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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12514-12520:2024年4月15日(月)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12514. 影像鑑賞実践

12515. 今朝方の夢

12516. コーヒーから抹茶への移行/夢の中の鯖について

12517. 夢の中の鯖が示唆すること

12518. 阿頼耶識から生じる全ての内的運動/言葉の制約を言葉で超えていく道を示す唯識学

12519. 母国日本への眼差し

12520. 充実した筋力トレーニングを終えて


12514. 影像鑑賞実践       


今朝も早朝から賑やかに小鳥たちが鳴き声を上げている。時刻は午前6時半を迎えたので、辺りはもう随分と明るい。今日からはまた気温が低くなり、早朝に起床した時には寒さを感じた。2階の書斎の気温も下がっていて、今は暖房が入っていないが、また自動で暖房が入り、部屋を暖めてくれる形になるだろう。今の7度の気温から日中は11度まで上がる。どうやら今日は昼過ぎから風を伴う雨が降るようなので、雨の中ジムに行ってトレーニングすることになりそうだ。


今日からまた新たな週を迎え、気持ちを新たにしてライフワークに取り組んでいこう。ライフワークとしての探究活動をこうして日々落ち着いて取り組めることの幸福感を噛み締めながら、一歩一歩前に進んでいきたい。そうした形で充実した日々を過ごしていれば、自然と時が経ち、秋の一時帰国もあっという間にやってくるだろう。今回の一時帰国では兎にも角にも奈良に訪れることが楽しみで仕方ない。そこにはゆったりと5泊6日の滞在をしようと思っている。奈良の興福寺は法相宗の大本山というだけではなく、加藤家の源流にある藤原家の氏寺という自分にとっても縁のある寺であるため、尚更そこを訪れるのが楽しみである。2年ぶりの一時帰国はまた自分に新たな刺激をもたらし、それは変貌剤としての役割を担いながらさらなる変容の後押しをしてくれるに違いない。


唯識学の観法実践を通じた心の成長について、昨日改めて影像鑑賞を日常ありとあらゆる場面で楽しむことを心掛けていこうと思った。心内に映るありとあらゆる影像をありのままに見つめていく観察行を自らに課していく。確かに、影像が生まれた根元まで遡ることができたら理想であるが、影像を絶えず観察する行の良さは、それを続けていけばいくだけ、瞬間瞬間に湧き上がる影像に囚われることを防いでくれる働きをすることが期待される点である。おそらくそうした新たな心の回路ないしは筋肉が開発される。逆に言えばそうした回路や筋肉がないから影像に囚われてしまうのである。この影像観察行を徹底していくことを日々心掛けていく。それは意図を超えた自然体での実践となる。そこに叡智が宿るであろう。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/4/15(月)06:46


