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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12488-12494:2024年4月12日(金)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12488. 抹茶とマカを摂取し始めて

12489. 森有正全集を久しぶりに読むことにして

12490. 小鳥たちと縁起/自利即利他な問いに答える形で

12491. 唯識学から見た死刑制度の是非

12492. 今朝方の夢

12493. 諸行無常性が体現された瞬間を生きて/今朝方の夢の続き

12494. アクティブレストとしての草刈りを終えて


12488. 抹茶とマカを摂取し始めて


時刻は午前4時を迎えた。辺りはまだ闇に包まれていて、小鳥たちも鳴き声を上げていない。小鳥たちが活動を始めるまでもう2時間弱ありそうである。小鳥たちよりも早く目覚めて活動を開始している自分。彼らはいつも朝から晩まで鳴き声を上げる形で自分を支えてくれている。昨夜も就寝前の瞑想をしている際に、彼らの穏やかな鳴き声を聞いていた。朝から夜まで鳴き声を上げてくれる彼らへの返礼として、自分は彼らよりも先に起床して彼らを迎え入れたいと思う。小鳥たちが平穏無事に暮らしていけるように願うこと。祈ること。そしてそれに向けた何かしらの取り組みに従事していくこと。おそらくそれは唯識学を通じて達成される。大きくはエコロジーの問題に関与していくこと。それが彼らへの返礼となるだろう。


昨日もまた非常に充実したパーソナルトレーニングを受けることができ、今朝方の目覚めもすこぶる良好であった。トレーニング後の夕食は美味しく、昨日からオーガニックのマカパウダーを茹で野菜にかけて玄米味噌と和える形で食べ始めた。抹茶を購入しにオーガニック製品店に立ち寄った際に、抹茶パウダーの近くにマカパウダーがあるのを見つけ、マカの効能と以前試して茹で野菜に合っていたのを思い出して、再びマカを摂取することにした。何やらマカには成長ホルモンの分泌を促す作用と骨格筋の生育・肥大効果があるらしく、筋力トレーニングをした日の夕食に摂取するのはうってつけかと思ったのである。今のところ、トレーニングを行う月曜日と木曜日の夕食の茹で野菜にマカパウダーを和える形で摂取し、それ以外の日の茹で野菜には引き続きクロレラパウダーを和える形で摂取しようと思っている。クロレラを摂取し始めてからもう6年近く経つだろうか。クロレラは宇宙食としても注目されている食材で、地球誕生の初期から生息されていたとされる生命の歴史が長く、それでいて生命エネルギーに満ちた栄養豊富な存在で、それを6年近く摂取し続けることを通じて細胞レベルで随分と身体が変化しているように思う。もちろんそれは良い方向での変化であり、腸内環境を含めて、クロレラに負うところは大きい。クロレラは自分にとって間違いなく有力増上縁となっている。これからはマカもまた直接的に自分の身体を支えてくれる有力増上縁となるだろう。マカが持つ成長ホルモン促進作用と骨格筋の成長促進作用については、これから月曜日と木曜日のトレーニング後の夕食時における接種を継続することを通じて少しずつ実感できればと思う。抹茶を飲み始めたことと、マカを摂取し始めたことが最近の食実践における変化だと言えるだろうか。フローニンゲン:2024/4/12(金)04:17


12489. 森有正全集を久しぶりに読むことにして


4月も中旬に入る頃だが、引き続き暖房が自動で入り、部屋をせっせと温めてくれている。そんな中、昨日にふと久しぶりに敬愛する森有正先生の全集が読みたくなった。ここのところは唯識学の研究を通じて日本語の文献に取り掛かりっきりであり、それを通じて日本語を読むことを許容している自分がいる。これまでの12年間の欧米での探究生活の中でそれは初めてのことである。この12年間は本当に日本語の文献を読むことをできるだけ避け、洋書ばかりをずっと読んできていた。それが唯識学の研究によって一変し、今は日本語の文献を避けることはなく、むしろ唯識学の研究においては積極的に日本語の文献を読むようにしているくらいである。それは自分にとって大きな変化だ。これまでの自分の研究分野では日本語の文献は皆無であったし、何よりも英語の文献を読む方が充実感や楽しさがあった。英語の文献は知的好奇心を大いに満たし、知識基盤を拡張する上でも非常に大きな役割を果たしていた。何よりも欧米社会にいることもあって日本語の文献をそもそも入手しづらいという環境にいたことと、英語の読解力をどこまでも高めていくことを大切にしていたこともあって、日本語脳に移行することをできるだけ避けるためにも日本語の文献には極力触れないようにしていた。そんな中でも、森有正先生の全集と辻邦夫先生のエッセーや日記類だけは折に触れて読むことがあった。


