top of page

【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12503-12513:2024年4月14日(日)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12503. 焚き火としての雑談/影像観察

12504. 今朝方の夢

12505. 秋の一時帰国に際してのカタール航空の利用について

12506. 中観思想・華厳思想への関心/ダルマキールティの論理学と因明学の研究に向けて

12507. 欧米13年目の生活を前にして:次元の異なる接触と真理の輝き

12508. 真理の大海に身を委ねて/真理の成熟と展開を待つこと

12509. 何か重要な発酵現象への予感/自らの内側に流れる静謐な時間と自らの内側を貫く真理

12510. 唯識学を通じた微分と積分/2つの道からの出発

12511. 阿頼耶識が引いた道/真に自らの糧となった仏教探究

12512. 死への目覚め/過去の自分との連絡の回復/還ることと待つこと

12513. 刻成に伴う喜び/インドからの呼びかけ


12503. 焚き火としての雑談/影像観察


時刻はまもなく午前5時を迎える。今日からのフローニンゲンにはまた寒さが戻ってくる。今の気温は10度だが、ここから午前8時にかけて8度まで気温が下がり、そこから緩やかに気温が上がっていって、日中の最高気温は12度になるそうだ。明日からは軒並み最低気温が4度まで下がるようなので、それ相応の覚悟をしておこう。フローニンゲンの4月はやはりまだまだ寒い。明日ジムに行く際にはまだマフラーと手袋が必要だろう。


昨日はゼミナールの第75回のクラスが行われたのだが、そこで雑談の意義と価値について改めて考えいたことについて昨日の日記ですでに言及していた。改めて「雑談」という言葉に注目した時、「雑」の方の解釈はできていないが、「談」の字は言葉を通じた焚き火を楽しむことを彷彿させるなと思ったのである。ちょうど受講生の1人が別荘の庭で焚き火をしながら昨日のクラスに参加してくださっており、そのイメージと相まって、雑談とは本来焚き火のように楽しむものなのではないかと思ったのである。雑談を非合理的かつ無価値なものだと思ったりせず、また日本の企業社会で見られつつあるというチームビルディングのための雑談の機械的な実施に陥ったりせず、雑談が起こる環境整備だけをしたら、あとは起こるがままに生じる焚き火を楽しむようにするのが理想的のように思えた。雑談という焚き火はひょっとしたら、リラックスして行うことを通じて、自己のあるがままの姿に関する思わぬ側面に気づいたり、それを通じて煩悩を燃やす効果もあるような気がしてくる。言葉に炎と書いて「談」という文字にはそのような力と思いが本来込められているのではないかと思うに至る。


それ以外にも昨日は、森有正先生が試みられたエッセー風の日記を自らもより一層意識することについて考えていた。すでにこの一連の日記は随分と前から、実際のところはオランダに来る前からその形式を採用し始めていたのだが、改めてこの日記を通じて試みたいことの1つとして、心内の影像の徹底的な観察を挙げることができる。それもまたすでにこれまでの日記を通じて試みられてきたことではあったが、その試みをより意識的なものとし、より徹底的に行いたいと思う。心内の影像は自分の心そのものに他ならず、影像を通じて心そのものを見ていくことを通じて真理の一旦に触れていくことを目的とする。上述の雑談もまた、雑談の背後にある真理を知覚することができれば理想であり、おそらくそれが真の雑談であれば、真理は自ずから顔を出してくるだろう。真理に至ろうという思いで雑談をするのは本末転倒であり、真理はこちら側が意図しない形で自然と立ち現れてくるものなのだ。真理に触れることを目的にした雑談ではなく、真理が自然と現れたくなるような形で雑談をすること。すなわち自らの煩悩を伏し、できるだけ無漏な状態であるがままの自己を通じて雑談を行うのだ。そうすれば、真理の側からひょっと顔を出し、その姿をこちらに垣間見せてくれるだろう。影像観察もそのようにして、肩肘張ることなく、またその背後にある真理を見よう見ようとするのでもなく、影像を影像のまま楽しむような、つまり影像鑑賞を行うことを楽しむような気持ちでそれを行なっていきたい。フローニンゲン:2024/4/14(日)05:05


