top of page

【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12551-12558:2024年4月21日(日)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12551. 一時帰国を起点にしてみる自身の変化/第31回のシロシビン・セッションに向けて

12552. 今朝方の夢

12553. 豆乳抹茶を作ってみて

12554. 栄養豊富な大豆抹茶生活の始まり/良遍の『唯識般若不異事』の読解に取り掛かり始めて

12555. 第31回シロシビン・セッションの振り返り(その1)

12556. 第31回シロシビン・セッションの振り返り(その2)

12557. 第31回シロシビン・セッションの振り返り(その3)

12558. 第31回シロシビン・セッションの振り返り(その4)


12551. 一時帰国を起点にしてみる自身の変化/第31回のシロシビン・セッションに向けて


時刻は午前6時を迎えようとしている。今、辺りがうっすらと明るくなっていて、小鳥たちが澄み渡る鳴き声を朝の世界に響き渡らせている。今の気温は2度非常に低いが、今日は天気に恵まれるらしく、晴れた空を拝むことができるだろう。晴れとは言え、日中の最高気温は10度ほどにしか上がらない。明日に至ってはなんと、4月も終わろうとしているのに最低気温が0度になる予定だ。来週末の土日からまた暖かくなるようだが、明日からの新たな週の平日は冷える日が続くことを覚悟しておこう。


昨日、前回の一時帰国は神道への目覚めを受けて伊勢神宮を参拝したことについて考えていた。今回は仏教への目覚めととりわけ唯識学への目覚めから、奈良に足を運んで様々な寺を参拝する。この2年間の間に自分の関心は着実に変化し、関心の変化と足並みを合わせて内面の深化が見られたように思う。もちろん内面を深めていく道に終わりはなく、まだまだその道の始まりの段階にいるに過ぎないという自覚があることは確かだが、いずれにせよこうして一時帰国という2年ごとに1回ぐらいのイベントを基準に自分の関心の変化と内面世界を観察してみると、双方において着実な違いが見られることが分かる。2年前とは関心も内面世界も異なった形で今年の秋に一時帰国できることが今から楽しみで仕方ない。11月を予定している一時帰国はまだ半年以上先のことだが、こうして毎日唯識学の探究に没頭していれば、半年はあっという間にやって来るだろう。


今日は第31回のシロシビン・セッションを行う。隔週に行うこのセッションは良いリフレッシュにもなっている。2週間ごとに自分を生まれ変わらせるという意味があり、その意味を考えると、リフレッシュのみならずリセットかつリスタートという効果もそこにあることが分かる。今日のセッションでは、新たに発見した中国の仏教音楽を流してみようと思う。475曲80時間ほどの音楽が収められたプレイリストで、相当にボリュームがあり、今回のセッションだけでは全ての曲を聴くことは到底できず、曲と自分との相性が良ければ、今後もこのプレイリストを活用したいと思う。今日のセッションに向けては、朝の時間帯にコーヒーを飲むことはせず、豆乳抹茶を作って見たいと思う。まだコーヒー豆の残りが若干があるが、今日はコーヒーは飲まずに豆乳抹茶を飲んでみて、セッションの入りの様子やセッション中の体験にもたらす変化を観察してみたいと思う。直感的に、コーヒーよりも豆乳抹茶の方がセッションの体験をより実りあるものにしてくれるような気がする。前回のセッションの最後に、今後はコーヒーではなく抹茶を飲めというメッセージを受け取ったこともあり、本日抹茶を朝に飲んでみて、今日のセッションで何が起こるかを楽しみにしたい。単に抹茶パウダーをお湯に溶かして抹茶として飲むのではなく、タンパク質の補給も兼ねて、オーガニックスーパーで購入してきた大豆をコーヒーミルで挽き、粉状にしたものを混ぜる形で豆乳抹茶を味わってみたいと思う。これも今日初めての試みである。フローニンゲン:2024/4/21(日)06:07