昨日午後にジムに出掛けていく際に、近所のノーダープラントソン公園を歩いていると、ふと森先生と辻先生の日記のことが脳裏をよぎったのである。辻先生のエッセーや日記については2年前に1度また全て読み返したうように思うので、今度はまた森先生の日記類を読み返したいと思ったのである。おそらくすでに森先生の全集に収められているエッセー風の日記類は5回は繰り返し最初から最後まで読んでおり、今回読み返すのであれば6回目になるのではないかと思う。振り返ってみれば、今から8年前にオランダにやって来る際の機内の中でも森先生の『バビロンの流れのほとりにて』を読んでいたことがとても懐かしい思い出として残っている。以降、オランダでの孤独な探究生活の大きな心の支えとして、森先生の日記類には本当に励ましをもらっていた。確かに今は心も穏やかで、充実した心の有り様で唯識学の探究に日々打ち込むことができているが、心の養分としてまた森先生の一連のエッセーとしての日記類を読み返したいと思ったのである。今は確かに日本語の文献を読むことを自分に許容しているが、今後また洋書に切り替えることも十分にあり得るので、今しかないという気持ちで再び森先生の日記類に今日から目を通していきたいと思う。午前中は完全に唯識学の研究に打ち込み、午後の途中から夕食準備までの時間を森先生の日記に触れる時間としたい。すでに昨日の段階で森先生の日記が収められた全ての全集を1階の段ボールから引っ張り出してきて2階の書斎に運んでいる。今日からまた森先生の血の通った文章を読むことを通じて、励ましと探究エネルギーをいただく形で自らのライフワークとしての唯識学研究にさらなる弾みをつけたいと思う。フローニンゲン:2024/4/12(金)04:31


12490. 小鳥たちと縁起/自利即利他な問いに答える形で


時刻は午前5時を迎えた。小鳥たちが鳴き始めるのは起床してから2時間後を予定したのだが、午前5時の段階ですでに1羽の小鳥が鳴き声を上げている。今のところその1羽の鳴き声しか聞こえてこないが、彼はきっと早起きをしたのだろう。鳥類学の専門家でないので詳しくはわからないが、そもそも小鳥たちはなぜ鳴き声を上げているのだろうか。それは生存目的なのだろうか、生殖目的なのだろうか、はたまたそれ以外の理由なのだろうか。彼らは仲間たちに何かを知らせようとしているのだろうか。彼らにとっての外敵は猫や大きな鳥だろうか。そんな外敵に居場所をわざわざ知らせるような形で絶えず鳴き声を上げている彼らの意図や思いを知りたいものである。木々の上であれば猫には襲われそうにはないが、大きな鳥には狙われてしまう恐れがある。そんなリスクを冒しても、休憩を挟んで朝から晩まで鳴き声を上げている彼らの考えをやはり知りたいものである。こうして人間の自分にはわからないことがたくさん動物界の中にあることに気づく。本当に自分は未知に溢れた世界の中で毎日生きているのだなと思わされる。縁起思想からすると、自分は未知の世界で生きているのではなく、未知の世界で無数の未知によって生かされているのである。そのようなことを思わずにはいられない。


昨日、数学の問題を自作したり、詰将棋の問題を自作するように、唯識学の研究上・実践上の種々の問題を自らの関心や課題に引き付けて自作し、それを自ら解きほぐしていくように研究していく方法を考えていた。ここで述べる問題というのは論点や実践課題のことを指しており、そうしたものを自ら設定し、自ら解決していくことの重要性とその面白さについて考えていたのである。振り返ってみると、これまでの自分の探究と実践は知らず知らずのうちにそのような形でなされていたことに気づかされる。誰かに問いを与えてもらうのではなく、自ら研究上の問いを立て、その問いに答えていく形で文献を読んだり、思索したりすることをしていたのである。そしてそれは実践においても同様である。今後はさらにこの意識を明確なものとして持ってみよう。絶えず自らにとって重要な問いを立て、それを解決してくことを探究上・実践上の主眼とする。自らにとって重要な問いは、できるだけ自利即利他なものであればあるだけ望ましい。