12504. 今朝方の夢


時刻は午前5時を迎えたが、まだ辺りは真っ暗で、小鳥たちの鳴き声は聞こえてこない。毎朝それを確認する形で、日の出を祝い、小鳥たちが鳴き声を上げることを祝福しているように思う。早朝の闇の確認と小鳥たちの鳴き声の確認には、そうした儀式的な意味が見出せる。


今朝方はとても感動する夢を見ていた。それはバスケで怪我をしてそこから復帰する物語の形として現れた。夢の中の私は実際に通っていた中学校に似た学校に通っていた。体育館の作りは本当に瓜二つで、かつて部活で汗を流した体育館を彷彿させる作りをしていた。そんな体育館で今から他校との練習試合が行われることになっていた。実は私は右足首に原因不明の怪我をしてしまい、足を引きずりながらでなければ歩けなくなってしまっていた。そこからリハビリに取り組み、すぐにある程度良くなったところで練習を再開してしまったことにより、また同じ箇所に同様の痛みが出てしまった。そこからまたリハビリをして今度はもう完全に大丈夫だという手応えがあったので復帰してみると、また同じ箇所を怪我してしまった。そこから私はバスケを離れることにし、気づいたら不良たちとつるんでいた。彼らと遊ぶ日々はそれなりに楽しく、鬱憤晴らしになっていたが、ある日ふとこのままではいけないと思った。このままでは終われないという思いとバスケに対する未練がまだ自分の中に強くあることに気づいたのである。不完全燃焼のまま終わりたくないと思った私は、もう一度リハビリに真剣に取り組んでみることにした。今度のリハビリは単に身体機能を回復させることだけに主眼を当てるのではなく、心そのものを見つめ直し、心の変革を図っていこうと思ったのである。自分の心を見つめ直し、心を鍛えていくことを決意したために、通常のリハビリよりも時間はかかったが、無事に復帰した時の自分はもう別人であった。何があっても折れることのない柔軟かつ強靭な心を持った自分がそこにいて、いかなる逆境をも跳ね除けることができる心を持った自分がいた。そんな自分をチームメイトたちは歓迎してくれ、また頼もしく思ってくれていた。私は復活したその日から再びキャプテンとしてチームを引っ張っていくことになり、その練習試合でもキャプテンシーを存分に発揮した。試合が始まってとても印象的だったのは、すぐにチームメイトが自分にボールを回してくれ、最初のシュートとしてのスリーポイントシュートが決まった時、これまでの3度のリハビリの体験が走馬灯のように一気に思い出され、思わず感極まって涙を流してしまったことである。試合中だったこともあり、涙を抑えようと思ったが、それは抑えられるようなものではなく、もう自分の奥底から込み上げてくるようなまるで激流の如きものだった。堪えられない涙を流している自分に対して、引き続きチームメイトたちはどんどんとパスを供給してくれ、自分はそれを次々とゴールに入れていた。そのような場面があった。


それ以外にも覚えている夢としては、かつて住んでいた地元の社宅で、トイレが汚れているのに気づき、両親のうちのどちらかが掃除しないのであれば自分で掃除をしようと思った場面があった。本来は両親は綺麗好きなのでトイレが汚れていることなどあり得ず、2人に何かあったのかと心配してしまうぐらいであった。トイレ掃除をすることを自ら名乗りであるか、名乗り出るまでもなく率先してトイレ掃除するかを考えている自分がいた。フローニンゲン:2024/4/14(日)05:25


12505. 秋の一時帰国に際してのカタール航空の利用について


時刻は午前6時を迎え、辺りはうっすらと明るくなってきた。遠い空に朝焼けが見え始めている。そんな時の到来と共に、小鳥たちが合唱を奏で始めた。この時期の小鳥たちはどうやら午前6時を迎える少し前ぐらいから活動を始めるようである。今日もうこうして彼らの美しい鳴き声のシャワーに浴することができて本当に幸せである。観法という自助努力を通じて煩悩を伏滅していく試みに日々従事しながら、他力として小鳥たちの鳴き声を通じた煩悩の浄化が間違いなく生じている。彼らの清澄な鳴き声に耳を傾けていると、人間界の中で自分の心に生じる煩悩の原因など取るに足らないものであり、煩悩の原因がとてもちっぽけなものに思えてきて、煩悩を表層的に和らげるのではなく、根幹から浄化されていくような現象が日々小さく起きているように思える。それもこれも小鳥たちのおかげである。