12552. 今朝方の夢      


今朝方の今の気温は2度と低いこともあって、早朝からせっせと暖房が入って部屋を温めてくれている。増上縁としてのそれに大変華奢である。明けてゆく朝空を眺めながら、今朝方の夢について振り返ってみたい。


夢の中で私は、大学のサッカーサークルの練習に参加するために、空を飛んで練習場に向かっていた。空を飛びながらふと気づいたのは、そこは日本のようでいてどこか日本ではない雰囲気を放っているということだった。完全に欧米でもなく、アジアのどこかの国と欧州のどこかの国と日本が混じったような雰囲気を持つ町の上を飛んでいた。少し高度を上げて勢いよく飛んで行こうと思ったので高度を上げたところ、雨雲の中に入ってしまい、体は濡れることはなかったが、とても冷たかった。夏であればそのひんやりとした感じが気持ち良いだろうと思ったが、今の季節に長く雨雲の中に留まっていると体が冷えてしまうと思ったので高度を下げることにした。気がつくともう練習場のある場所まで来ていた。しかし、今日初めてその練習場に訪れることになったので、厳密にどこで練習が行われているのかは分からず、とりあえず一度地上に降りて散策をすることにした。大きな公園の中にあるサッカーコートを探そうと歩いていると、偶然にもサークルの同学年の友人2人に出会った。彼らも練習に向かっているのかと思ったらそうではなく、別の用事があるとのことだったが、練習場の方向を教えてくれ田。どうやら今いる場所からまだ少し遠いようだったので、再び空を飛んで移動しようと思ったところで場面が変わった。


次の場面もまだ大学時代のサッカーサークルが関係したものだった。練習が終わり、アフターとして近所のレストランに何人かのメンバーで入った。一緒にアフターに参加してたのは先輩たちが多く、同学年としてはもう1人か、2人ぐらいしかその場にいなかったように思う。食事を注文し、食事を待っている間に就職活動の話となった。私はまだ大学2年生だったが、すでに就職先が決まっていた。そのことについて先輩たちは驚いていて、どのような就活体験だったのかを尋ねてきた。特に大学院に通っている数歳年上の先輩が私の就活体験に関心を持ってくれ、その方から色々と質問を受けた。私は特に特別なことをしたわけではなく、偶然に出会った経営コンサルティング会社にエントリーシートを提出したところ、あれよあれよという間に内定をいただいたことを話した。当初は経営コンサルティグ業界ではない業界の会社を希望していたのだが、これまた偶然でその業界の会社にエントリーシートを出すことはなく、結果的に速やかに内定をもらったその経営コンサルティング会社に就職することにした。そのような話をその先輩にしていた。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/4/21(日)06:20


12553. 豆乳抹茶を作ってみて


先ほど初めて豆乳抹茶を作ってみた。オーガニックスーパーで購入した大豆をそもそもコーヒーミルできちんと挽けるのか心配があったが、その心配は幸いにも杞憂に終わった。コーヒー豆よりも大豆の方が小さいのでコーヒー豆を挽く時よりも若干苦労はあったが、コーヒー豆を挽くこともまた前腕部分の筋肉を鍛えることにもつながっているので、そのトレーニングを兼ねて大豆を挽くことを楽しんだ。きな粉状になった大豆と抹茶パウダーをフレンチプレスに入れ、そこに80度ほどのお湯を加えてかき混ぜたところ、コーヒーミルで挽いた細かな大豆もコーヒー豆を挽いた時と同じくフレンチプレスの下に沈殿していった。コーヒーの豆を粉末状にして沈澱したものももちろん料理やお菓子作りに活用できるらしいが、基本的にこれまで処分していた。しかし大豆に関しては、一物全体という考え方があるように、沈殿した残り滓にも栄養が豊富に含まれているし、それを食することができるので、それも残さずいただいた。今朝方の気温は2度と低く、まだまだ寒いので、フレンチプレスに入れたままだとどんどんと豆乳抹茶が冷めてしまうと思ったので、コーヒーを保温性の高い魔法瓶に移していたように、豆乳抹茶も魔法瓶に移した。そして今それを一杯いただいてみたところ、豆乳と抹茶の組み合わせは抜群で、どちらも100%の素材のため、味も大変濃厚であった。おそらく蜂蜜を加えると甘さが加わるのだろうが、今のところブラックコーヒーを楽しむかのように、濃厚な豆乳抹茶を楽しんで行こうと思う。もう直感的に、これまで飲んでいたフレンチプレス1杯のブラックコーヒーよりも、フレンチプレス1杯の豆乳抹茶の方が遥かに栄養価が高く、なおかつヘルシーであると感じる。朝の豆乳抹茶をこれから継続して飲んでいくことを通じて、心身にどのような変化が見られるか、その観察も合わせて楽しんでいこう。フローニンゲン:2024/4/21(日)07:32