昨日のジムでのトレーニングを受けて、今日はアクティブレストとして夕方に草刈りをしようと思う。玄関の外に雑草が結構生え始めているので、それらを綺麗にしたい。また、家に寄りかかっている木の葉も随分と青々と生い茂っているので、それらもカットしておきたい。その他に細かな話としては、今年の秋の一時帰国に向けて、すでに奈良に滞在中に足を運びたい場所のおおよそのリストアップはできているが、敬愛する鎌倉時代の学僧の貞慶や良遍のお墓や縁の地がないかを調べておきたい。もしそうした場所があって、立地として行けそうな範囲にあれば是非とも足を運んでみたいと思う。フローニンゲン:2024/4/12(金)05:32


12491. 唯識学から見た死刑制度の是非


時刻はまもなく午前6時を迎える。今使っているコーヒー豆がまだ随分と残っているので、朝にコーヒーを飲むことはもうしばらく続きそうだ。もう1パック小さなコーヒー豆を購入していることもあり、それを使い切るのは5月の終わりぐらいになるかもしれない。いずれにせよ、それらを使い切るまでは朝のコーヒーを楽しみ、午後には1杯の抹茶を飲むことを楽しみたい。今はコーヒーから抹茶への移行期間とし、突然コーヒーを飲むのをやめるのではなく、コーヒー豆への感謝から豆を使い切ってから完全に切り替えるようにしたいと思う。


昨日、「サイケデリック唯識ラジオ」のリスナーの方から1通のレターを受け取った。レターの内容として、唯識学の観点から死刑制度をどのように捉えるかという内容だった。これは非常に重要かつ社会的にも意味のあるご質問だと思った。もちろん自分は法律の専門家ではないが、専門家ではないことを理由にして死刑制度について考えないというのは知的怠慢であるし、何よりも市民的責任を果たしていないように思えたので、少しこのテーマについて考えていた。日本は依然として死刑制度を残しているが、先進国の中で死刑制度を残しているのは日本と韓国とアメリカだけである。今自分がいる欧州の先進国の中で死刑制度を保持している国は何1つない。欧州の先進国でなかったとしても、死刑制度を残している国は欧州には1つもないのではないかと思う。死刑制度の是非について考える際には、もちろん他の問題と同様に多様なステークホルダーの観点を取る必要があるし、ステークホルダーだけではなく、文化や制度についても観点を取っていかなければならない。そうした非常に難しい問題を抱えているのが死刑制度の廃止に伴う論点なわけだが、それを唯識学の観点から考えるとどのようなことが言えるだろうか。唯識学の観点からすれば、私たちは見たいものだけを見て、聞きたいものだけを聞き、そして得られた情報は全て過去の学習や経験を蓄積した阿頼耶識を通じて解釈する。これは原告側・被告側、裁判官・検察官・弁護士・陪審員の全てに当てはまる事柄であり、死刑という人の命を左右する事案に関して言えば、冤罪というのは絶対に避けなければならないものだが、それを絶対的に防ぐ手段は今のところない。私たちは自らの8つの識に縛られて情報授受と情報判断をするのであるから、常に冤罪のリスクが付きまとうのである。そうしたことからも、自分は死刑制度には反対という立場を取る。


日本にも本当に責任感溢れ、人格的にも知的にも尊敬するべき法曹家はたくさんいるが、それでもはたから見ていると、法曹界も他の業界と同じく頭から腐敗している印象である。日本で刑事裁判がひとたび起こると、なんと有罪率は99.9%とのことで、無罪になる可能性は0.1%しかない。すなわち、仮に殺人事件で冤罪にもかかわらず刑事裁判になってしまうと、無罪判決を獲得できる可能性は0.1%しかないのだ。これがどれだけ恐ろしいことかは想像に難くなく、その背後に法曹界の構造的な腐敗を感じる。


