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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12041-12048:2024年2月4日(日)



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タイトル一覧

12041. 今朝方の夢

12042. 唯識思想の書籍の一括注文に向けて/唯識と実在

12043. 自己同一性の保存にとって重要な末那識

12044. 唯識思想とロイ・バスカーの批判的実在論の架橋に向けて

12045. 自身の究極的な関心/意識と心という言葉について

12046. 89種類の意識状態/意識の本質について

12047. 生活に密着したインド哲学・仏教思想の探究/唯識とゲーム世界

12048. 個人と集合の阿頼耶識の浄化に向けて/唯識思想に関する書籍の一括注文を終えて


12041. 今朝方の夢       


時刻は午前4時を迎えた。穏やかな日曜日の朝の世界が広がっている。その穏やかさをもたらしているのは、まだ夜が明けぬ深い闇である。夜明けまで後4時間ほどあるが、この静けさを味わいながら自分の取り組みに邁進したいと思う。


今朝方見ていた夢を早速振り返っておこう。夢の中で私は、未来の外国の都市にいた。確かに自分はその都市にいたのだが、どこか自分ではない自分がそこにいるような感覚があったのも事実である。そんな街で一人散策をしていると、気がつけばある建物の中に入っていた。そこで偶然、小中高時代の親友(HO)と高校時代のクラスメイトの友人(SK)と出会った。彼らとは久しぶりにあったのでゆっくり会話をしたがったが、そのような時間はなく、私たちは今あるゲーム大会に参加しているようで、そこで出された課題に取り組む必要があった。小中高時代の彼と私に出されていた課題は、鍛えた身体をアピールするというものだった。そのアピールの仕方については渡された紙に指示が書かれており、その指示に従う形で自らの鍛えた肉体をアピールすることが求められていた。周りには審査をする人だけではなく、様々な観客がいて、彼らの前で自身の肉体を披露するのは少し気が引けた。確かに自分の肉体は鍛えられているが、とは言えボディビルダーほどには決して鍛えられていないので、人様に見せるようなものなのか悩ましく思った。そのようなことを思っていると、まずは親友が先にアピールを始めた。彼に渡された指示書には、どうやら腹筋をリズミカルに叩いて音を鳴らすというものがあったようで、それなら自分もできると思ったが、きっと自分の指示書には別のことが書かれているのだろうなと思った。彼のアピールタイムが終わったところで、いよいよ自分の番がやってきた。ところが、突然私は瞬間移動して、同じ街の別の場所にいた。そこはオフィスの会議室のような場所で、そこで私は友人たちに勉強を教えることになっていた。そのような夢を見ていた。


今朝方の夢から学んだことや汲み取ったことを指摘するのは難しいが、物理的現実世界においては確かに肉体を鍛えており、ここ最近はさらに筋肉量が増していることもあり、肉体的な変化があのような夢を見せたのかもしれない。一方で、その肉体を披露することに関してはやはり自分は関心はなく、肉体を鍛えているのも健康を維持・促進するためであり、日頃の学術研究を思う存分楽しむ集中力とエネルギーを高めるためでもある。自分の深層心理として何を示唆しているのかはまた追って考えてみよう。フローニンゲン:2024/2/4(日)04:29


12042. 唯識思想の書籍の一括注文に向けて/唯識と実在


唯識思想を学べる楽しみ。今日もまたその楽しみに浸ることができる。その楽しみは無上のものであり、その楽しさの感覚に導かれながら唯識思想の探究がどんどんと進んでいく。今日は午後に時間を取って、唯識思想に関する英文書籍を購入予定である。英語で書かれた専門書に関しては、入手できる限り全てのものを購入しようと思っている。主には唯識思想の経典の英語翻訳であり、それ以外にも唯識研究者の解説書もいくつか購入したいと思う。おそらく合計で20冊から25冊ぐらいの数になるのではないかと思う。基本的には今日は唯識思想に限定して書籍を購入していくが、唯識思想をサイケデリクスやメタバース空間のリアルについて考察することに寄与するであろう形而上学的な書籍も購入したいと思う。実在に関する実在論的な書籍の購入を検討していると述べた方が正確かもしれない。いずれにせよ、今日は午後に時間を取って、文献購入リストを再度確認していきながら、ここからの唯識研究に必要な書籍を全て購入していきたいと思う。文献購入リストを再度吟味することも勉強になり、一つとして無駄なことはない。日々の全ての体験や事柄を学びの糧にしていき、自らのライフワークを思う存分に楽しみながらゆっくり前に進めていきたいと思う。