12554. 栄養豊富な大豆抹茶生活の始まり/

良遍の『唯識般若不異事』の読解に取り掛かり始めて   


時刻は午前8時半を迎えた。今日は天気に恵まれ、輝く朝の世界が広がっている。今日はそのような世界の中で第31回のシロシビン・セッションを実践していく。早朝に淹れた抹茶は、市販の豆乳を加えているわけではなく、大豆をコーヒーミルで挽き、大豆の皮や搾りかすも全て残さず抹茶と和えているので、「大豆抹茶」と命名した方が正確のように思えたので、今後はそのように呼びたいと思う。大豆抹茶はとても美味で、抹茶のリラックス効果もあって、今とても穏やかな気持ちでいる。大豆は「畑のお肉」と呼ばれるほどに栄養価が高い。大豆の皮やしぼりかす(おから)には食物繊維やカルシウなどのミネラルが豊富で、三大栄養素の炭水化物、たんぱく質、脂質をバランスよく含んでいるため、スーパーフードとも言われる。そんな大豆には、認知症の予防、脳梗塞・脳出血の予防、ストレス軽減、疲労回復、理解力・記憶力・集中力の増進など、様々な効果がたくさんある。 また、コレステロールを溶かして、血管の内側をきれいにする効能や、肝臓の機能を整える効能もあるらしいので、ここから毎朝手作りの大豆抹茶をいただくことによって、それらの効能を実感したい。


大豆抹茶を片手に、鎌倉時代の学僧良遍の『唯識般若不異事』の訓読文の解読かつ音読を進めていた。昨日は、『唯識空観』を一言一句、読み方や意味が分からない漢字を調べながら読解を進めていて、今日は『唯識般若不異事』に取り掛かった。今、朝のこの読解が生き甲斐になっている。良遍という鎌倉時代の学僧が残した文章を現代語訳されていない生の形で時空を超えて触れられることに心底感動を覚え、一言一句ゆっくりと読み方と意味を確認していくことによって、そこに書かれている意味内容が立ち現れていくことに震えるほどの感動を覚えている。自分は歴史学者や文献学者ではないが、彼らが古文書と向き合い、そこに書かれていくことを一つずつ紐解いていくことに伴う喜びがどのようなものなのかが分かるような気がしている。今後も毎朝無理することなく、少しずつまずは良遍の残した作品の解読を進めていきたい。その過程の中で訓読文に慣れていくことができるだろう。もうこの段階で、中高時代に習った訓読文の読解の感覚がある程度取り戻されているのを感じる。やはり自分が尊敬する人の文章を理解したいという強い思いからその人の文章を解読する作業に当たっていくと、自ずから訓読文の読解力が磨かれていくのだと実感する次第だ。この体験から改めて、学習とは兎にも角にも心が動かされるものでなければならず、感動を根源にして行うべきものであるということが見えてくる。そうした学習が最も有機的で、最も効果的かつ効率的なものでもあるのだろう。深層的な学習の根底には感動という感情が必要である。そのようなことを改めて思う。フローニンゲン:2024/4/21(日)08:42


12555. 第31回シロシビン・セッションの振り返り(その1)    

   