そこから、そもそも阿頼耶識の無記性、すなわち阿頼耶識は善悪どちらでもないし、どんな犯罪を犯していたとしても人は変われる可能性を内包している観点に立てば、死刑制度を通じて犯罪人の命を簡単に奪ってしまうことの問題がまた見えてくる。犯罪人を更生させ、社会復帰させ、再び社会に貢献してもらう形で送り返す文化とシステムを醸成する方がより成熟した社会の有り様なのではないかと思う。また、次回のラジオで扱う自我執着心の末那識と絡めてみれば、死刑制度についてさらに新たな観点から考えを深めていくことができるだろう。引き続き唯識学の観点から死刑制度について考えていきたいと思うし、死刑制度のみならず、社会の問題は結局心の問題でもあるので、唯識学の観点から種々の社会問題について考えていき、その構造的な解決に向けての取り組みをしたいものである。フローニンゲン:2024/4/12(金)06:16


12492. 今朝方の夢      


時刻は午前7時をちょうど迎えた。今、数匹の小鳥たちが思い思いに鳴き声を上げていて、とても賑やかだ。最初に鳴き声を上げ始めた小鳥に続く形で、数匹の他の小鳥たちがついてきて今賑やかな音楽を奏でてくれている。そうした嬉しく心地良い賑やかさに包まれながら今朝方の夢について振り返っている。


夢の中で私は、見慣れない学校の教室にいた。その教室は変わった作りをしていて、座席が全て飛行機の機内に設置されているものだったのだ。シートの感じはエコノミークラスのものでもビジネスクラスのものでもなく、ちょうど中間のプレミアムエコノミーの感じのものだった。なので比較的ゆったりとした座り心地を味わうことができた。そんな教室とも機内とも思える場所で座席に腰掛けていると、一応その瞬間は教室の機能の方が強いようだったが、やはりそれは動く教室のような形での飛行機でもあって、今から離陸するとのことだった。離陸後、しばらく座席の両隣の友人たちと話をしていた。両隣には小中学校時代の女性友達がいて、彼女たちとクラシック音楽の話をしていた。2人のうち1人は幼少期からピアノを習っていて、今度私にピアノを教えてくれることになった。彼女はバッハの楽曲を好んでいて、私もバッハの楽曲をこよなく愛しているので、そうした共通点もあり、彼女からぜひピアノを今度教えてもらおうと思った。音楽の話で盛り上がっていると、気がつけばもう飛行機としての教室全体が着陸の準備体制に入り始めた。なので着陸に向けてシートを元の角度に戻し、シートの前のデスクも元に戻した。着陸はとても速やかでなんの衝撃もなく無事に終わった。そのような場面があった。


それ以外に覚えているのは、フットサルコートの上でバスケをしていた場面である。厳密に言えば、フットサルゴールにハンドボールのような形でボールを投げ入れる形でゴールを決めるバスケのような競技に従事していた。対戦相手のチームの面々の表情は一切わからなかったが、こちらのチームは小中学校時代の友人ばかりで構成されていた。運動神経の良い友人や親友たち、さほど運動神経は良くないが同じくバスケ部に所属していた友人たちと一緒に試合を楽しんでいた。そのチームの中で私はキャプテンかつ監督も務めていて、自分がチーム戦術を組み立て、その実行の指示も全てフィールド上で行い、タイムアウトの取得や選手交代も全て自分が担っていた。キャプテンかつ監督として、私はかなり熱意を持ってプレーをしており、その都合上、チームのメンバーである友人たちには結構きつい言葉で指示を出していた。観客として試合を見ていた知人たちはその様子を見て幾分驚いているようだった。知人たちは成人期以降の人格の私しか知らず、スポーツを行っている際の自分の人格については一切知らないからそうした驚きを持つのも無理はないと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/4/12(金)07:12


