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【エディンバラ大学からの便り】19284-19289:2026年9月23日(水)

12 分前
読了時間: 13分


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タイトル一覧

19284

研究インフラとしてのEndNote

19285

今朝方の夢

19286

今朝方の夢の振り返り

19287

仏教倫理の最初のクラスを終えて

19288

D’Addarioの弦を3種類購入して

19289

ナオミ・アップルトン教授の興味深い研究アプローチ


19284. 研究インフラとしてのEndNote 

                   

時刻は午前5時を迎えた。昨日と同様に、今朝も午前4時半に起床した。この時間帯に起床すると、午前9時からのクラスに参加したとしても、そこまでの時間を有意義に使うことができる。日課であるクラシックギターの練習もある程度できるし、その日のクラスで何か口頭説明する時に備えた最終準備もできる。今日は午前9時から、仏教倫理のコースがある。エディンバラ大学では、自らの唯識研究だけではなく、無理のない範囲で専門性を水平方向に拡張させたいと考えているので、その試みの一つとして仏教倫理のコースを受講することにした。同じ仏教プログラムの中では、イーサンとゲイブもこのコースを一緒に履修することになっているので、今日また彼らと顔を合わせるのが楽しみだ。


昨日は、EndNoteというツールの便利さをようやく身体感覚として理解できた日だった。これまでは、文献管理ソフトと聞いても、PDFを整理したり、著者名や出版年を保存したりするための少し高機能なデータベースという程度に考えていた。しかし、実際にWordとEndNoteを連携させてみると、その本質は単なる「文献の保管庫」ではなく、読むこと、書くこと、引用することを一本の線につなぐ研究インフラなのだと分かってきた。特に感動したのは、Word上で引用したい位置にカーソルを置き、EndNoteから文献を選ぶだけで、本文中に (Gottlieb 2009, 191–197) のようなcitationを入れられることである。しかも、その瞬間にペーパーの最後へBibliographyまで自動的に生成される。これまでは、本文に引用を書いた後で、著者名、出版年、論文タイトル、ジャーナル名、巻号、ページ数などを一つずつ確認しながらBibliographyを作る必要があった。それが今では、EndNoteに正確な書誌情報さえ登録しておけば、引用と文献一覧がまるで地下水脈のようにつながっていることに驚きを隠せない。ページ番号の入力でも小さな発見があった。Chicago Author-Dateの場合、Suffix欄に , 28 や , 191–197 と入れることで、EndNoteが生成した著者名と出版年の後ろへ自然にページ番号を加えることができた。最初は (Heim 2019-28) のような奇妙な形になったが、Suffixは「ページ番号欄」ではなく、citationの末尾にそのまま文字列を追加する場所なのだと理解すると、一気に仕組みが見えた。こういう小さな仕組みを理解するたびに、ソフトに使われるのではなく、こちらが道具の構造を理解して使いこなしている感覚が生まれる。さらに便利なのは、引用スタイルを後から変更できることである。Chicago Author-Dateで書いていたものをAPAに変更する必要が生じても、すべてのcitationとBibliographyを一つずつ書き換える必要がない。研究者にとってこれはかなり大きい。引用形式そのものには知的価値はほとんどないのに、間違えると減点され、しかも手作業では大量の時間を奪われる。その機械的な部分をEndNoteに任せることで、本来集中すべき問い、論証、一次資料の読解、反論への応答に時間を戻すことができる。昨日感じたのは、EndNoteは単なる時短ツールではないということである。研究という営みの認知的負荷を再配置する道具なのである。文献整理や引用形式という細かな石ころを道端から取り除き、その分だけ思考の速度を落とさず歩けるようにしてくれる。これから文献が50本から100本、500本、1000本と増えていけば、その価値はさらに大きくなるだろう。研究生活のかなり早い段階でこの仕組みを整えられたことは、思っていた以上に大きな意味を持ちそうである。エディンバラ:2026/9/23(水)05:12


19285. 今朝方の夢

                    