昨夜、少し時間があったので、今年の秋の一時帰国の旅程を立てた。オランダを出発する日と日本を出発する日をまずは確定させた。今回もまたいつもの一時帰国のように、ゆったりと1ヶ月弱日本に滞在することにした。今回は一人旅をする場所は奈良だけに絞り、奈良で5泊6日のゆったりとした滞在を楽しみたいと思う。その他は山口県の実家でゆっくりし、両親と旅行に出かけたり、地元の親友たちと会って旧交を温めたいと思う。そしてせっかく一時帰国するのであるから、長く協働しておられる方たちと何か仕事をしてきたいと思う。今回の一時帰国ではもはや東京に何も用事がないので、実家にも近く、そして奈良にも近い関空を利用することにした。2年前のコロナ禍の一時帰国においても関空を利用し、使い勝手がとても良いように思えたので関空を利用することにした。


昨夜少し時間を取ってフライトについて調べていた。すると、アムステルダムから日本に行く路線が減っている印象を受けた。もちろんKLMを使えば直通があるのだろうが、今回は溜まったマイレージを利用して日本に帰ろうと思っているので、マイレージの提携航空会社の路線を調べてみると、直通のものは何1つなかった。これまではJALやフィンエアーにお世話になっていたが、前回から新しく路線に加わったカタール航空を利用してみることにした。何やらカタール航空は世界一のサービスを誇っているらしく、それが実際にどのようなものなのか体験してみようと思ったのである。出発の時間としてもこれまでヘルシンキを経由していた時よりもゆっくりと出発できるのが有り難く、日本から帰ってくる時も夕方の便なのでゆっくりとした出発ができる。カタール航空を利用することになれば、ドーハでの乗り換えとなる。日本への一時帰国は長時間のフライトなるため、体調を第一にする意味でもいつもビジネスクラスを利用するようにしており、今回のカタール航空のビジネスクラスは相当にサービスが良いようなので楽しみである。機内には高度な空調技術が搭載されているらしく、湿度はどうなのかは依然として疑問が残るが、室温や空気の質を含めて非常に快適な空の旅ができそうである。また、食事に関しても最初から最後まで完全にアラカルトのオーダー式なので、自分が食事を食べたいときに食べたいものを食べられるのも有り難い。そしてドーハ国際空港でのラウンジも、相当に質の高いもののようなので楽しみである。過去ドーハを経由したことは一度もなく、乗り継ぎで中東諸国に足を運ぶこともなかったので、どのような国際空港なのか関心がある。ラウンジの説明書きには「まるで5つ星のホテルのよう」と形容される「アル・ムルジャン ビジネスラウンジ」がビジネスクラスだと利用できるらしく、そこで仮眠を取ったり、シャワーを浴びたりしてリラックスする形で関空に向かいたいと思う。また、ドーハ国際空港ではファーストクラスやビジネスクラスの利用者専用の「プレミアム・ターミナル」なるものがあるらしく、それを使って乗継ぎができるというのは非常に便利である。こうしたところにもカタール空港の評価の高さの秘訣が見えて来る。フローニンゲン:2024/4/14(日)06:30


