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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12319-12323:2024年3月16日(土)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12319. 今朝方の夢

12320. ここからの1年/今朝方の夢の続き

12321. 種蒔きとしての『成唯識論』の英訳書の音読

12322. 一人称的表現の休止

12323. 外国語を学ぶように唯識思想を学ぶこと


12319. 今朝方の夢 

       

時刻は午前3時半を迎えた。午前3時に起床したときには小雨が降っており、雨音が寝室に鳴り響いていた。どうやらもう少し小雨が降るようだが、午前6時頃からは雨はすっかり止んで、今日もまた晴れの日となるようである。最高気温は9度とそれほど高くないが、穏やかな1日として今日もまた自らの探究を前に進めていけそうである。


今朝方見た夢について早速振り返りをしておきたい。いくつかの夢を1つの川の流れのように見ていたのが今朝方の夢だった。


夢の中で私は、見慣れない学校にいた。ちょうど廊下を歩いていると、小中学校時代に一番背の高かった友人(YK)と中学校から別の学校に転校した女子が流しでふざけあっている姿を見かけた。2人は最初こそ笑いながらふざけあっていたが、友人が女子の首元から冷たい水をかけた。彼女はそれに対して怒るかと思っていたが、彼女は怒りをあらわにすることなく、1階の保健室で着替えをしに歩き始めた。そんな彼女がいたたまれなくなったので、私は彼女のところに駆け寄って、ポケットからハンドタオルを黙って渡した。すると彼女はニコリと笑い、「ありがとう」と一言述べた。そのような場面があった。


この場面の後に、同じく学校を舞台にした場面があった。そこでは8教室ぐらいある中の7教室が外国人ばかりが集まっていて、1つの教室にだけ日本人の学生が集まっていた。どうやらその教室は帰国子女が集まる教室のようだったが、彼らの大半は英語が不慣れで、どこか学校全体の中で浮いた存在に見えた。外国人と日本人が集まっている教室は全く雰囲気が違って驚いた。前者の外国人だけが集まる教室は活気というか熱気というか、とにかく力強いエネルギーがあった。一方、日本人だけが集まる教室はどこか静かというか、幾分陰湿な感じと形容してもいいような負のエネルギーが充満していた。外国人だけが集まる教室を見て驚いたのは、そこにいた生徒たちが全員、男女を問わず髪の周囲を剃り、中央の髪を編んで後ろに長く垂らした辮髪(べんぱつ)姿だったことだ。教室にいた全員がそのようなヘアスタイルだったので、少し異様に思えたが、むしろ統一感があってすぐに見慣れてしまった。そこから再び日本人だけが集まる教室に向かった。彼らはどうやら中学3年生の受験生のようで、受験勉強をしないといけないようだった。ひょっとしたら受験という制度が彼らからエネルギーを奪い、教室を陰湿な雰囲気にしているのではないかと思った。教室に入ると、どうやら私は教師の1人のようだったので、彼らが勉強するのを見守ることにした。すると、教壇の真ん前に座っているのが、協働している会社の中堅社員の男性だったので驚いた。彼は真面目に数学の問題を解いていたが、幾分問題に苦戦しているようだった。しばらく彼の様子を彼に気づかれないように眺めていると、彼が時折引き出しの中の答えを見てノートに書かれた自分の答えを消して修正していることを発見した。それは不正であり、さてその不正に対してどのように対処しようかと考えていたら、彼は立ち上がって回答途中のノートをそっと破り、ゴミ箱に捨てに行った。そしてまたまっさらなノートに、すでに答えを見て解答が分かっている問題を解き直すことをし始めた。その様子を廊下から見ていた別の先生が突然教室に入ってきて、彼に厳しい口調で注意をし始めた。それを受けて彼は縮こまり、もう不正はしないということをその場で全員の前で誓った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/3/16(土)03:46


