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9485-9490: フローニンゲンからの便り 2022年11月23日(水)



No.4201 天空の身体性_Celestial Somatization


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.2002, A Pastel Morning

This morning looks pastel.

It exudes soft happiness.

Groningen; 10:35, 11/23/2022


No.2003, Contingency and Necessity

The world is saturated with contingency.

That is the necessity of the world.

We are living in the world that is full of contingency and necessity.

The world is transcendental in that sense.

Groningen; 10:38, 11/23/2022


No.2004, The Pleasurable Afternoon

The afternoon smiles pleasurably.

I wish the world would be full of pleasure.

Groningen; 12:43, 11/23/2022


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本日の2曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

9485. 即興演奏の楽しみと学び

9486. 向こう側の世界/2つの実在論

9487. 日記がもたらす幸福感/今朝方の夢

9488. 落ち葉に満たされた道/含んで超える道

9489. オランダ永住権・欧州永住権の手続きを終えて

9490. 啓蒙の虚偽/批判的実在論の入門講座の開催に向けて


9485. 即興演奏の楽しみと学び


時刻は午前8時半を迎えた。今、空はうっすらとした雲に覆われていて、朝日を拝むことはできない。季節が冬に入り、朝はなかなか朝日を拝むことができなくなった。そうした天気を含めて、この地の生活が気に入っている。ここ数日間は寒い日が続いていたが、今日は比較的ましである。最高気温は9度、最低気温は6度とのことだ。今日は午後にオランダ中部の町ズヴォレの移民局に行く。先日提出したオランダ永住権·欧州永住権の申請に際して必要なものをさらに提出する。移民局でパスポートのコピーを取ってもらい、新たに指紋を採取する。移民局で行うのはそれだけであり、それさえ済めば、あとは申請が通るのを待つだけだ。遅くとも来年の5月までには永住権の結果が出るらしい。その頃にはアメリカに戻るのか、それとも引き続きヨーロッパで生活するのかが判明しているはずだ。どちらであったとしても、永住権があることによって居住の選択が広がることは間違いない。そのために今回永住権を申請したのである。


昨日の夕方に箏の稽古をしている最中に、即興演奏をしてみた。すると、それが随分と楽しく、またこれまで学んだ技術を意図的にふんだんに入れながら演奏していたので、良い復習にもなると思った。即興演奏で発揮できるものは自分の身体に身についたものなので、今日からも稽古の途中や最後に即興演奏を入れてみたいと思う。即興演奏は自分で曲を作っている感覚にもなるため、創作の楽しみもある。ジークンドーでインターバルトレーニング的に仮想の相手を見立てて即興で技を繰り出していくトレーニングが学びになるとの同じく、箏においても習った技を即興演奏の中でどんどん練習していこうと思う。楽譜の1音1音を意識的に追って練習する方法と、即興演奏を通じて1音1音を無意識的に慣らして行く方法の2つを日々の練習に組み入れてみよう。フローニンゲン:2022/11/23(水)08:46


9486. 向こう側の世界/2つの実在論


向こう側の世界。ここ最近は絶えずそれについて考えているような気がする。今日の自分が知らない世界が絶えず存在していて、そのうちのほんの僅かな部分が明日は既知の世界になる。そしてそれが一生続いていくと思うと、世界の深淵さに畏怖の念を覚える。絶えず自分が知り得ない世界が自分の外側に広がっていること。それは逆に言えば、今の自分が知り得ない自らの可能性が広大に広がっていることを意味するように思う。クァンタン·メイヤスーの思弁的実在論が述べるように、今そうであることとは違う何かが絶えず可能性として広がっている世界に驚く。今この瞬間に絶望的な状況にあったとしても、絶望的ではない世界が絶えず存在していること。個人にとっても、社会にとってもそれは当てはまる。これは重要な認識論かつ存在論なのではないかと思う。絶えず今あるものとは違う可能が自分の外側に広がっているという認識·存在形式を持って生きること。それを大切にしたい。仮に今この瞬間に希望の光に導かれて歩みを進めていても、いつ不条理の谷に落ちるからはわからない。だがそうだったとしても、この世界は絶えず偶発性に満ちているという必然性を内包して存在しているものだという認識があれば、歩んでいる道が希望の道であっても、絶望の道であっても等しく引き受けることができるのではないかと思う。昨夜はそのようなことを考えながら就寝していた。


今、ロイ·バスカーの批判的実在論にせよ、クァンタン·メイヤスーの思弁的実在論にせよ、それらに注目している理由は、実在の根拠を自分が欲しているからだろうか。そうした個人的な理由に加え、社会的にも新たな実在論が求められているように感じることもまた重要な理由だ。認識論過多に陥っているように見える現代社会の中で、存在の根拠や存在の意味を巡る議論や関心が薄れてきているように思える。存在を重視しない議論や実践があり得るのだろうか。あるということがわからないゆえに、人はその瞬間にあるがままにあることに寛げないのではないだろうか。種々の実存的不安も存在論の希薄さに由来しているのではないだろうか。社会問題を同定する際にも存在論の観点がなければならない。自己の所在、社会問題の所在、社会そのものの所在、そして世界の所在を巡る理解を深めていく存在論に関して、批判的実在論と思弁的実在論は大きな役割を果たしてくれるように思えてならない。だからこそ、それらの実在論を探究していくのである。フローニンゲン:2022/11/23(水)09:46