12506. 中観思想・華厳思想への関心/ダルマキールティの論理学と因明学の研究に向けて        

時計の針が午前7時半を迎えると、小鳥たちの鳴き声もより一層活発になっている感じだ。今日はとても穏やかな日曜日で、今青空を拝むことができている。


先日日本の古書店に注文した書籍のうち、2つの古書店に注文した書籍が近々届くという連絡をオランダの郵便局から受けた。それを楽しみにしながら、届けられた書籍をある程度繰り返し読んで再び6月か7月に日本のアマゾンから仏教書を注文する際には、唯識思想の前身に当たる倶舎論ではなく、中観思想と華厳思想に関する専門書を購入してみようと思う。自分は倶舎論から唯識思想に入らず、唯識思想からその探究を始めたこともあり、唯識が含んで超えている倶舎論にはもうさほど学問上も実践上も関心がなく、倶舎論よりも中観思想と華厳思想をこのタイミングで学んでみようと思った。もちろんまた何かのきっかけで倶舎論に関心が向かうことは十分に考えられる。倶舎論を学ばずして唯識学の探究を始めたのであるから、その前身に当たる倶舎論をどこかのタイミングで学んでみたいと思う自分が現れそうなのはすでに予感があるが、少なくとも今は倶舎論ではなくて中観思想と華厳思想についても和書を購入して理解を深めてみたいと思う。英文書籍であればすでに中観思想についての専門書を何冊か持っており、それこそ龍樹の『中論』の英訳書がある。唯識学の研究を始めて、初めて日本語を通じた学術研究に目覚めたこともあり、中観思想についても日本語を通じて学んでみたいと思ったのである。6月か7月の書籍の一括注文の際には、必ず中観思想と華厳思想に関する書籍をいくつか購入し、それと合わせて唯識学研究に必要な専門書をさらに揃えていく形で研究体制をより充実したものにしていこうと思う。


いつか世界最古の大学と言われるインドのナーランダ大学で学びを得てみたいという思いが日増しに強くなる。欧州における最古の総合大学はボローニャ大学だが、ボローニャ大学よりもさらに600年近く前にインドにはナーランダ大学が設立され、日本でいうところの大和時代にそのような大学が誕生していたというのは驚きである。ナーランダ大学は仏教の一大研究拠点であり、かの三蔵法師こと玄奘もそこで学びを得た。玄奘はまさに唯識学を学びにナーランダ大学を訪れたのである。調べてみると、「ナーランダ」とは「蓮のある場所」を意味するらしく、蓮は仏教において智慧の象徴であって、意訳すると「智慧を授ける場所」という意味があるらしい。そのような場所でいつか学びを得たいものである。その実現に向けて、今はまずは日本の法相唯識教学の研究に精を出していく。地道な研究を毎日続けることを継続していく中で、いつか後期瑜伽行唯識学の代表的な論師であったダルマキールティの論理学を研究してみたい。それを見越した形で、仏教論理学としての因明学の探究も小さく始めていく。因明学は、まるで言葉を用いた数学である。それだけの厳密性を携えたものであり、唯識教義と絡めて因明学を学んでみたいという思いがますます強くなる。日本に伝わった因明学の研究と、ダルマキールティの論理学は必ずどこかのタイミングで本格的に研究したいと思う。こうして自分のライフワークがどんどんと変化をしながら深まりを見せてくれることに幸福感を感じ、ただただ感謝の念で一杯となる。フローニンゲン:2024/4/14(日)07:42


12507. 欧米13年目の生活を前にして:次元の異なる接触と真理の輝き  


カーテンレースから差し込む朝日がとても柔らかく美しい。それに小鳥たちの鳴き声が鮮やかな色を付け加えてくれている。今日は風もなく、早朝からとても穏やかな日曜日である。そんな日曜日に、こうして自分のライフワークを何の心配もなしに打ち込むことができているのは幸せ以外の何物でもない。