自分が知覚できる世界は自分の識の内側の世界であって、その外側にはロイ・バスカーが述べる現実世界(the actual)が広がっている。自分の識の内側が現実世界なのではなく、それは個人の経験世界(the empirical)なのであって、現実世界は自らの識の世界の外側に広がっているのだ。バスカーの批判的実在論と唯識思想を絡めればそのように言えるだろう。このように実在論と唯識を絡めた考察をこれからどんどんとしていきたい。仏教にはとてもユニークな実在論があり、永遠不滅の固定された実在はないと説きながら、縁の実在は認め、全ては縁起によって起こるとする実在論を持つ。また、全ての存在は空であるというのもまた非常にユニークな実在論である。「あるのでもなく、ないのでもない」という空的思想の実在論は大変興味深い。こうした実在論的発想の背後には、生滅を繰り返す森羅万象の本質があり、全ては一瞬一瞬のうちに生滅を経験しているがゆえに、あると思った瞬間にそれはなくなり、ないと思った瞬間にそれはあるという本質直観があるのだろう。全てはありやなしやなのである。自分の肉体の細胞も一瞬一瞬のうちに生滅を繰り返しており、自分の思考もまた絶えず生滅を繰り返して移り変わっていく。万物のこうした本質を捉えた仏教の思想の深さを身に染みて感じる。


そう言えば、上記で唯識思想に関する書籍に絞って文献を購入していこうと述べたが、それは正しくはなく、大乗仏教の2大学派である中観派の思想、とりわけ竜樹の思想に関する専門書もいくつか追加で購入しようと思っている。中観思想と唯識思想がここからの自分の世界を見る目の骨格になるだろう。フローニンゲン:2024/2/4(日)04:42


12043. 自己同一性の保存にとって重要な末那識


時刻は間も無く午前5時半を迎える。早朝の身体実践と創作活動を終えたので、ここから本格的に午前中の学術研究を始める。毎朝の日課として夢の振り返りをしているが、夢を見る前の自己のありようと夢を見ている最中の自己の有り様から、末那識の性質の面白さに改めて気づく。末那識は寝ても覚めても自己に執着する心の性質を司る意識であり、それは夢を見ていない深い眠りの意識においても存在していると言う。しかしそこでの働きとそれ以外の状態における働きは果たして同じなのかについて考えていた。働きは確かに自己に執着するという性質かもしれないが、その度合いはひょっとしたら違いがあるのかもしれない。と言うのも、夢を見ない深い眠りの意識においては自己意識が消失しているからである。もちろん意識の鍛錬を続けていけば、夢を見ない深い眠りの意識においても自覚的な自己を保てるらしい。チベット仏教にはそれを実現するための方法論があるし、アメリカの思想家のケン・ウィルバーの書物の中にもそうした状態の体験談が記載されている。自分はまだまだそのような状態まで意識を鍛錬していないが、ここから日々の瞑想実践と定期的なサイケデリック実践を続けていけば、いつか夢を見ない深い眠りの意識状態においても自覚的な自己意識を維持できるかもしれない。その時に末那識はどのような度合いと形で活動を続けているのだろうか。


それにしても、就寝を挟んで再び自分として起床するというのは考えてみれば本当に不思議なことである。昨日までの自己を保存し、自己同一性を保ってまた新しい1日が始まることの不思議さ。就寝を挟んで別の誰かに意識が移り変わっていてもおかしくないはずなのに、それがおきないことの不思議さ。その不思議さを生み出しているのが自己に執着する末那識の働きなのだ。ゆれにそれは否定的な存在では本来ないとも言える。仮に夢を見ている最中に純粋意識と化し、肉体から意識が離れ、末那識がなければ大変なことになる。基本的に私たちは熟睡の状態においては、意識は肉体から離れているのだが――というよりも肉体は意識の器として覚醒時において一時的に働くのに過ぎず、純粋意識は常に肉体の外にある――、もし末那識が機能しなければ、私たちは毎日寝るたびごとに別の人の意識が身体に入り込んでおかしなことになる。それはそれで映画になりそうな話であるが、肉体の制約から離れた意識がまた自分の肉体に宿って新たな1日が始まるというのは大変興味深く、それを実現させてくれているのが末那識の力だとも言える。発達理論の観点から言えば、自己同一性というアイデンティティの形成に末那識は大事な役割を担っているのである。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2024/2/4(日)05:37