12515. 今朝方の夢        


朝の世界に響き渡る小鳥たちの鳴き声に耳を澄ませながら、今朝方の夢について振り返っている。今朝方は1つ印象に残る夢を見ていた。


夢の中で私は、母方の祖母の江東区のかつてのマンションにいた。マンションの部屋の中にいたのではなく、マンションの外にいて、階段のところで小中学校時代の2人の友人と話をしていた。そのマンションの向こう側には隅田川があって、便利なことにマンションの階段から釣りができた。階段から釣り竿を通じて餌を隅田川に投げ入れる形で釣りができたのである。どういうわけかそこで鯖を釣ることができ、鯖を釣って塩焼きか味噌煮にしたいと思っていた。釣竿を垂らしてしばらくすると、当たりがあった。幸いにも狙っていた鯖を釣ることができた。しかも偶然ながら同時に2匹掛かっていた。どうやらその2匹は夫婦のようで、これから繁殖に向けてどこかに移動するようだった。それを思うとその2匹を食べるのは気が引けてしまい、とりあえず釣り上げた2匹をそれぞれ水の入ったビニール袋に入れ、ビニール袋を網に入れる形で川に戻した。そうすると、川の中で鯖が呼吸できる状態となり、生かしておくことができたのだ。そこからも引き続き釣りに興じていると、2人の見知らぬ中年女性に声を掛けられた。何やらマンションに併設された隣のビルに行きたいらしく、そこへ行くにはどうしたらいいのか教えて欲しいとのことだった。外観的にすぐに道が分かりそうなのだが、実際にはマンションの住人でさえ迷ってしまうぐらいに複雑な経路を辿らないと隣のビルには行けなかったので、行き方を教えることにした。いざ口頭で説明してみると、説明が非常に複雑になったので、この際一緒にビルまで行った方が早いなと思ったので2人を案内することにした。2人をビルに無事に送り届けて再び釣り場に戻ろうとしたら、大学時代のゼミの親友にばったり会った。彼はパイロットとして活躍していたのだが、思うところがあってキャリアチェンジしようとしているらしかった。何やら宅建の資格を取得してその資格を活かして仕事をするとのことであった。独立するのかと尋ねたところ、独立ではなくてどこかの事務所に勤務する形でチームとなって仕事をしたいと述べていた。彼の中では司法書士などの資格も脳裏をよぎったそうだが、最終的に宅建の資格取得が自分にとってベストだと判断したようだった。そこから彼は私に資格取得に向けた勉強方法について質問をしてきた。私は宅建の資格を取得しているわけではないが、これまで様々な学問分野を独学してきた経験を見て、その勉強法が資格取得にも活かせると彼は思ったようだった。私は何一つ出し惜しみすることなく自分の勉強法を伝えたところ、彼は大変満足そうな笑顔を浮かべ、お礼を述べてその場を去っていった。彼が去っていった後、再び釣りをするのか、それとも自分もまた勉強を開始するのか考えることになり、釣った鯖を逃して勉強することにした。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/4/15(月)07:00


12516. コーヒーから抹茶への移行/夢の中の鯖について


午後から本当に強風を伴う雨が降るのか信じられないぐらいに穏やかな朝の世界が広がっている。風はほとんどなく、青空が広がっていて、青空の下に小鳥たちが木々に止まって美しい鳴き声を上げている。平穏極まりない朝の世界が佇んでいる。その一方で、今朝はやはり相当に肌寒い。先ほど部屋の中にいた1匹の虫をキッチンの窓から外に逃したのだが、その時にキッチンの窓を開けた時にとても冷たい空気を感じた。およそ4月のそれとは考えられないぐらいの冷たさであった。フローニンゲンが本当に冬から脱出するのはまだしばらく時間がかかりそうである。


今使っているコーヒー豆を使い切ったら本格的に抹茶に切り替えていこうということをすでに述べていたかと思う。これまでも正午過ぎには一切コーヒーを飲まず、午後には水だけで生活するようにしていた。今は午後の仮眠を終えてから抹茶を1杯だけいただくようにしている。今後は朝のコーヒーが抹茶に変わっていくという移行期間の只中にいる。色々と調べていると、なんやかんやでコーヒービジネスに取り込まれ、知らず知らずのうちにカフェインを過剰摂取しており、カフェイン漬けになって感覚が麻痺している様子が窺える。自分も別に午後にカフェイン入りのコーヒーを飲んでもぐっすり眠れるのだが、それは誇るべきことでもなんでもなく、ただ単にカフェインによって神経回路が麻痺しているだけである。カフェインに完全に順応してしまった身体があるだけなのだ。それをもう一度リセットし、身体機能を根元から呼び覚ます意味でコーヒーを完全に絶って抹茶に切り替えようと思っている。もちろん抹茶にもカフェインは含まれるが、抹茶に含まれるテアニンがカフェインを相殺してくれるような働きをするらしく、カフェイン漬けの状態から脱却していくことが実現されていくであろう。また、抹茶にはカテキンなどのコーヒーにはない健康に良い成分がたくさん含まれており、新たな身体の獲得を通じた新たな心の獲得が実現されるだろう。もちろん抹茶も他の全ての食材と同じく飲み過ぎは禁物であり、分けて飲むとより効果的とのことなので、早朝に1杯、そして午後の仮眠後に1杯飲むようにしてみようと思う。それ以外は水を飲んで過ごす。やはり最終的に一番健康に良い飲み物は水に尽きるのではないかと思う。