この8月から早いもので欧米での13年目の生活が始まる。いよいよ1つの干支を跨いだ形となる。この12年間の中で幾度も自分の心の深層への接触があり、日本との接触があったが、このたびの接触はどうも接触面及び接触の次元がまるっきり異なるように思えて仕方ない。それは兎にも角にも唯識学との邂逅が引き金となって起きた現象である。もうすでに自分は後戻りできないところまで進んでしまっているが、それでいいのである。むしろもっと先に進んでいくべきなのだ。真理の道はまだ道半ばであり、この道を人知れず毎日一歩ずつ歩んでいくだけなのだ。とりわけ自らの深層意識と日本との別次元での接触は願ってもいない有り難いことであった。この新たな次元での接触が、真理の道を歩む足取りをさらに堅固なものとし、新たな真理観を自ずから開いていくであろう。それは意図して開くものなのではなく、自ずから開かれていくものなのだ。もう自分の前にあるのは真理しかない。先にも傍にも真理だけを見据えて、真理の世界で真理の景色を絶えず凝視しながらこのゆったりとした歩みを前に進めていこうと思う。その歩みもまた意図せずして、真理に導かれる形で、真理の景色を眺めていたらふと先に進んでいたという形で前に進んでいたというものになるであろう。展望がますます開けて来る。真理の展望がより鮮明に彩り豊かに今着実に開かれていくのを実感する。


真理というのは本当に不思議な存在である。真理は私たちを遥かに超えた存在なのだが、そんな存在が私たちを通して現れるなんて。むしろ私たちなしには真理は真理として顕現しないという性質を見る。つまるところ、私たちと真理は不可分の関係なのである。真理が真理として顕現するためには私たちという存在が必要なのであって、真理は私たちを通してはじめて輝く。それは兎にも角にも真理は私たちを超越していながらも私たちの内側に内在しているからであろう。真理の輝き。自分の道を照らすのはもうそれだけであり、その光に照らされていることだけが自分の幸福感と充実感を生み出していると言える。フローニンゲン:2024/4/14(日)09:08


12508. 真理の大海に身を委ねて/真理の成熟と展開を待つこと


この静けさだけが自分の生活に潤いをもたらす。街の喧騒から離れ、この小さな可愛らしい一軒家での静寂に包まれた生活だけが自らの心を潤す。今の自分はもうそれ以外のことは求めない。静寂さの中で真理の光に身を委ねて唯識学の研究に打ち込むだけもう大満足なのだ。むしろそれ以上のことを求めてはならない。それこそ貪という根本煩悩の現れである。仏法を求めること。真理を求めること。それは煩悩の現れではなく、善の心の現れだと唯識学は教えてくれる。それらを求めることが自他の心の成長につながり、生きとし生けるものの苦からの解放を希求したものであれば、それは紛れもなく善の心の働きである。今の自分はもうそれを心の深くから信じることができる。なぜ日本から遠く離れた地で、なぜ仏教が発祥したインドから遠く離れたこの地で仏教研究に勤しんでいるのか。それは自分にもわからない。それはもう真理からの導きとしか言いようがないし、真理からの要求事項だとしか言いようがないものなのである。自分はもう真理に抗うことは一切しない。むしろ真理を求め、真理に自己の存在の全てを明け渡す覚悟でいる。今こうして真理の大海に身を委ね、洋々として心が喜んでいる姿を見ることができて本当に幸せである。


自分の内側に無始以来内在していた真理の成熟と展開を待つこと。それが何よりも重要だ。それには時間がかかる。どれくらいの時間がかかるかは誰にもわからない。しかし、真理を求め、しかるべき自利即利他行を日々積み重ねていれば、いつかきっとその時はやって来る。真理が成熟を迎え、真理が自己展開を始めるまで行を積み重ねながら待つこと。辛抱強く待つことが重要なのだ。煩悩を交えずに無漏の状態で待つことが何よりも望ましい。真理の成熟と自己展開に期待せず、ただ行を積み重ねていく形で日々を生きていくのだ。そんな覚悟を改めて持つ。


阿頼耶識から言葉を発すること。阿頼耶識から仕事をすること。それ以外の言葉と仕事にはまったく持って意味を見出さない。少なくとも自分はそのような形では言葉を発しないし、仕事もしない。そのような別種の覚悟がまた生まれる。「覚悟」という言葉。それはどちらも「さとる」という意味が内包されている。二重のさとりが内包されたその言葉の重さを噛み締める。そして上述の2つの覚悟を持ってこの真理の光に満ちた道をどこまでも遥か彼方まで歩いて行きたいという憧憬が芽生える。この存在が溶け落ちるまでその道をただただ歩きたい。その道を歩くことをただただ楽しみたい。そうした人生が許され、与えられるのであれば、それ以外のことはもう何も求めない。ただただ感謝の気持ちで一杯だ。フローニンゲン:2024/4/14(日)09:27