12493. 諸行無常性が体現された瞬間を生きて/今朝方の夢の続き


あぁ、なんと優しく美しい鳴き声だろうか。ここ最近はやたらと小鳥たちの鳴き声に言及しているように思う。常にそれを行っているような気さえする。しかしそれでいいのだろう。こうした常に傍らにいて支えてくれるものに意識を当て、それに感謝するというのは非常に重要なのではないかと思う。そう言えば、昨夜9時前に就寝しようとしていた時に、小鳥たちの鳴き声に耳を傾けながら就寝前の瞑想をしていると、諸行無常性に思いが向かった。こうして鳴き声を届けている小鳥もまた命には限りがあり、その鳴き声は一期一会の如きものなのだと思ったのである。そしてそこからさらに気付かされたのは、一瞬一瞬に自分が経験する事柄、知覚する事柄は2度と同じものとしてやって来ない諸行無常が体現されたものなのだという気づきであった。その一呼吸、その一味、その一感覚、その一想念、そうしたものを含めた全てが本当に2度と同じものとしてやって来ない尊いものに感じられたのである。今この瞬間を生きるというのはすなわち、諸行無常を感じて生きるということであり、2度と同じものがやって来ないことへの感謝の念を持って到来した存在に成り切って生きることなのではないかと思ったのだ。少なくとも自分は毎日の全ての瞬間をそのように生きたい。この命に与えられた役目を果たし、人生を終えるときまでずっと。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがある。そう言えば、ローマのコロッセウムのような闘技場で開催される学会に参加している場面があったと思い出したのだ。しかも夢の中の私は、その学会の司会進行役を務めていて、学会を取りまとめる代表者でもあった。なので学会が始まる開会の挨拶の際に、闘技場にいる聴衆に向かって挨拶をした。その学会には数人ほど知人の方々が発表者として登壇することになっていた。これまでの自分の専門分野である成人発達理論やインテグラル理論に造詣の深い知人も数人いて、彼らとパネルディスカッションをする予定にもなっていた。自分としては現在最大の関心を寄せている唯識学について発表することがとても楽しみで、その前に行われるパネルディスカッションはそれに向けた準備体操のような位置付けをしていた。闘技場の雰囲気も相まって、学会は大盛況を見せ、司会進行役としては嬉しい限りであった。そのような場面があった。フローニンゲン:2024/4/12(金)07:43


12494. アクティブレストとしての草刈りを終えて   

   

時刻は午後4時半を迎えようとしている。先ほど、昨日のジムでのトレーニングを受けてのアクティブレストとして、庭の草刈りを行なった。正味30分ほどで草刈りを無事に終えることができたのも、草が完全に伸び切ってしまう前に刈ったからであろう。これから春を正式に迎え、秋がやってくるまでは生命力が豊かになってくる季節となるので、草が伸び切ってしまう前にこまめに草刈りをしようと思う。草刈りは気分転換としてもちょうどいいし、何よりアクティブレストにもなる。そして庭という物理世界は自分の心を表すという唯識的な発想を用いれば、庭を綺麗な状態に保っておくことは心を綺麗な状態に保つこととイコールであるがゆえの重要性を持つと言えるだろう。


草刈りを始めてしばらくすると、敷地内に現れた男性に声を掛けられた。よく見ると、同じジムに通っている知り合いで、その男性は敷地内の車庫を借りていることもあって、時折敷地内でも見かける知り合いだった。その方とそこから少し雑談をした。その方は今朝方子供を学校に送り届けた後に午前9時からジムに出かけたらしく、明日もまた朝にジムに行くようだ。車庫に置かれている2台のバイクのうち、新しく購入した赤いバイクはとてもカッコ良く、ヤマハ製のものだった。何やらその方は今度スコットランドにツーリングに行くらしい。数年ぶりのスコットランドということでとても楽しみにしているとのことだった。イギリスのニューカッスルから入って、スコットランドの風光明媚な町のエディンバラに行くとのことで、自分もエディンバラにはいつか行ってみたいと思っていたので興味深く話を伺った。その男性はとても気さくな方なので話に花がさき、そこからもしばらく談笑をしていた。そんなこんなで草刈りを終えた次第である。


そう言えば今朝方、家のオーナーのペイトラさんから1枚の写真をメッセンジャー経由で送ってもらったのを思い出した。オーナーの家の庭に桜の木が植えられていて、それが花開いている美しい写真だった。その写真を眺めながら、日本の桜のことを思った。この13年間の間で日本で桜を見たのは2度しかない。2014年と2015年の春に一時帰国していたタイミングで2回ほど日本の満開の桜を見る機会に恵まれたが、それ以来は1度も日本で桜を見ていない。日本の桜はとても美しいことを懐かしく思い出しながらその写真を眺めていた。フローニンゲン:2024/4/12(金)16:30

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