れてみても良いかと思った。まだVRゲームを購入するとは決めていないが、仮に購入することを決意したのであれば、ゲームをする時間は夕方の時間に限りたい。仮にゲームからの学びが大きくゲームを集中的に前に進めたいと思ったら夕食後に少しだけ時間を取ったり、休日の片方の午後に集中的にゲームを進めていくということを検討したい。やはり自分の最大の楽しみは学術研究なのであって、それをゲームが圧迫することのないようにしたい。そしてVRゲームをプレイして得られたことや考えたことはできるだけ日記に書き留めておこうと思う。まさにサイケデリック体験の振り返り日記を付けるのと意味合いは全く同じである。当面はサイケデリック体験のように毎回新たな気づきや発見をVR体験から得られるであろうから、それを書き留めておかない手はない。VR世界を哲学の対象テーマとして設定するのであれば、そこでの体験は必ず自分の言葉で書き留めておく必要がある。どこかのタイミングでいきなり考察したことを書くのではなく、日頃から小さく考察を書き留めておくのだ。書籍を書ける人書けない人、論文を書ける人書けない人の差は、結局毎日小さくコツコツと文章を書けるかどうかにかかっており、才能など別に大きな要因ではないというのが自分の意見である。いずれにせよ、仮にVRゲームの購入に踏み切ったら、ゲームをプレイする体験を通じて得られた気づきや発見を逃さないために、そして学びを極大化させていくためにも絶えず考えたことを文章の形に残しておこうと思う。VRゲーム機器への投資は自分の学びへの投資と言える。


もう1つVRゲーム関連で考えていたこととして、自分の自由意志と生成AIの相互作用によって生み出された固有のストーリーラインが価値を持ち、それがNFT化されたりする形で市場取引される時代がVRゲームの世界にやって来るかもしれないというものがある。現状は単にゲーム内のアイテムやキャラクターなりがNFT化されて取引されているようだが、そうしたものだけではなく、RPGものに採用されているような個人の意思決定が物語を変えていくゲームにおける固有のストーリーラインそのものに価値が付与されるようになれば、それもまたNFTの対象になって取引されるようになるのではないかと思う。基本的には私たちは他者の人生をなぞって生きることはできないが、ユニークな価値観や世界観を持つ他者がVRゲームの中で固有に生み出したストーリーラインを辿れるようにすることはとても面白いユーザー体験になるのではないかと思う。ゲーム実況的に三人称的視点でそれを眺めて楽しむのではなく、一人称的にそれに没入し、自分ではない誰かが辿ったストーリーラインを自分も追体験的に辿り直してみることに価値を見出す人もきっと出て来るだろう。それは別にあるゲームのストーリーラインを最初から最後まで辿るのではなく、ゲームの一場面を追体験できるようにするというのでも面白いだろう。それであれば別にRPGのジャンルに捉われることなく、スポーツゲームでもアクションゲームでもジャンルは問わずに多くの人に価値訴求できるのではないかと思う。例えば、珍プレーの動画を見て楽しむのではなく、自分がその珍プレーの当事者としてゲーム内のその現場に居合わせて体験するのとでは面白さがまた随分と変わって来るのではないだろうか。そのようなことを考えながら、価値とは何かに関する価値論の研究も念頭において研究を進めていこうと思った。フローニンゲン:2024/1/25(木)13:43


11959. 同行二人/唯識の思想を通じたサイケデリック体験とVR体験の解釈    

   

時刻は午後7時を迎えた。今日もまたジムで充実したトレーニングを行い、良い汗を流してきたので、夕食がとても美味しかった。ジムでのトレーニングと夕食の双方に感謝の念で一杯である。


ここ最近は自宅でずっと立って学術研究に従事しており、それが早速足腰の強化につながっていることを実感している。特に脹脛の筋肉が以前よりも増大しているのを実感し、第二の心臓があるその箇所がそうして鍛えられることによって、自然に身体にエネルギーが漲り、集中力の高まりをもたらしているように思う。筋肉の多くが集中している下半身を絶えず活性化させる意味でも立って過ごすことの効能を感じる。


今日のジムでのパーソナルトレーニングもまたなかなかにハードであった。今日はまず最初に大臀筋を鍛えるメニューから始まったのだが、そこから広背筋のトレーニングにせよ、大腿四頭筋にせよ、上腕二頭筋にせよ、いずれもハードなメニューをこなしていくことによって、筋力トレーニングを大いに楽しんだ。それらのメニューを振り返ってみたときに、きっと1人ではそれらをこなすことはできず、パーソナルトレーナーのエリーザがいてくれたからそれらのハードなメニューをこなすことができたのだと改めて思った。そこに同行二人的な意味で、そばにいて一緒になって道を歩んでくれる存在の大切さを思った。これは学術研究においても全く同じかと思う。ひとりでそれを行うことには必ず限界があるのである。確かに今の自分は日々粛々と自宅で研究に勤しんでいるが、毎週末のゼミナールの場や週に1回のラジオの場では、自分と共に歩んでくれる探究者の仲間がいるのである。そうした同志の存在の大切さを深く実感した次第だ。


ジムからの帰り道、大乗仏教の唯識派の思想体系は、世界の中でも最も複雑で高度な意識哲学体系の1つであることについて改めて考えていた。そんな思想体系を通じてサイケデリック体験を紐解くだけではなく、現代の潮流を鑑みると、その思想体系を通じてVR体験を紐解くことの重要性も見えて来る。意識とリアリティに関する二大潮流としてサイケデリクスとVR技術を捉えている自分にとってみれば、両者の体験を縦横無尽に咀嚼し、体験をさらに豊かなものしていく思想体系が必要で、唯識派の思想体系はその最有力候補の1つである。明日もまた唯識派の思想に焦点を当てる形で探究を進めていきたい。この思想には今の自分には知り得ないもっとずっと奥深い何かがあるという直感がある。フローニンゲン:2024/1/25(木)19:24

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