12509. 何か重要な発酵現象への予感/

自らの内側に流れる静謐な時間と自らの内側を貫く真理


ヨーロッパでの生活も今年の8月から9年目を迎える。振り返ってみると、この8年間はヨーロッパの方々を旅して回った。それがどうだろう。今はもうヨーロッパを旅行することに何の関心もないのである。自分の関心の焦点は、ヨーロッパ中を彷徨するところから過去8年間の旅の経験を熟成させることに向ったと言えるかも知れない。少なくとも今年1年間は、秋の日本への一時帰国を除いてはどこにも旅に出かけて行かない。どうやら今年1年間は、自分の中で何か重要な発酵現象が起こりそうだという予感がしている。その発酵の先に待つもの。それはきっと今の自分には想像もできないような何かであろう。


自分の内側だけに流れる自分だけの時間。自分の内側だけに存在する固有の真理。それらをこそ自らの拠り所にして行かなければならない。それ以外のものは全て借り物であり、そんなものは簡単に崩れ去ってしまう頼りないものなのだ。自らの内側に流れる静謐な時間と自らの内側を貫く真理のみが自分を垂直に立たせてくれる。そしてそれらだけが自分の存在を遠いところまで静かに運んでくれるのだ。


向かう喜びではなく、向こうからやって来るものを受け入れる喜び。そんな溢れんばかりの喜びに包まれている。日曜日の穏やかな朝日に包まれる喜びと等しく、自己の深層領域が深く喜んでいるのを感じる自分がいる。やって来るものは然るべき時に然るべく形でやって来る。やって来るものをやって来るタイミングでやって来る形で受け止めること。それが何よりも重要だ。それから目を背けず、その背後ある真理をこそ直視するべきである。そのための学びと行を今こうして自分は日々続けているのだろう。全ては然るべきものが然るべきタイミングで然るべき形でやって来ることを然るべく受け入れるためなのだ。そのための熟成が今の自分には必要なのである。どうやら今年1年はそのような年になるようだ。フローニンゲン:2024/4/14(日)09:41


12510. 唯識学を通じた微分と積分/2つの道からの出発


唯識学を通じて自己の心の諸問題を微分的に分析しながら、その分析実践が積分的に効力を積み重ねていく様子に驚きを隠せない。微分と積分はそのような形で照応しているのだと驚かされるし、仏教の心の分析がやはり数学と同様に厳密なものであることにも驚かされる。仏教の心の分析と自然科学における分析は対象は違えど、その手続きは同じなのである。だから唯識学が宗教的・哲学的な要素のみならず、科学的な要素を持つと言われる所以なのだ。このことに気付けないというのは科学教育の失敗であり、同時に宗教教育の失敗の端的な現れなのではないかとさえ思う。


阿頼耶識から出発する道と、前五識という感覚的な識から出発する道。それらの道を大切にしたい。おそらくそれ以外の道から始めることは何一つとしてうまく行かない。つまるところ、意識の深層領域から出発するか、純粋感覚から出発するか、いずれかの道を歩むことが重要であり、決して言葉を通じた虚構世界から歩みを始めてはならない。無数の人々が迷うのはそこから始めるからである。多くの人々は言葉から始めてしまうのだ。言葉は仮に立てられものであり、虚妄の産物なのだ。そこから始めてうまくいくことが決してないことは明らかであろう。それにもかかわらず言葉から多くの人が出発してしまうほどに言葉は存在を強く規定している。その存在規定条件に対してまずは気づくことが重要であり、それに気づけて始めて意識の深層領域から出発するか、純粋感覚から出発するかを選択できるのではないかと思う。可能であれば、両者の双方を通じて出発できれば理想である。この今という毎瞬毎瞬を双方の道から出発するのである。その道の過程で解放が起こり、その道の先に真理が待っている。そのようなことを思う。