今朝方見ていた夢の中で鯖が現れたことについて考えている。夢の中の自分は釣った鯖を塩焼きか味噌煮にしようと思っていた。ヴィーガンの自分が魚を食べるというのは考えられないことなので、夢の中の自分が魚を食べようとしていたことについて考えていた次第である。確かに自分はオランダではヴィーガンだが、日本に帰ると旅先のホテルで魚料理がでされたらそれを有り難くいただくようにしている。また、実家でも同様に、父が魚料理を作ってくれたらそれを有り難くいただくようにしている。自分の阿頼耶識にはかつて肉や魚を食べていた時の記憶と業がまだまだ眠っており、それが夢の形になって現れてきたのかもしれない。また、一昨日に秋の一時帰国に向けてフライトを調べていたことが手伝って、日本を訪問するイメージが形成され、かつて魚を食べていた頃の記憶が自然と思い出されたのかもしれない。流石に鯖が持つシンボルの意味は何かわからず、ドリームディクショナリーに記載もないと思うが念のため調べてみよう。何故に鯖が夢に登場し、鯖は何を象徴しているのだろうか。フローニンゲン:2024/4/15(月)08:02


12517. 夢の中の鯖が示唆すること  


夢の中の鯖が何を象徴しているのかやはり気になったのでドリームディクショナリーで調べてみたところ、その意味があったので驚いた。そして正鵠を射ているような解説であったのでなお驚かされた次第だ。まずすぐさま目を引いたのは、鯖そのものではなく、鯖を釣る夢を見るというのは近い将来に旅に出かけるという意味であることが書かれていたことであり、まさにその通りであると思った。直近で言えば、この秋に日本に一時帰国する計画をすでに立てており、そのためのフライトを検索していたこともあってまさにその通りである。また鯖を釣る夢は秋の一時帰国だけではなく、そこから少し先の将来の旅を想起させるものでもある。昨日の日記で書き留めていたように、今インドへの関心が高まっており、インドへ旅に出かけてみたいと思っていたし、インドで暮らしてみたいとさえ思うようになっている。仏教が誕生したその地で、その風を感じながら仏教研究にいつか勤しみたいという思いが少しずつ募っているような状況である。インドで生活することが実現するかどうかは別として、インドへの旅はすでに視野に入っている。また、近い将来必ずや欧米のどこかの大学院に所属して仏教研究をするという展望も開かれているので、鯖を釣る夢はそれに関係するものなのではないかと思う。


その他の意味としては、集団の鯖ではなく、1匹の鯖を見る夢は力強さや勇敢さを象徴しているとのことだ。自分が何を望み、何を実現したいのかを知る能力が自分にあることを暗示しているらしい。確かに今の自分には、もう明確なライフワークがあることを認識し、それに日々従事するという意志の力強さを感じるし、智慧と慈悲を世界に届けるということに従事し続ける気骨さも感じる。また、自分が何をこの人生に望み、何を実現したいのかも明確であり、それは学術的な研究におけるライフワークと実践上におけるライフワークの観点からもはや明確に認識している自分がいる。


最後に、鯖を食べる夢は近々誰かが自分の元を訪れることを示唆しているらしい。夢の中の自分は鯖を食べることをしなかったので、近々誰かが自分のところにやって来ることはないのだろう。むしろ日本から誰かが自分のところにやって来るのはあまり歓迎できず、願ってもないことである。一方で、物理的に誰かが自分のところへやって来るのではなく、何か自分にとって大切なことを教えてくれる人がスッと人生の中に現れることは歓迎したい。鯖を見た夢がまさかこのような形で多岐に渡って意味を開示してくれるとは思いもしなかったことである。やはり夢には大きな力を感じる。阿頼耶識に眠る種子が梱包する意味は果てしなく広く深い。フローニンゲン:2024/4/15(月)08:21