時刻は午後6時を迎えた。今、晴れ渡る穏やかな夕方の空を眺めながらこの日記を綴っている。先ほど第31回のシロシビン・セッションを終えての夕食を摂り終えた。いつものように今日もここからゆっくりと今日のセッションを徒然なるままに振り返りたい。今日は、完全乾燥させたシロシビン・マッシュルームを5.2gほど摂取した。前回は5.1gの摂取で、今回と同じ品種のものを摂取したのだが、前回と今回でこうも体験内容が違うことに改めて驚く。服用量としてはほぼ同じであるのに、自分の心の状態いかんによってここまで体験内容に違いを生むことは特筆するべきことである。前回はパソコンがフリーズしたり、突然電源が落ちるような不具合がセッション数日前からあり、パソコンの寿命を気にしてのセッションであった。そうした外的要因による懸念事項が結果的に命の大切さについて改めて考えさせてくれるセッションだったというのが前回のハイライトである。前回はさほど深い意識状態に入ったという感覚はなかったが、今日は違った。これまた相当に深い意識状態に入り、前々回と同様に、脳髄と精神が完全に空(から)になる体験をした。それは「絶対0体験」と命名してもいいようなもので、思考を含めた自然言語が入り込む余地が一切なく、およそ言語を司る人間としてはあり得ないような、いや本源的には動物としてのヒト科に立ち返るような体験である。あるいは、自然言語を操らない人類の祖先としての霊長類の動物に立ち返る体験と言ってもいいかもしれない。いずれにせよ、これが生まれ変わりの鍵を握る。これが心身の完全なるリセットと再蘇生を実現する鍵である。そのような体験がまずあったことを書き留めておく。


今日は朝から良遍の残した書物の訓読文を一言一句解読していく生き甲斐としての取り組みにまず従事し――本日取り組んだのは『唯識般若不異事』であった――、そこからは数日前に受け取った『日本中世の唯識思想』と『唯識学研究』の上下巻の初読を終えた。気が付けば午前10時を迎えていたので、そこからセッションに向けて調理を始めた。今日は10:28にシロシビン・ドリンクを摂取し終えたのだが、そこから体験は速やかに始まった。およそ15分後には例の感覚がやって来て、「あぁ始まったな」と思ったので1階の寝室に向かった。今日は中国のBuddhist Musicのプレイリストをかけたのだが、感覚として合わないことが分かり、また違うBuddhist Musicのプレイリストをかけたが、これまたダメだった。それは以前はセッションの体験を深めてくれるものだったが、もう卒業を迎えたようで、より静かでシンプルな自然音のプレイリストに落ち着いた。これは朝から晩まで普段書斎で流しているもので、結局このシンプルな音楽が一番望ましいのだなと思い、次回からもこのプレイリストを採用しようと思う。この自然音に全てを委ねる形でセッションは宇宙の流れのように深まりを見せていった。フローニンゲン:2024/4/21(日)18:25


12556. 第31回シロシビン・セッションの振り返り(その2)


ここのところ、毎回のシロシビン・セッションは浄化の旅であり、真理に近づいていく旅となっている。今日もまた様々な形で浄化が起こっていった。シンプルには肉体の根本からの浄化が本当に大きなことである。この堕落した文明に生きる人間として、私たちは知らず知らず不要なものを心身に溜め込んでいく。それは煩悩として、汚れとして付着し、それが苦しみや迷いの元となり、またそれらを増大させる。結局、シロシビン・セッションとは自分にとって、そんな現代文明が私たちにもたらす汚れを浄化させていく取り組みなのだということが見えてくる。自分の心身、そして生活はますますシンプルなものになっていく。世界は複雑性を増していく一方で、自分は単純性を増していく方向に向かっている。現代人が心身共に病んでいくのは、自らの許容量を超えた形で複雑性増大競争に自己を晒すからである。それによって心身は不必要にエントロピーを増大させていき、心身の自浄機能を超えた形での複雑性に耐えられなくなって心身の種々の病にかかる。そんなメカニズムが見えてくる。結局それは文明の失敗なのであり、文明を運営する人間の心の構造的な欠陥に依拠したものであることが分かる。とにかく人間は自我執着心が強く、自我を防衛拡大する方向に絶えず生きているのである。それが諸悪の根源であり、その点に自覚的にならなければ、その個人は滅び、社会は滅び、文明は滅ぶ。問題の根源は非常にシンプルなのであり、あとはその問題とどのように向き合っていくかなのだ。ここに孕む困難さは、エゴまみれの人間が自らのエゴと向き合わなければならないということである。言い換えれば、ポンコツな生き物が自らのポンコツ性と向き合わなければならないという至極難解な問題があるのである。この問題の解決のためには、やはり人間以外の手を使わなければならないのだろうか。AIを含めたテクノロジーがその担いに手になるだろうか。仮に人間以外の手に頼らないというのであれば、エゴを焼き尽くすシロシビンを含めた各種のサイケデリクスを活用するしか打ち手はないように思えてくる。とにかくポンコツな人間を信用して人間の自助努力でなんとかしようとしてはならない。人間はそれほど賢くないし、自我は私たちの知性よりも遥かに狡猾なのだから。