唯識観法に徹することによってのみ明らかになって来るもの。それが本当に日々顕現して来ることに驚く。唯識行を実践すればするだけ心は安らかになり、心は軽くなる。それに徹していれば不安や焦りとは遠く離れた状態で静謐さの中で歩んでいくことができる。こうした歩みこそが人生を真の意味で豊かにするのだという確信が芽生える。輝く朝日も輝く小鳥の鳴き声もその確信の正しさを讃えてくれている。フローニンゲン:2024/4/14(日)10:00


12511. 阿頼耶識が引いた道/真に自らの糧となった仏教探究


夢が現実になっていくのではなく、現実が夢になっていく不思議さ。還りゆく先はやはり夢なのだろうか。夢から覚めて再び夢に戻るということが起こるのだろうか。夢から覚めた世界の中で生きることを通じて、今度は真理に満たされた夢の世界の中に還っていくのかも知れない。これからのそんな歩みが朧げながら見えてくる。


私たち一人一人には、その人しか辿ることができない道がある。それは各人固有の阿頼耶識が引いた道である。その道がどこをどのように辿ろうとも、その道を辿って行かなければならない。それが自らの人生を生きるということなのだろう。そうではないだろうか。運命というものがあるとするならば、それはきっとそのような道のことを言うのだろう。そして仮に私たちが運命を越え出ていくことを願うのであれば、やはりその道を歩まなければそれを越え出ていくことはできない。運命を越え出ていくというのは、阿頼耶識が引いた道を自覚的に歩いた先にある無為の状態でその道をあるがままに歩める境地を指す。


仏教の探究が単なるお勉強のためのお勉強ではなく、真に自分の糧となって学べるようになったことを心の底から喜びたい。そしてそのことを深く祝福したい。それができるまでに長大な時間を要した。唯識学を単に知的に理解することに留まらず、自ら実践と生活と統合させていく形で本当に深く自己涵養を実現させる意味での糧となる学びが実現され始めたことを喜びたい。それが実現したのも、こうして何かの縁でずっと欧州の地に留まり続けたからであろう。アメリカに戻ることもせず、日本に帰ることもせず、こうして長らく欧州の地に留まり続けることによって初めて、仏教が真に自分の糧となったのだと思われる。そのことにただただ感謝をしたい。そしてそれは感謝しても仕切れぬものである。


仏について学ぶことを超えて、仏になる学びをこそ大切にしたい。前者はお勉強好きの人がする学びであり、自分はそのような学びは一切しない。何かについての学びはもういいのである。そのフェーズはとうの昔に通り過ぎたのである。仏になることに向かっての学びを継続させていくこと。それをただただ大切にして毎日を生きていきたい。フローニンゲン:2024/4/14(日)13:48


12512. 死への目覚め/過去の自分との連絡の回復/還ることと待つこと      


昼食後に仮眠を摂りながら死について考えていた。当たり前のことを当たり前のようにまず考えている自分がいた。生を縁として死が存在するということ。この世に生まれてきたがゆえに死があることについてまず考えた。そして生まれてきた自分も例外なくいつか死を迎えるのだろうことを悟った。そこから奇妙にも、死は生の果てにあるものではないと気づいたのである。死が生を縁としているのであれば、生がある今この瞬間にすでに死はあると思ったのだ。言い換えると、生の背後には常に死があって、生へ目覚めれば目覚めるだけ、それは死へ目覚めることだと思ったのである。そしてまたその逆も然り。死への目覚めは生への目覚めとなる。どちらの方向性でもいいし、どちらの方向性もまた等しく重要性を持つ。生への目覚めを通じて存在を純化させればさせるだけ、存在は絶えず純化された死を常に内包しているということに気づく。生への目覚め、あるいは死への目覚め、はたまた両者の目覚めを通じて私たちの存在は真に輝く。そのようなことを考えながら第六意識が途絶える仮眠状態に入った。