12518. 阿頼耶識から生じる全ての内的運動/

言葉の制約を言葉で超えていく道を示す唯識学


まず最初に阿頼耶識があって、それが全ての内的現象の生起及び運動を規定すること。だからこそ阿頼耶識は初能変と言われるのである。全ては阿頼耶識から出発し、内的運動の全てが阿頼耶識がからもたらされる。外国語学習においても、言葉というものがそもそも阿頼耶識を起点にして生じる言語運動という性質を持っていることを理解すれば、外国語学習における要は言語運動をすることだということが見えてくる。テキストブックを単に眺めていても外国語の習得などできないのだ。実際に言葉が生きて運動するコンテクストに身を置いて、それを運搬する運動に従事しない限りは外国語など習得できない。そのようなことを改めて考えていた。


確かに唯識学において、言葉は仮立(けりゅう)のものであり、仮設(けせつ)のものであるが、言葉そのものを唯識学は決して批判しない。人間は言葉に囚われ、虚妄的幻覚を絶えず見ている生き物であり、さらには真理は言葉を超えたものだが、唯識学ではそうした人間の性を言葉を通じて乗り越えていく道もきちんと提示する。言葉を媒介させない観法行も提示する一方で、言葉を媒介させた観法行も提示するのが唯識学の実践上における見事な点かつ親切な点かと思う。人間はどこまで行っても言葉を離れることはできないのであるから、言葉の限界や言葉の虚妄性だけを説くのはほぼ無意味である。そうした限界や虚妄性を理解した上で、それらをどのように乗り越えていくのかの実践を提示しなければ人々に解放をもたらすことなどできず、その点において唯識学は誠に親切な道を私たちに提示してくれていると思う。言わばそれは常識的な道の提示だと言えるであろう。唯識学の思想は一般には常識から離れたものだと考えられがちだが、それは言葉に依然として囚われた凡夫の視点から見るとそのように見えるだけである。実際に修行を重ねていけば、その教えが非常識的なものから至極当然な常識的なものに転換する瞬間が必ず訪れる。それを促す実践が言葉を媒介させた種々の観法行である。唯識学においても他の仏教学派と同じく真理の到達を目的とするが、真理に至る道としてここでも言葉を通じた方法を提示する点に親切心を感じる。真理、すなわち真如は絶えず離言(りごん)的であるが、しかし真如の世界を垣間見せ、それに触れさせるためには依言(えごん)的なアプローチを採用することは凡夫の我々にとって重要な意味を帯びる。唯識学では、言葉の虚構的・夢的マトリックス世界から私たちを脱却させるために、逆説的にも言葉をうまく活用する道を示すのである。そうした点にも大変好感が持てる。そのようなことを朝日を浴びながら考えていた。フローニンゲン:2024/4/15(月)09:58


12519. 母国日本への眼差し    


日本の問題は私たち日本人しか解決できずないということ。結局自分はいつも日本の問題について考えているのだということにハタと気付かされた。日本を離れ、欧米での生活も13年目が始まろうとしていることのタイミングで、そのような気づきがやってきた。すでに昨年の夏の段階でオランダの永住権を取得している自分は、結局それでもオランダにおいて外国人としてこの国に滞在しているに過ぎない。オランダで起こっている出来事にはほぼ一切目もくれず、ニュースなども全く見ない状況の自分を見るにつけ、結局その背後にはオランダの問題を自分が解決することなど決してできないのだという諦めと共にその不可避性を見る。仮に外国人が他国の問題を真に根本から解決しようとするのであれば、精神の髄までその国の文化を吸収し、その国の人間になるぐらいの状況にならなければ土台不可能なことであることが明白なものして見えてくる。外国人が他国の問題を解決できるなどと思うのはとんだ誤解であり、傲慢暴挙に過ぎない。それは根本から不可能なことである。その不可能性ゆえに自分はこの12年間ずっと日本の外から日本の問題について考え続けていたのだということがわかってくる。アメリカで生活している時にはアメリカの問題に触れながらもそれを解決しようとなどとは思わなかったし、できるとも思わなかった。それはオランダで永住権を取得した今においてオランダの問題に対して思うのと全く同じである。結局私たちは自国の問題を自ら解決していかなければならないのである。これから一生日本以外の国で生活したとしても、自分の眼差しはずっと日本に注がれ続けるだろう。学術研究的にも実践的にも、それは日本の問題の解決に貢献するための何かになり続けるだろう。こうした事柄を人は運命と呼ぶのかもしれないし、宿命と呼ぶのかもしれない。命が運ばれた国、命が宿った国に絶えず眼差しを向け、母国が少しでも平和で幸福なものになるように母国の問題だけに向かって行動することは自国中心主義でもなんでもなく、人はそれしかできないのではないかと思う。仮に他国の問題を真に解決できるような人がいれば、それこそトランスヒューマン、ないしはポストヒューマンである。欧米での暮らしが長くなればなるだけ、日本の表層的な問題ではなく、日本の深部にある問題に感覚が鋭敏となり、その問題の解決に向けた取り組みに従事したいという思いがますます強くなる。フローニンゲン:2024/4/15(月)10:13