今朝方は夢の中で、2人の見知らぬ少年と出会った。彼らは仲が良さそうだったのだが、途中から片方の少年が奇妙な行動にで始めた。なんと、地面にいたムカデを捕まえて、食べようとし始めたのである。もう1人の少年はそれを止めたが、ムカデを手に持った少年はムカデの背中にかぶりつき、本当に全て食べてしまった。背中を噛んでムカデの身動きを止めたのは、ムカデに刺されて毒が回らないようにする工夫のようであった。


次に覚えているのは、風光明媚な外国の海岸沿いの町で行われた自転車レースに参加している場面である。自分はレースに参加していることを忘れ、順位やタイムなど一切気にせず、海や山を眺めながら自転車を走らせることを楽しんでいた。景色に見惚れていると、目の前に長く続く下り坂ががあり、そこを下っていく際にはカーブもあるので速度を落としながら走行していこうと思った。


それ以外にも、おそらく共通のモチーフのように思われる夢が二つあった。一つには、米国メジャーリーグで大活躍したある伝説的な選手の走塁に関してフィードバックをしている場面である。その方の過去一番輝いていた時代のプレー動画を見ながら、その方の走塁に関して建設的な意見を述べていたのである。自分は野球には詳しくないし、走塁そのものについても精通しているわけではなかったが、人間発達の専門家として言えることがあったので、何も臆することなくその方に意見を述べた。この夢の場面の前後に、日本のある有名な芸人の方にスクワットジャンプを指導していた。最初その方にスクワットジャンプの効能について話すと、大変興味を持ってくれ、すぐさまその方は我流でスクワットジャンプを始めた。それを見た時に、それはフルスクワットジャンプではなく、ハーフスクワットジャンプだったし、リズム感がおかしく思えたので、実演を交えながらポイントを解説することにした。体の動かし方とリズム感の要諦を伝えれば、その方でもきっとすぐに効果的なフルスクワットジャンプができるだろうと思った。エディンバラ:2026/9/23(水)05:43


19286. 今朝方の夢の振り返り

                                         

今朝方の夢は、自分が「外から与えられた基準に従って前進する段階」から、「自分自身の感覚と知恵によって進み方を決める段階」へ移行しつつあることを象徴しているように思われる。最初に現れた二人の少年は、自分の内部に存在する二つの若い力なのかもしれない。一方は危険を察知して制止する慎重さであり、もう一方は危険そのものを取り込み、自らの栄養に変えてしまおうとする野性的な力である。とりわけムカデは、多数の脚を持ち、毒を備え、素早く動くことから、自分にとってまだ十分に整理されていない複雑な課題や不安の象徴とも考えられる。そのムカデの背中に噛みつき、毒を受けないよう動きを封じたうえで丸ごと食べる行為は印象的である。これは自分が困難を排除するのではなく、「消化可能な形」に変えて内部へ取り込む力を獲得しつつあることを示しているのかもしれない。毒さえも扱い方を知れば滋養になるという、錬金術的な場面である。そこから自転車レースへ移る構造も興味深い。レースとは本来、順位と時間によって価値が測定される世界である。しかし自分は競争そのものを忘れ、海や山を眺めながら走ることを楽しんでいた。これは現在の自分にとって、学業や研究や人生が「他者より速く走る競技」から「風景そのものを味わう旅」へ変わり始めていることを示唆しているのではないか。しかも目前には長い下り坂が現れる。下り坂では努力しなくても速度が出る。それゆえ夢の自分は、加速することよりもカーブで速度を調整することを考えている。今後しばらくは何かをさらに強く推進するより、自然に生じる勢いを制御することの方が重要になるのかもしれない。野球選手への助言と芸人へのスクワットジャンプ指導も、この主題と響き合っているように思われる。自分は野球の専門家ではないにもかかわらず、人間発達という別の角度から堂々と意見を述べている。これは自分の専門性が特定領域の檻から出て、異なる領域を照らす「携帯できる灯火」になりつつあることを象徴しているのかもしれない。スクワットジャンプでも重要なのは回数ではなく、深さとリズムであった。つまり夢全体が伝えているのは、「速さ」より「リズム」、「順位」より「風景」、「専門領域」より「本質を見る眼」なのではないか。そう考えると、ムカデ、自転車、走塁、ジャンプはすべて身体運動という一本の糸で結ばれている。自分は今、人生を頭だけで設計するのではなく、どこで噛みつき、どこで減速し、どこで踏み込み、どの瞬間に跳ぶのかを身体的に学び直しているのかもしれない。今朝方の夢は、自分にとって人生そのものが「勝つためのレース」から「正しいリズムを発見する運動」へ変わりつつあることを映した夢であるように思われる。エディンバラ:2026/9/23(水)06:27