とりわけ隔週のシロシビン・セッションを通じて行う阿頼耶識への沈潜は、過去の記憶を取り戻し、幼少時代や青年時代の自分と連絡を取ることなのではないかと思ったのである。おそらく多くの人にとって、過去の自分とは音信不通状態なのではないかと思う。過去の自分は誰からも連絡を受けることなく阿頼耶識の中に居続ける。そんな彼らと連絡を取れるのは私たち自身しかいない。なるほど、自分にとってシロシビン・セッションは、過去の自分との連絡の回復という意味があったのだとハタと気付かされた次第だ。この気づきはとても大きな意味を持つだろう。そして過去の自分との連絡が回復された時、また新たな展望と歩みが自ずから切り開かれていくはずである。


大変滑稽なこと。それは、自分にとって大切なものが何かを探しに出かけた旅が、結局自分の深層に還るということを意味していたということである。旅に出かけていくというのは結局のところ、自己に還ることだったのだ。欧州で過ごすこの8年間の中で方々に出かけて旅をしたことを通じて、ようやく自分は自己の深層に還ってきた。そう思えて仕方ない。今年1年は少なくとも、還って来た自己をさらに深めていく時期になるであろう。何かを探しに出かけていくのはもういいのである。自分にとって大切なものが自己の深層から自然と析出されるまで待つこと。それ以上に重要なことは今の自分にはない。フローニンゲン:2024/4/14(日)14:15


12513. 刻成に伴う喜び/インドからの呼びかけ


日々こうして唯識学の教えが自分の内側に刻まれ、そこから何か新しいものが絶えず生成されていることを喜びたい。それはまたに刻成に伴う喜びである。結局そこで生まれる新しい何かとは、今よりも一歩成長した自分に他ならないということが見えてくる。


この夏から欧州での生活も9年目を迎え、アメリカでの4年間の生活を加えると、早いもので13年目となる。小学校に入学してから高校を卒業し、大学に入ったのと同じ年数を欧米で過ごして来たことを思うと、それなりに年数を刻んできたのだなと思う。しかし重要なことは年数ではなく、その地で何を感じ、何を考え、どのように生きたかが重要なのである。少なくとも欧米でのこの12年間は、毎日を大切にして生き切ってきたという確信がある。アメリカもヨーロッパも日本人の自分からしてみると異質の環境世界であったが、そうした意識な環境世界に揉まれて日々自分なりに懸命に生きてきたからこそ育まれていったものがあると感じる。唯識学の教えを待つまでもなく、私たちの存在は五感に裏打ちされ、それは物理的・文化的環境世界と絶えず照応する。こうして12年間もその土地固有の物理的・文化的環境世界に深く根を下ろそうと試みてきたことは、決して無駄なことではなかったと今になって思う。むしろそれは自分の財産となった。残念ながらその財産を手渡すことはできない。それは自分の固有の八識に深く浸透していったものだからである。しかしながら、この固有の八識から生まれた智慧や慈悲ならば多くの人に共有できるはずである。それこそが自分がやるべきことであり、やりたいことなのだ。


呼ばれたタイミングで呼ばれた場所へ。そんなモットーが深層意識から聞こえてくる。どうも自分はインドに呼ばれ始めているようだ。それはまだ始まりに過ぎないかもしれないが、確かに自分はもうインドに呼ばれてしまっているのである。同じ敷地内に住むインド人のサハルとの出会い。デロイト時代にも仲の良いインド人の同僚がいた。彼らの存在が脳裏をかすめ、気がつけばアムステルダムからインドの主要国際空港の路線を調べ、フライトを検索している自分がいた。この12年間、感覚的に異質なものをもたらす欧米社会の中で深く根を下ろして生活していくことを通じて、確かに自分は変貌を遂げた。では未だ未知なるものを多分に含むインドで生活を始めたら、一体自分はどうなるのだろうかと考えた。また新しい何かが開け、新たな自分がそこに開かれていくのではないだろうか。新たな自己に期待するというよりも、新たな自己とはすなわち、今の自己が変容して深まった存在なのであるから、自分はやはり自己の深まりを求めているようなのだ。いつか本当にインドに呼ばれる日が来るまで、今は北欧に近いオランダのこの町で、自らのライフワークとしての唯識学の研鑽に毎日全身全霊を捧げたい気持ちで一杯だ。フローニンゲン:2024/4/14(日)16:00

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page