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【エディンバラ大学からの便り】19265-19268:2026年9月19日(土)

17 分前
読了時間: 9分


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タイトル一覧

19265

高揚感に包まれて/博士課程に向けての取り組み

19266

今朝方の夢

19267

今朝方の夢の振り返り

19268

一人将棋のような即興演奏


19265. 高揚感に包まれて/博士課程に向けての取り組み

                    

時刻は間も無く午前6時を迎えようとしている。昨日をもってして、オリエンテーション・ウィークが正式に終わりを迎えた形となる。いよいよ明後日から、本格的に授業が始まる。今、芯から湧き上がるような高揚感に包まれている。この歳になってこうした感覚に包まれるとは思っておらず、幾つになっても新しい環境での新たな探究生活は刺激に満ちているのだと思った。それはきっと、自分の心をさらに育むための不可欠な栄養分のように思える。兎にも角にも今は、エディンバラ大学というこれ以上ないほどの環境を提供してくれる研究大学で、素晴らしい教授や仲間たちと仏教についてとことん探究できることが嬉しくて、有り難くてしょうがない。この幸運に深く感謝し、とことんまで研究に打ち込んで、智慧と慈悲をさらに深めたい。自分がこの地でやることはそれである。そのためにはどんな犠牲も惜しまない。もはやそれは犠牲ではなく、何かを得るためには何かを捨てなければならないのである。全てを得ようとするのは傲慢であるし、時間・能力・資源の観点からも不可能である。物理的にも精神的にも、断捨離するものは断捨離し、身軽になって打ち込むべきことに打ち込むのみである。


一昨日に、アメリカ人の博士課程に在籍しているキリスト教の組織神学を探究している学生に博士課程の出願について色々と有益なことを聞いた。知らなかったこととして、確かに宗教学関係の博士課程に入学できる合格率は高くはないが、かといって低すぎるというわけではなく、むしろ学費免除や生活費の支給となると話は別だということだった。経済的に余裕があれば、全てを自費で賄う形で3年間の博士課程での研究を遂行していくことも珍しくないとのことである。自分はその形式であったとしても、是非ともイギリスの博士課程で研究を続けていきたいという考えを現時点では持っている。修士課程に在籍している間は、課題量を含め、各コースと修士論文の執筆に集中したいため、査読付き論文を提出することは現実的ではないだろうが、将来の査読付き論文を見据えた形で各コースのファイナルペーパーを執筆していきたいと考えているし、それぞれのファイナルペーパーが修士論文や博士論文につながるものとして位置付けていこうと思っている。エディンバラ:2026/9/19(土)06:10


19266. 今朝方の夢

                                         

今朝方は夢の中で、とても感動的な場面に立ち会い、感涙にむせていた。その場には、ジョン・エフ・ケネディ大学時代に知り合った少し年上の男性の知り合いがいて、彼が何かクラスを受け持っているようだった。出席を取りながら、受講者が事前に回答した受講動機についてのアンケートを読み上げていた。その中で彼がふと、自分がここ最近強く実感として感じるようになっていたことを見事に言葉にしたのである。彼はこう呟いた。「人はよく流れの中で生きるというけど、それはどこかで聞き齧った言葉を繰り返しているだけのことが多いんだよね。そこには真の意味で流れとはどういうことが実感として伴っていないんだ。自分の肉体も心も、そして世界も流れゆくものである。そんな中で、ある一瞬を切り取ると、それらが静止しているかのように映る。実際は、動と静は表裏一体のものであり、真の意味で流れとして流れの中で生きるというのは、そうした表裏一体の関係すら超える形で生を営むことなのだと思う」。この言葉を聞いた時、まさに最近自分が強烈な実感を伴っていた生の感覚だと思ったのである。五感を通じて知覚される世界そのものが流れとして存在しているし、心を通じて把握される世界もまた流れとして存在している。流れとして構築された世界の中で、自己そのものも絶えず流れとして生成を続けている。一刹那に注目すると、そこには静を見る。自己も自らの人生も、動と静が織りなす交響曲として知覚されるという感覚が日増しに強くなっていた。そのような状況ゆえに、知人の彼の言葉が自分の胸に刺さり、感動の涙を流したのである。


もう一つ覚えているのは、見慣れない高級マンションの高層階の途轍もなく広い一室を自分は所有しており、そこを開放して数人の男女を招いてパーティーを開催していた場面である。普段こうしたパーティなどをしないのだが、その日は特別のようで、自分も気乗りする形で多くの人を自宅に招いた。知り合いばかりなので気を遣うこともなく、早速やって来た女性の知人と楽しく会話を始めた。エディンバラ:2026/9/19(土)06:43


19267. 今朝方の夢の振り返り

             