どんどんとシンプルになる生活。今日から、明日からそれを心がけていく。宇宙と一つになること、宇宙の摂理に従うこと。宇宙と溶け合う生き方を。今日もそれを大切にして生きよという知覚体験を何度もした。1つとても印象的だったのは、人間は人間であることを演じているという事実である。それには思わず笑ってしまった。そうなのだ。私たち人間は、人間であることを演じているのである。それは本当に滑稽極まりない。しかもほぼ全員の人間がそのことに気づいていないのである。自らが人間だという深層的な自覚なしに、人間としての振る舞いを無自覚的に行っている人間の姿はとても滑稽であり、結局この地球上には高度な知能を持つ生き物はまだ出現していないということが見えてくるという体験をした。宇宙はまだ進化の過程であり、生命もまた進化の過程を歩んでいるのである。私たち人間は、そんな歩みの途中に一刹那生まれただけの存在に過ぎないのである。その自覚がどれだけの人にあるだろうか。人間であることを自ら無自覚的に演じているということに気付けない人にはきっとそのような自覚を持つことは土台不可能であろう。人類は次なるより高度な生命への橋渡し的な存在に過ぎないのである。宇宙の長大の時間からすればきっとそうだと言えるだろう。フローニンゲン:2024/4/21(日)18:44


12557. 第31回シロシビン・セッションの振り返り(その3) 

 

時刻はゆっくりと午後7時に近づいているが、サマータイムに入って1ヶ月弱経とうとしているフローニンゲンにおいて、この時間帯はまだまだ明るい。日本でいうところの午後4時ぐらいの感覚である。