12044. 唯識思想とロイ・バスカーの批判的実在論の架橋に向けて


今の自分の学術的・実践的関心の的である唯識思想。それは心理学的・哲学的一大思想体系であり、豊かな実践的可能性を持つものでもある。心や意識を扱う広大無辺な思想体系でありながら、あるいはそれゆえに私たちが心豊かな人生を送る上で非常に実践的な示唆を与えてくれるものでもある。学術研究の対象としても、また実践の対象としても唯識思想が持つ可能性は無限大であるところに自分は強く惹かれているようだ。


世親(ヴァスバンドゥ)が唯識論を大成した後、その後を継いだ十大弟子がさらに唯識思想を拡張させていった。まさに彼らが活躍していたのがナーランダ僧院で、当時そこでは唯識が盛んに研究されていたという。中国の当時の法律を犯してインドに向かった三蔵法師こと玄奘。玄奘もまたナーランダ僧院を訪れて、そこで唯識思想について何年もの探究を行った。ナーランダ僧院を引き継いで設立されたナーランダ大学でいつか唯識を研究したいものである。それは自分のささやかな夢である。


認識されるものも意識の内側にあり、認識されないものは認識の外側にあるが、それもまた意識の内側にあるのである。意識は本来空間性を持たないので、意識の外にあるものもまた意識の内側なのである。唯識思想では、確かに個人の意識の外にあるものは存在しないと述べているが、それはその個人にとってその時点において存在していないだけであって、他の人の意識内ではそれは存在している可能性が絶えずあるのだ。ロイ・バスカーの批判的実在論を借りれば、私たちにはそれぞれ固有の経験世界があり、その経験世界は個人の意識で成り立っている。バスカーはそうした個人の意識で成り立つ経験世界の外に現実世界が広がっていると言い、経験世界と現実世界を貫く法則やメカニズムなどが存在する世界として実在世界という概念を立てた。このバスカーの図式も唯識思想を用いればまた説明の肉付けができるだろう。全ては仮の空的な存在であるという実在論(実在・非実在論?)を持つ大乗仏教において、バスカーが述べる個人個人の経験世界、現実世界、実在世界のそれぞれの性質とそれらの関係性についてより解像度高く考察していきたいと思う。今のところ思弁的実在論よりも批判的実在論を選んで唯識思想と関連づけようと思っているのは、バスカーが最初から最後まで大事にした思想の実践性である。バスカー自身がインドの血が入っており、晩年においては世界の諸宗教と霊性の探究をし、絶えず個人と社会の解放を希求して学術研究を行っていたという点に共感するからである。もちろん思弁的実在論の1つであるグラハム・ハーマンのオブジェクト指向存在論などは大きな実践的応用可能性を内包しているが、バスカーの根底にある思想は仏教の根底にある解放の実現とほぼ同じものであるため、バスカーの思想と唯識思想を架橋させていく試みもいつか必ず行いたい。フローニンゲン:2024/2/4(日)05:49


12045. 自身の究極的な関心/意識と心という言葉について


何のために毎日を生き、何のために学術研究と実践をしているのか。それは自分自身の解放のためであり、他者と社会の解放のためである。それに尽きる。むしろそれ以外に目的を見出せない。自分にとってはそれが日々を生きる究極的な目的なのであり、学術研究と実践における究極的な目的なのだ。神学者のポール・ティリックが述べた究極的関心に基づくと、自分の究極的な関心は自他と社会の解放の実現なのである。今日の学術研究と実践もまたその実現に向けた一歩であり、その一歩は既に全体の中の一部なのであるから、部分的な解放の実現に他ならない。こうした一歩一歩の解放の実現を毎日積み重ねていこう。いつかそれが大きな解放の実現につながることを信じて。