12320. ここからの1年/今朝方の夢の続き    


ここから1年という時はどれだけ早く流れるのだろうか。ここからの365日はどれくらい早く流れ、その中で自分はどこまで自らの取り組みを前に進め、心の成長を実現させていけるだろうかとふと考えた。これまであまりここから1年のことを考えることはなかったように思う。どういうわけか、今朝方はふとここからの1年に関する過ごし方について考えていた。展望がそっと静かに開かれていった感覚があった。自分から展望を開くというよりも、景色の方が勝手に開かれていったという感じである。ここから1年間は、兎にも角にも唯識思想の研究に集中したい。それを体験を通じて支える形で、隔週で行うシロシビン・セッションがある。そのセッションの支えは非常に大きく、それがあるからこそ、体験を通じて唯識思想を深めていくことができる。とにかくこの1年はもっぱら唯識思想の研究にだけ心を集中させ、進めるところまで探究を進めていきたいと思う。この1年集中して唯識思想の研究に没頭することを通じて、唯識思想に関して少なくとも修士号レベルの知識を習得したいと思う。そのための努力は一切惜しまない。むしろ努力を努力と思わない次元で喜びと楽しみの感情の中で唯識思想の研究に打ち込めるのではないかと思う。唯識思想の研究に没頭することを毎日行っていれば、きっとこの1年は充実した形であっという間に過ぎていくであろう。その過ぎゆく時を楽しみたい。過ぎゆく過程で得られた学びに感謝をし、その学びをまた多くの人に共有していくような1年間を過ごせたらと思う。足下の毎日の探究目標と1年間の探究目標の双方を持ちながら、ここからの1年間を充実した形で過ごしていきたいと思う。


今朝方の夢の続きとして、父とイルカ釣りをしている場面があったことを思い出す。そもそもイルカを釣りの対象にしている点に最初は違和感があった。特に釣ったイルカを食べるということには強い違和感があって、父が一緒にイルカ釣りをしようと述べたときにはその提案にすぐさま乗ることができなかった。一応釣り場に一緒に行き、自分は釣りをしないが父がイルカを釣る様子を眺めることにした。イルカを釣る方法として、まず人間に懐いているイルカを捕まえて、そのイルカのおでこあたりに醤油を垂らし、そのイルカを海に返す。すると他のイルカたちが醤油の香りに集まってきて、集まってきたイルカを釣るというやり方のようだった。父が述べるのだからそのやり方で間違い無いと思うが、果たしてそれで本当にイルカが釣れるのだろうかと少し疑問に思っている自分がいたことは確かである。イルカが釣れる姿を見てみたいという思いと同時に、釣ったイルカを食べるという残虐な行為を見たくなかったので釣れて欲しく無いという気持ちが同居していた。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/3/16(土)03:57


12321. 種蒔きとしての『成唯識論』の英訳書の音読       


時刻は午前5時を迎えた。今し方モーニングコーヒーを淹れ、ここからはコーヒーを片手に唯識思想の研究に打ち込んでいく。今日は午前中にゼミナールのクラスがあるので、それまでまずは集中して研究を進めていこう。今日のゼミナールのクラスは第71回ということで、引き続き川面凡児先生の神道神学を扱っていく。確かに今の自分の関心はもはや瑜伽行唯識学のただ一点にあるが、神道との関連で唯識思想を捉えていくことにも実りがあるため、現在進行中のクラスにも大いに意義を感じている。ここからゼミの受講生の皆さんと唯識思想を本格的に扱っていこうと考えており、皆さんがまたどのような反応をするかが楽しみであるし、クラスの中でのやり取りはここからの唯識研究において非常に貴重なものになるだろう。皆さんのコメントや疑問は自分の研究を前に進めていく際の本当に大きな後押しになっていると実感する。


今日の探究もまずは『成唯識論』の英訳書の音読から始めていこう。それは1日の探究の最良のウォーミングアップになる。しかし、単にそれを探究上のウォーミングアップとするのはもったいなく、内容を全て暗記する覚悟を持って音読していくようにしている。当然ながら最初の音読だけで暗記をすることはできない。これから繰り返し繰り返し何度も音読をすることを通じて、少しずつ知識を自らの存在に染み渡らせていきたいと思う。それこそ唯識用語で言えば「薫習」である。自分にとって『成唯識論』の英訳書を音読することは、唯識思想の内容を薫習することに他ならない。阿頼耶識に種子として投げ込まれていく日々の音読行為は、必ずどこかで良い形で現行するだろう。それがどのような内容を伴うものか分からないが、日々の実践を通じた種蒔きは必ず良い結果をいつかどこかでもたらす。現れる良き結果を楽しみにしながら、ひたすら愚直に自分は良い種を蒔いていくだけである。結果を見る楽しみよりも、自分は良き種を蒔くことにより楽しみと喜びを見出すのかもしれない。フローニンゲン:2024/3/16(土)05:16