残酷な真実。真実は時に残酷である。今日のセッションの終わりに知覚されたこととしては、一流と言われるアスリートも、一流と言われるビジネスパーソンも、詰まるところよく管理され、よく調教された家畜と同様であるという真実である。彼らはかつてのローマ時代における闘技場での見せしめのグラディエーターと大して変わらない存在である。とりわけアスリートは、スポーツビジネスに取り込まれる形で、心身共にその競技に最適化されるようによく管理され、よく調教された存在である。パフォーマンスの最適化なる言葉に端的なように、彼らの生活や生き方は、闘技場における剣闘士と本当に何も変わらないという残酷な真実が見えてくる。言うまでもないが、ここではそのようなアスリートたちを批判しているわけでもなく、スポーツビジネスを批判しているわけでもなく、端的にはアスリートという職種やスポーツビジネスなるものを生み出してしまう人間の心の構造的な欠陥について指摘しているだけである。結局それらは人間の自我執着心と種々の煩悩が生み出したものなのだ。ゆえにアスリートもスポーツビジネスという双方の存在者は、人間の自我執着心と煩悩の犠牲者なのである。そこからビジネスパーソンという人種に目を移しても全く同じことが当てはまる。彼らもまた生産性やパフォーマンスを高めことに尻を叩かれる犠牲者なのだ。彼らも等しくよく管理され、よく調教された存在である。いや厳密には、人しての尊厳が担保され、表面上心身の栄養が享受できるような存在は、ごく一部のエリートアスリートとエリートビジネスパーソンだけなのかもしれない。それ以外は、生命倫理を疑いたくなるような、劣悪な飼料を与えられた家畜と大して変わらない生活を送っているというのが真実ではないだろうか。とにかく目覚めることである。そうした真実に目覚めることである。それはもはや疑いようのない事実としてこの世界で生じていることである。人類は等しく家畜化の方向に向かっているのだ。そのことに目覚め、人は自らの脆弱性と向かい、自らを少しでも清め、高き存在に向かっていくべきではないだろうか。少なくとも自分はそのように生きたい。自分がどれだけ劣悪低劣な人間かを自分はよく知っている。その真実から目を背けないこと。その真実を直視し、真実に大して垂直に立つのである。自分以外のその他全人類がこの幻想的文明世界という夢の世界で眠っていたとしても、自分は1人でも目覚めていく。1人でもそのような夢の世界から外に出ていく。それはきっといつかどこかで後に続く人を生む契機になってくれるものと信じたい。後に続く人が未来永劫生まれなかったとしても、自分はこの虚妄的文明世界から目覚める道を歩む。断固としてその道を1人でも歩く。フローニンゲン:2024/4/21(日)19:00


12558. 第31回シロシビン・セッションの振り返り(その4)


輝く夕方の空。輝く大地。輝く木々。輝く風。全てが輝いている。全てが固有の輝きを放っている。そう言えば今日のセッションの中でまたしても抱腹絶倒体験だったのは、自分の心も肉体も常に宇宙と融即不離の関係にあるという事実である。これもまた覆すことのできない事実であり、真実なのだ。真理というには大袈裟で、それでいてほぼ全ての人間が見落としているであろう事実ゆえにそれは形容しにくいのだが、いずれにせよ真実である。基本的に私たちは意識というものを働かせて、肉体を三次元的に捉えているが、肉体は次元性のない宇宙、あるいは多次元の宇宙に折りたたまれていくという事実と言えばわかりやすいだろうか。そして、それは肉体だけではなく、心また宇宙の折りたたまれていき、宇宙と同化するのである。これはあの体験を通過すればそれ以上に表現できないほどにわかりやすい表現だと思われるが、いずれにせよ私たちは本来溶けているのである。宇宙の中に。それに気づいている人がどれくらいいるのだろうか。そのことに自覚的に日々生きている人がどれくらいいるのだろうか。この体験の最中思ったのは、空海であった。彼はきっと宇宙と融即不離の存在として生きていたのではないかと思う。老子もその境地に近いだろうか。タオは幾分道半ばのように思えるが、いずれにせよ宇宙と融即不離の体験があったことはとても印象的だった。


再び戻ってきたい話題としては、何を取り入れるかではなく、何を取り入れないかが大切であるというテーマである。加算的な現代社会の風潮に対して、減算的な生き方を大切にしたい。身体的な栄養としての食事も、知的な栄養としての読書も、シンプルにしていくことが重要である。後者について言えば、もう自分は真理だけを栄養にしていく。真理を取り入れ、真理を通じて、真理として生きていく。学術研究の一環として行う読書においては、もう真理を扱ったものだけに触れるようにする。今はまさに恵まれた状況にある。というのも、唯識学は真理をこそ対象にしているからである。真理の世界を扱い、私たちがどのようにすれば真理に触れ、真理に辿り着けるかを説いているのが唯識学なのだ。真理の世界に住する道を説く唯識学をこそ精神的な養分として取り入れていく。真理に触れず、真理を説かない書物には触れないようにすること。そうしたものに触れれば触れるだけ、私たちは自己の無明さを増大させ、真理に暗くなっていく。そのような道は絶対に歩まないようにする。真理を照らす真理の道をこそ自分は邁進していく。フローニンゲン:2024/4/21(日)19:16

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page