19287. 仏教倫理の最初のクラスを終えて

             

つい先ほど、午前9時から行われた仏教倫理のクラスから帰ってきた。早朝には小雨が降っていたが、幸いにも自宅を出発する午前8時過ぎには雨が上がっており、曇り空の中、大学キャンパスに向かった。通学路はもう完全に記憶に留めており、晴れと曇りの双方の表情をすでに味わっている。有り難いことに、クラスが終わる頃には雲ひとつない晴天に恵まれ、爽快さを感じながら自宅に戻ってきた。帰り道には近所の大きな公園を横切るのだが、犬の散歩をしている人たちが多くいて、犬も彼らもとても気持ち良さそうだった。

さて、今日の最初の仏教倫理のクラスについて簡単に振り返っておきたい。前半はレクチャー形式で、後半はセミナー形式として進行した。とは言え、最初のレクチャーからポール・フラー博士はインタラクティブなやり取りを尊重しており、後半のセミナー形式と同じく、絶えず生徒からの問いやコメントで活発なやり取りが行われていた。昨日のクラスと同様に、自分も積極的に質問やコメントをし、25人ぐらいのクラスの中、自分が一番発言をしていた。今日のレクチャーとセミナーは、基本的に学部生に向けたもので、20人は学部生であり、5人の大学院生のうち3人が仏教プログラムに所属している。そうしたこともあり、仏教の知識で言えば大学院生はやはり学部生のそれを圧倒しており、また自分のように唯識や中観を深く学んでいる人はいないようだったが、それらの流派からコメントを多数することができたのだと思う。自分がエディンバラ大学の仏教プログラムに来た理由は、仏教全般の知識を水平方向に広げるためと、唯識や中観の思想に関する理解を垂直的に深めるためである。なので、あえてクラスの発言では、唯識と中観の枠組みから行うようにして、教授や他の生徒たちのレスポンスを楽しんでいる。今後もこのあり方を継続していくつもりである。大学院生のためのセミナーは、金曜日の午後に行われる予定になっているが、全員金曜日の夕方よりも午後の早い時間のほうがいいということで、今時間を調整中である。今日新しく知り合ったのは、自分の後ろの席に座っていたアメリカからやって来たウェスリーという大学院生で、彼は宗教研究プログラムに在籍しており、彼を含めてわずか2名しか修士課程の学生がいないとのことである。彼はとても社交的であり、気が合いそうな感じがしているので、これから彼との関係を深められることを楽しみにしている。エディンバラ:2026/9/23(水)11:55


19288. D’Addarioの弦を3種類購入して

                 