意識、心、感情。それら固有の特性と相互の関係性についてぼんやりと考え事をしていた。そもそも意識と心は意識哲学においては相互互換的に活用されることが多い。しかし、議論をより精密にしていく際には両者は違うものとして扱われる。そもそも言葉は固定された定義を持たず、文脈に応じて意味を変えるという特性を持つ。言葉は文脈の中で命を吹き込まれる生き物なのである。まずはその自覚を持った上で、意識哲学での議論を眺めていると、個人の意識と個人の心は同じものとして扱われていることがわかる。各人に別様の心があることから、英語においては“mind”は可算名詞であり、複数形を取りうる。個人の意識もまた各人固有の意識がある。しかし、意識の本質である純粋意識以降の話になってくると様相が変わってくる。純粋意識には2つの種類があり、1つには個人の純粋意識を挙げることができる。これは依然として心という言葉と相互互換的に使うことができる言葉である。しかし、個人の純粋意識は本来普遍意識と同一のものであるがゆえに、純粋意識を普遍意識と同一のものだと捉えた途端に、それは個人の意識に還元できず、複数を持たない唯一のものとなる。その時には心という言葉を与えることはできないが、しかし英語においては表現の工夫を凝らして、“the Big Mind”などと述べたりもする。この時にはそれは個人の純粋意識と普遍意識が一体化したものを指していると考えて良いだろう。日本語においては心は感情を含めて捉えられることもあるが、それもまた文脈によりけりである。感情を生み出す性質を心が持っているがゆえに、感情を生み出す主体としての心と生み出された客体としての感情を同一に見る見方もあるだろうし、それらを主客に分けて見る見方もできるだろう。こうしたことからも、意識と心は実に多義的なのであり、絶えず自分がどのコンテクストに立脚し、何を伝えたいのかを明確にしながらそれらの言葉の意味を同定させながら話を進めていくことが重要になるのではないかと思う。そのようなことを考えていた。。フローニンゲン:2024/2/4(日)06:22


12046. 89種類の意識状態/意識の本質について   

   

上座仏教と大乗仏教の根幹にある教えであるアビダルマにおいては驚いたことに、意識の状態を因果の果と対応させて89種類にわたって詳細に分類していることを知った。これまでウィルバーのインテグラル理論に親しんでいた自分からすると、そこで語られている意識状態の分類の少なさが明らかになってくる。確かにインテグラル理論の意識状態の分類は数が少ない分、大雑把な説明がしやすいのだが、意識内体験を詳細に分析していく時にはそのモデルは粗く、心許ないとも思っていた。そうした問題意識を持っていたところに、上座仏教の意識状態の詳細な分析モデルがあることを知ったのである。これはとりわけサイケデリック体験を紐解く際に非常に重要になるだろう。サイケデリック体験の見取り図として、上座仏教のアビダルマに記載されている89種類の意識状態を活用する道を探りたい。今日の午後に行う書籍の一括注文の際には、アビダルマに関する書籍も必ず専門書を何か購入しておきたいと思う。


唯識思想を用いて意識の本質とは何かに迫っていこうとすると、まずは意識の本質に阿頼耶識を見出すことができるだろう。実際に、意識とは阿頼耶識であるという教えを説いている人もいるぐらいである。それぐらいに阿頼耶識こそが私たちの知覚経験世界を生み出し、他の7つの識を生成し、それらに影響を与えているという点で非常に重要な存在であり、それを意識の本質に置く考え方には賛同できる。しかし、8番目の阿頼耶識を超えて9番目の阿摩羅識の方がより意識の本質に近いという考え方もできるだろう。阿摩羅識は無垢な意識として定義づけられ、それはリアリティ全体と同一化しているものであるという定義からわかるように、それこそが意識の本質であると考えることもできる。今のところ、まずは意識とは阿頼耶識であるというところから説明を始め、さらに奥の究極的な本質として阿摩羅識の説明を行うという流れを自分は採用したいと思う。


再びアビダルマの89種類の意識状態について考えてみたい。先ほど少し調べて見ると、どうやら本当にウィルバー 提唱した大枠としての意識状態のモデルをさらに細分化することができるようで嬉しい発見があった。端的には、ウィルバーが述べるグロスの意識状態をさらに細かく54個に分け、サトルの意識状態を15個に分け、コーザルの意識状態を12個に分け、それ以上の目撃者と非二元の意識状態をさらに細かく8つに部類していることを知った。この詳細な分類について解説した書物を必ず求めよう。それはここからの意識哲学の探究とサイケデリック探究に大いに役に立つであろう。。フローニンゲン:2024/2/4(日)06:42


12047. 生活に密着したインド哲学・仏教思想の探究/唯識とゲーム世界 


日々の全ての学びと実践をできるだけインド哲学と仏教を絡めて日記として記していくと、どれだけ学びと実践が豊かに紐解かれていくか、そして発展していくかを見てみたいと思った。ここから毎日少しずつインド哲学と仏教を学ぶ中で、絶えずそこでの学びを他の学びと実践に紐づけていくことを意識し、そこで考えたことや発見したことを日記に記していく。そうすれば、インド哲学と仏教の教えが真の意味で自分の生活の糧となり、深い次元での教えの体得につながっていくだろう。日々の生活と密着させながらインド哲学と仏教の学問的研究を行っていくこと。それをこからなお一層強く意識したい。