12322. 一人称的表現の休止


この8年の間、日記の執筆を通じて着実な心の成長がもたらされていたように思う。日記の地道な執筆の効能を思う。それに対して1つ思うことがあった。これまでの日記では、あえて主語を明記する形で「自分は」「自分が」「自分の」などの表現を使っていたが、唯識思想を学べば学ぶだけ、こうした言語表現が逆に末那識を刺激し、自我執着心を強化することにつながりかねないのではないかと思ったのである。ここからは実験的に、できるだけ一人称的な主語を明記しない形で文章を綴ってみたいと思う。夢日記の執筆においても「私は」という表現をよく使っていたが、それもあえてやめてみる。それを通じてどのような変化が見られるかを確かめてみたい。一人称的表現を使えば使うだけ、自我への意識が強くなってしまう恐れがある。「私の」という所有格を使うと、そもそも無我であるはずの自己が実体化され、同時に所有格ゆえの対象への執着を生む。つまりここでは、仏教において克服されなければならない我執(我への執着)と法執(存在への執着)が強化されてしまう可能性が醸成されてしまうのである。それを避ける意味でも一人称的表現をできるだけ避けながら日々の日記を執筆してみよう。とかく一人称的表現を使わなくても日記を執筆することは可能なはずだ。理想としては、無分別の状態で日々を綴ることだろうか。言葉を用いるという行為そのものが分別を生む行為であり、それは不可避なものである。逆に言葉を用いるからこそ伝えられることや伝わることがあるという点も忘れてはならない。ここからの挑戦は、分別作用を不可避に伴う言葉を用いながら、我他彼此(がたぴし)の世界を超えていく形で無分別世界に入っていくことである。一人称的表現をできるだけ使わないというのは何かとても些細なことのように思えるかもしれないが、それが自他の区別を和らげ、対象との調和的一致をもたらすことにつながり得るのではないかと思った次第である。フローニンゲン:2024/3/16(土)06:51


12323. 外国語を学ぶように唯識思想を学ぶこと


時刻は間も無く午後5時を迎えようとしている。今日もまた穏やかな夕方の世界が広がっており、夕日がとても美しい。夕日の輝きはもはや春のそれである。気温としてはまだまだ肌寒い日が続くだろうが、夕日はもう春を示している。


振り返ってみると、今日も早朝の3時の起床から今にかけてとても充実した時間を過ごしていた。早朝からの唯識研究は一歩一歩の着実な歩みを見せ、午前中のゼミナールのクラスはとても充実していた。そこで受講生の方々となされた対話は自分の一生の財産である。そこでやり取りの1つ1つが自分の阿頼耶識に種子として薫習されていっているのは間違いない。ここまでの71回のクラスの積み重ねが今の自分を形成している。来週末のクラスもまた豊かな対話が実現され、お互いの心の成長がまた一歩進むような場になればと思う。


唯識思想の研究に日々打ち込みながらも、まだまだ理解不十分な点がある。それはそうで、元々この心の成長思想はすぐに修められるものではなく、長い時間をかけて継続して向き合っていくことを通じて初めて修められていくものである。とりわけ唯識思想は馴染みの薄い無数の用語で構築されている体系だと言える。なので根気よくそうした1つ1つの用語を押さえていくことが重要である。毎日1つでいいので新しい用語を自分なりに説明できるようになるだけで十分なのかもしれない。しかし確実に毎日1つは何か新しい用語を習得していきたいと思う。そのための実践としては、新しい用語を他者に説明してみることや、その用語を自らの体験と紐付けて内省実践をするというのは非常に有意義だろう。またこうして綴っている日々の日記の中で学んだ用語を活用してみるというのも非常に有意義な試みとなる。とにかく、毎日着実に唯識思想を構成する用語群と向き合っていき、自分に引き付けながら様々なコンテクストでその言葉に触れていくことを意識し、実際にその言葉を使った種々の実践に従事したい。そうすれば、外国語の習得と同じ、ある閾値を超えたときに唯識思想に関する理解の展望が一気に開かれ、唯識思想の叡智を縦横無尽に活用することができるようになっているのではないかと思う。フローニンゲン:2024/3/16(土)16:58

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