本日、D’Addarioの弦を3種類購入することにした。すべてNormal Tensionに統一したのは、張力という変数をある程度そろえながら、弦の素材と構造そのものが音や指先の感覚に何をもたらすのかを比較してみたいと思ったからである。ただし面白いことに、D’AddarioのNormal Tensionは各シリーズ内での分類であり、実際の各弦の張力まで完全に同一というわけではない。したがって厳密な実験ではないが、それも含めて身体で比較してみたい。最初のPro-Arté Dynacore(EJ45TT)は、低音弦に独自のDynacoreという撚り合わせた複合素材の芯を使い、高音弦にはTitanium treblesを組み合わせている。D’Addario自身も、反応の速さ、明瞭なプロジェクション、豊かなダイナミクスを特徴として挙げている。おそらく3種類の中では、温かさを残しつつ音の輪郭がくっきりし、右手のタッチに対するレスポンスも敏感なのではないかと思う。自分としては、音が単に明るいか暗いかだけでなく、発音した瞬間にどれほど素早く音が立ち上がるかを観察してみたい。Pro-Arté Carbon(EJ45FF)はさらに興味深い。低音側はDynacoreと同じ系統の複合芯を使う一方、高音側がfluorocarbonになっている。D’Addarioはこれを同社のクラシック用高音弦の中でも特に明るく、投射力の高い音として説明している。したがってDynacoreとの比較では、低音側の条件を比較的そろえながら、TitaniumとCarbonの違いを耳と指で確認できそうである。Carbonは細く硬質に感じられ、音像が前方へ鋭く伸びる一方、柔らかな丸みは少し減るかもしれない。旋律を弾いたとき、一音一音が光の点のように浮かび上がるのかを確かめたい。Classic Nylon Student(EJ27N)は最も伝統的で、clear nylonの高音弦と、ナイロン芯に銀メッキ銅線を巻いた低音弦という構成である。メーカーも温かさと扱いやすさを重視した入門用セットとして位置づけている。おそらくCarbonほど鋭くなく、Dynacoreほど反応が鮮烈でもない代わりに、丸く穏やかなクラシックギターらしい響きになるのではないかと思う。この3種類を順番に使うことで、弦交換そのものが小さな音響実験になりそうである。同じギターでも弦を替えれば、楽器の人格まで少し変わるはずである。音量だけでなく、立ち上がり、余韻、倍音、左手の感触、右手が弦を押し込んだときの抵抗感まで丁寧に観察していきたい。エディンバラ:2026/9/23(水)16:21


19289. ナオミ・アップルトン教授の興味深い研究アプローチ

                      

先ほど、ナオミ・アップルトン教授の研究領域と、自分が関心を持っている唯識・日本法相宗との接点について考えてみた。アップルトン教授は唯識や法相宗そのものを専門としているわけではなく、主な研究領域は仏教説話、特にジャータカ(本生譚)やアヴァダーナ(因果応報や過去世をめぐる仏教説話)、業、輪廻・再生などである。ただ、だからこそ自分の研究との組み合わせには面白い可能性があるように思った。自分はこれまで、唯識をかなり哲学的・教義的な伝統として捉えてきた。『唯識三十頌』や『摂大乗論』、『大乗荘厳経論』、『成唯識論』などを読むと、どうしても概念分析や論証の体系として理解しようとする。しかし、仏教思想は論書の中だけで生きていたわけではない。人々が業や輪廻、菩薩行、心の変容といった考えを理解するとき、物語はおそらく非常に重要な媒体だったはずである。哲学が骨格だとすれば、物語はそこに血液を流し、思想を生きた経験へ変える装置だったのかもしれない。唯識系の文献にも物語性が皆無というわけではない。たとえば『楞伽経』にはランカーという舞台設定があり、大慧菩薩との対話を通して阿頼耶識(ālaya-vijñāna)などの思想が展開される。『解深密経』も単なる哲学論文ではなく、仏陀と菩薩たちとの対話という形式をとる。こう考えると、教義の内容だけでなく、「なぜこの思想がこの登場人物、この場所、この対話形式を通して語られるのか」と問う余地がある。さらに自分にとって興味深いのは、日本法相宗との接点である。『日本霊異記』のような説話集には、業、因果応報、再生、僧侶の霊験などが具体的な人生の物語として描かれている。そこに体系的な唯識哲学を直接読み込むことには慎重であるべきだが、法相系の僧侶や寺院文化とこうした説話世界がどのように接続していたのかを問うことはできそうである。つまり、「唯識という思想が物語になると何が変わるのか」という問いである。アップルトン教授から学べるのは、唯識そのものの教義というより、物語を宗教思想の単なる飾りではなく、思想を形成し、伝達し、人々の感情にまで浸透させる媒体として読む方法なのだと思う。自分の『法相二巻鈔』研究は注釈文献を中心とするが、将来的には「法相唯識は何を論じたのか」だけでなく、「それがどのように語られ、記憶され、生きられたのか」まで視野を広げられるかもしれない。哲学の硬い鉱脈に、物語という地下水が流れ込む。その交点に、新しい研究の入口が見えてきた気がする。エディンバラ:2026/9/23(水)16:58


Today’s Letter 

The quality of my life has been improving day by day. The key is to fully enjoy each moment with a sense of gratitude. I’ll live today in the same way. Edinburgh, 9/23/2026

 
 
 

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