12520. 充実した筋力トレーニングを終えて  


時刻は午後5時を迎えた。今、1羽の小鳥が雨の中を鳴き声を上げながら飛んでいった。天気予報の通り、今日は午後から強風を伴う雨が降った。ジムに行く際には雨風が強かったが、ジムから帰ってくる頃には風はさほどでもなくなり、体はさほど濡れずに帰ってくることができた。今日からまたフローニンゲンは寒さが戻り、マフラーと手袋をする形でジムへ出掛けていった。今週はパーソナルトレーナーのエリーザがニューヨークに旅行に出かけるので、木曜日のパーソナルトレーニングは休みとなる。それを見越して、今日のトレーニングは少し工夫を凝らした。月曜日のトレーニングはどちらかというと負荷量を抑えて、マシーンを主に使ったトレーニングをしている。木曜日のパーソナルトレーニングではエリーザが色々と工夫を凝らしたトレーニングを提供してくれ、それはバランスボードやダンベルなどを用いたバランスや複雑な動きが伴う非常にダイナミックなトレーニングである。それを考慮して、月曜日の自主トレーニングではマシーンを使いながらのある意味静的なトレーニングをしている。当然ながらどんなトレーニングも動的な要素が内包されているので、あくまでも自分の中の分類としてそのように位置付けているというだけである。木曜日のトレーニングでは先週のパーソナルトレーニングで提供してもらったメニューのいくつかを自分でも試してみようと思っている。それを見越して、今日はその箇所にあまり刺激を入れ過ぎない形で、かといってそこに全く刺激を入れないかというとそうではなく、木曜日に向けて適度に刺激を入れていった。月曜日は木曜日以上に内転筋を鍛えるようにしている。そして月曜日は最後の有酸素運動を木曜日のパーソナルトレーニングの時よりも念入りに時間を多くして行っている。また速度についても月曜日は木曜日のランニングマシンの最高速度を気持ち長くするようにしながら、そこから速度を段階的に落としていく際にもそれぞれの段階で留まる時間を増やしている。そうすると結果的に全体の有酸素運動の時間が長くなる。今日も思ったが、やはり準備体操としての動的ストレッチに加えてローイングマシンを5分漕ぐのと漕がないのとでは、その後の筋力トレーニングの感触が随分と違うということである。ローイングマシンを5分ほど漕ぐことによって、それは有酸素運動かつ全身運動でもあるので筋肉が温まり、その後の筋力トレーニングの最良の準備となっていることを実感する。これは今後も習慣として継続していこう。今週の木曜日のトレーニングは再び自主トレーニングとなるが、バランスボードやダンベルなどを使いながら、バランスや多様な筋肉を複雑に動かしていくトレーニングをメインにしていこうと思う。週に2回の筋力トレーニングは、唯識学の研究や実践と同じく創意工夫に満ち溢れており、実に面白く実践を行うことができている。それは何よりである。フローニンゲン:2024/4/15(月)17:19

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