唯識思想を学ぶ意義は様々なものがあるが、それを苦からの解放という観点で言えば、まずは自己と世界を正しく見るためということが言えるだろう。意識が展開する詳細な心の性質と機能に関する分析を学びながら、それを常に日頃の自分のモノの見方に適用してみて、歪んだ見方を矯正し、できるだけ正しく世界をありのままに見ていくような鍛錬を積んでいきたいと思う。それはまさに唯識を通じた実践に他ならない。唯識の探究を通じて、自分のモノの見方のどこにどのような歪みがあるかを発見していこう。そしてその歪みをどうすれば正しい見方に矯正していくことができるのかをまた唯識を参照しながら考えていく。その繰り返しが重要である。歪みを少しずつ発見し、少しずつそれを矯正していくこと。そこに唯識の実践的な意義と価値を見出す。


私たちは別にコンピューターゲームをしていなくても、メタバースの世界にいなくても、社会的リアリティというのは多様なゲームが織り成す世界であるゆえに、私たちは最初からすでに何か特定の、そして複数のゲームの世界の中で生きていることになるのではないかと思う。自分がどのようなルールを持つゲームの世界に生きているのかに自覚的になり、そこからの脱却とゲームの世界をより良いものに変えていくためにも唯識思想を学ぶことの価値がある。唯識思想においては、心と意識の性質についての詳細な分析に加えて、この世界がどのように成り立っているのかという形而上学的な洞察にも非常に深いものがある。リアリティの性質について学んでいくことが、既存の歪んだゲーム的世界からの脱却と、それをより良いものに変容させていくことに不可欠かと思う。朝の瞑想をした後にそのようなことを考えていた。。フローニンゲン:2024/2/4(日)08:41


12048. 個人と集合の阿頼耶識の浄化に向けて/唯識思想に関する書籍の一括注文を終えて      

道徳的に正しい行いをし、真理を直視する集中力を養い、真理に関する洞察を得ることは、個人の阿頼耶識を浄化していくことにつながるだけではなく、それそのものが集合の阿頼耶識の浄化につながる。仮に自分が自らの阿頼耶識の浄化に取り組む中で得られたことを社会に共有することは、集合的な阿頼耶識の浄化にきっとつながってくるだろう。また、社会の中に流布跋扈する病理的あるいは歪んだ言説を正していくことも習合の阿頼耶識の浄化につながる取り組みだろう。大乗仏教の実践はそうした事柄に結実していくのではないだろうか。個人と集合の双方の阿頼耶識の浄化を通じて個人と社会の解放を実現していくこと。絶えずそれを目指した探究と実践を続けたい。


意識哲学の研究においても、サイケデリクスの研究においても、意識とサイケデリクスに関する歪んだ見方が社会に存在し、それが蔓延していることに問題意識を持つ。それが集合的な業を生み出し、その業に基づいて人々が発想や行動を生み出してしまう。そうした悪しき業を断ち切るための知見の共有や情報の発信が自分に課せられた使命の1つなのだろう。

時刻は午後4時半を迎えた。仮眠から目覚めておよそ3時間ぐらいの時間をかけて、2月の書籍の一括注文を終えた。購入予定の文献リストに記載されている1つ1つの専門書を再び中身検索をして、その書籍が本当に今の自分の研究に必要かを改めて吟味していった。それに没頭していると3時間ぐらいの時間があっという間に過ぎていた。ある意味、この再吟味のフェーズが書籍の概要を掴むことにつながっているし、今の自分の関心の輪郭をさらに明瞭なものにすることに役立っているため、非常に有意義な時間だった。今回の書籍の一括注文では、基本的に唯識思想に関する専門書に焦点を当て、それ以外の書籍もいくつか購入したが、それらもまた意識哲学の研究書であることに変わりない。当初は20冊から25冊ぐらいの注文になると予定ていたが、それよりもわずかばかり少ない19冊の注文となった。一旦これにて唯識に関する専門書は手元に揃うことになるので、ここからしばらくは書籍の追加注文はせず、本当に必要な書籍が見つかった場合にのみ追加で書籍を購入しようと思う。今回注文した唯識思想に関する書籍を全て読み込めば、唯識思想の全貌のみならず、非常に細かい点まで理解を深めていくことができるだろう。今から書籍の到着が待ち遠しい。フローニンゲン:2024/2/4(日)16:33

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