今朝方の夢は、自分の内側で進んでいる認識の変化が、思想ではなく身体感覚を伴う世界理解へと移行していることを象徴しているように思われる。最初の場面で、かつてジョン・F・ケネディ大学時代に知り合った少し年上の男性が教師として現れたことは興味深い。彼は単なる知人というより、自分の過去の探究を現在へ運んでくる「内なる先達」のような役割を担っているのかもしれない。しかも彼が語るのではなく、受講者の動機を読み上げる過程で核心的な言葉が生まれている。これは、何かを意図的に追求した末に真理へ到達するというより、多くの声が交差する場所で、突然、自分がすでに知っていたことが言葉になるという構造を示しているように見える。そこで語られた「流れ」は、この夢全体の中心的な象徴であると思われる。自分にとって流れという概念が、もはや人生訓的な標語ではなく、身体、心、世界が瞬間ごとに生成しては変化していくという実感へ変わりつつあるのではないか。夢の中で涙が流れたのも重要である。涙そのものが液体であり、固定された理解が溶け、流動的な理解へ移行する姿を体現しているようにも思われる。頭で理解していた思想が氷だとすれば、それが溶けて水となり、自分という河川を実際に流れ始めた瞬間なのである。また、動と静が交響曲として感じられるという感覚は、自分が対立項を統合するだけでなく、その対立を成立させている枠組みそのものから少し距離を取り始めていることを示唆しているのかもしれない。一音だけを切り取れば静止しているが、旋律として聴けば絶えず移り変わっている。同様に、自分という存在も固定された名詞ではなく、瞬間ごとに演奏され続ける動詞のようなものとして経験され始めているのであろう。後半の高層マンションは、その変化に対応して拡張された心的空間を象徴しているように思われる。見慣れないほど広大で高い部屋を「所有している」という点から、自分自身もまだ十分把握していない精神的な余白や可能性が開かれ始めているのではないか。高層階は俯瞰的視点、広い室内は心理的容量の拡大を示しているように見える。さらに、自分がそこを独占せず、人々を招いていることが重要である。以前なら個人的な探究として保持していた内的世界を、今後は他者と共有する段階へ移っていく可能性を示しているのかもしれない。しかも義務的な集まりではなく、自分自身が楽しんでいる。これは知識を「教える」関係から、同じ空間で共に世界を味わう関係への移行を象徴しているようにも思われる。二つの場面をつなぐなら、この夢は、自分の中に一本の大きな河が生まれ、その河がやがて広い海へ注ぎ始めた光景なのかもしれない。前半では自分が流れそのものを発見し、後半ではその流れが他者を迎え入れる空間へ変化している。自分は世界を理解しようとしているだけではなく、世界と共に流れながら、その流れの中へ人を招き入れる存在へと少しずつ変わっている。その生成の只中にいることへの深い歓喜が、夢の中の涙として現れたのであろう。エディンバラ:2026/9/19(土)07:32


19268. 一人将棋のような即興演奏

                 

ふと即興演奏について考えていると、数学の問題を解くというよりも、将棋の定石を身につけながら、その場その場で創造的に指していく感覚に近いのではないかと思えてくる。数学の問題には、少なくとも多くの場合、あらかじめ設定された問いがあり、そこに対して論理的に正しい解へ到達することが求められる。もちろん高度な数学には創造性が必要であるが、問題そのものがある程度固定されているという意味では、演奏中に次の一音を生み出し続ける即興とは少し性格が違う。その点、将棋はかなり似ている。将棋にも定石や手筋があり、盤面を無視して好き勝手に駒を動かすわけではない。長い歴史の中で蓄積された「この局面ではこう指すとよい」という知恵を身につけ、その文法を身体化したうえで、一局ごとに異なる展開へ対応していく。クラシックギターの即興でも、スケール、和声進行、カデンツ、アルペジオ、声部進行、リズムの型などが、自分にとっての定石になっていくのだろう。面白いのは、定石を知れば知るほど自由が失われるのではなく、むしろ自由が増えていく点である。初心者にとって自由とは、何でも弾いてよいことに見える。しかし実際には選択肢が多すぎて、何を選べばよいかわからない。これは将棋盤を初めて見た人が「好きなように指してよい」と言われても、創造的にはなれないのと同じである。定石とは自由を縛る檻ではなく、自由に飛ぶための滑走路なのかもしれない。即興中には、今鳴らした音が次の局面を作る。一つの和音を選べば、その瞬間に次の可能性の地図が変わる。ある音を長く伸ばせば緊張が生まれ、休符を置けば期待が生まれ、不協和音を選べばどこかへ解決したくなる。この感覚は、一手指すたびに盤面全体の意味が変わる将棋に近い。しかも重要なのは、数手先を完全に決めてから弾くわけではないことである。ある程度先を予測しつつ、直前に鳴った音を聞き、自分自身がその音に応答して次を選んでいく。自分が作曲者であると同時に、自分が生み出した局面に反応する演奏者でもある。そう考えると、即興の上達とは「正解を速く出す能力」ではなく、「良い局面を作り続ける能力」なのだと思う。音楽的な定石を学び、それを必要に応じて崩し、ときには予想外の一手を置く。しかし、その逸脱も定石を知っているからこそ意味を持つ。即興演奏とは、音の盤上で行う一人将棋のようなものなのかもしれない。自分で一手を指し、その一手が作った世界を聴き、そこからまた次の一手を選ぶ。その連続の中で、最初には存在しなかった音楽が少しずつ姿を現してくるのである。エディンバラ:2026/9/19(土)09:22


Today’s Letter

It’s a little windy today. The wind caresses the city—and my heart, too. Can I be such a gentle wind for others and for the world? Edinburgh, 9/19/2026

 
 
 

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