9487. 日記がもたらす幸福感/今朝方の夢


こうして日記を綴っている行為の中から幸福さが滲み出してくるのはなぜだろうか。箏の稽古やジークンドーの稽古にも似たような働きがある。そして、創作活動にも同じ働きがある。その中でも、日記を綴るというのは自分の中で特別な行為のようである。言葉と世界との関係性を考えてみれば、その感覚は当たり前なのかもしれない。言霊学的な発想を取ってみても、存在と言葉の強度な密着性から、自分の言葉で日記を綴るという行為がいかに重要かが見えてくる。本当に、こうしてただ脳裏に浮かぶ、いや存在に去来する言葉を掴まえて書き留めるという行為を通じて何とも言えない幸福感が滲み出てくることに驚きを隠せない。


そう言えば、今日はまだ今朝方の夢について振り返っていなかった。今朝方は2つほど夢を見ていた。最初の夢で私は、小中高時代の2人の友人(NK & YU)と一緒に飛行機の機体の掃除をしていた。公園のような場所に飛行機が止まっていて、どうやら先ほど空から地上に戻ってきたようだった。機長もCAも乗客も全て降りていて、私たち3人でその飛行機の機体を掃除していた。ホースを使って水を機体にかけ、スポンジで機体を洗っていった。その時に、小柄な友人の方が機体の背中の部分に乗っていて、上から私たちに汚れた部分を指摘してくれた。ふと機体の中腹を見ると、そこに血痕が付いていて驚いた。最初私は人の血かと思ったが、そんな場所に人の血が付くとは考えにくく、ひょっとしたら空を飛んでいる時に鳥か何かにぶつかったのかなと思った。掃除がひと段落した後に、せっかくなので公園でひと休憩していこうと思い、3人でベンチに腰掛けて少し休憩することにした。そこで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、サッカーのワールドカップに向けた合宿の話を小中高時代の友人(AF)としていた。彼は長らくテニスをやっていたのだが、彼はサッカーに転向し、なんと彼もワールドカップに出場することになったのである。私はそれに驚き、同時に彼にお祝いの言葉を掛けた。彼にワールドカップに選ばれたメンバーについて聞くと、驚いたことに高校時代の同級生や大学時代の同じクラスの友人も何人か選ばれていて、随分と知り合いが多いことに気づいたのである。そこで私はふと、彼らがワールドカップのメンバーに選ばれたのであれば、自分も本当であればワールドカップに出られたチャンスがあったのではないかと思った。それは別に後悔の念が伴うものではなく、むしろこの世界が実に多くの可能性に満ちたものであることを示す肯定的な感情を伴う気づきだった。フローニンゲン:2022/11/23(水)10:05


9488. 落ち葉に満たされた道/含んで超える道


今、ズヴォレの移民局に行くために、フローニンゲン中央駅のプラットホームに停車している列車に乗った。出発まであと数分である。自宅を出発してフローニンゲン北駅に向かっている最中に、地面の落ち葉がとても綺麗だった。紅葉もすでに終わりに差し掛かっていて、これから葉が全て落ちてくるのだろうが、裸になり掛けの木々を見て、最後の美しさを見せてもらったように思う。


天気予報では今日は夕方から小雨が降るようだが、その予報が嘘であるかのように、フローニンゲン上空の空は晴れ渡っている。念のため折り畳み傘を持ってきたが、それを使う必要がないかもしれない。


ズヴォレに行くために今このようにしてフローニンゲン中央駅にいるわけだが、先週末はTOEFL試験を受験しにアムステルダムに向かうためにこの駅を使った。外出をあまり好まない自分にとっては結構な頻度で駅に来ている。今日を過ぎれば、これから1ヶ月はどこかに出かけていく用事は特にない。もちろん、近場のジムやスーパーに行くことはある。列車を使ってフローニンゲンの外に出ることがないという意味である。では次回はいつフローニンゲンの外に出るかというと、今から1ヶ月後の年末に、モナコ公国とマヨルカ島に行く際である。日本からオランダに戻ってきて2週間ほどになるが、すでに次回の旅が楽しみになってきている。今週末にでも旅程を練って、航空券の予約とホテルの予約を済ませておきたいと思う。


先ほど、ピーター·スローターダイクの代表作である“Critique of Cynical Reason”を列車を待ちながら読んでいた。ズヴォレの移民局での待ち時間や帰りの列車で初読を終えることができそうである。この書籍を読みながら、本書の内容とは関係ないが、含んで超えるという発達現象について考えていた。今行っているオンラインゼミナールの最初の方のクラスで、「成人発達理論やインテグラル理論などのこれまで私たちが学んできた理論に引き付けながら今回のゼミナールのコンテンツを学んでいきましょう」というメッセージを伝えたところ、ある参加者から、「自分はそれらの理論をできるだけ使わないようにする」というメッセージをいただいた。このやり取りについて考えてみた時に、学んだことを手放すということは時に重要になりながら、その手放し方いかんによっては学習を妨げる可能性があると思ったのである。重要なことは、学んだ理論に縛られるのではなく、それらの理論を柔軟に活用しながら、含んで超えていくことなのではないかと思う。せっかく学んだ理論を無理に使わないようにするというのもまたおかしな話で、それを通じては含んで超えるという現象が起こらないのではないかと思う。そもそもで言えば、使わないと言っておきながら自然にその理論的枠組みで思考してしまう自分がいるという可能性もあり、そうした無自覚な現象が生じるぐらいであれば、意識的に理論を活用し、これまで学んできた理論では説明できない事柄や、それらの理論にはない新しい認識の枠組みが何なのかを探求するような姿勢を持った方が学習になるのではないかと思った次第だ。これはひょっとしたら、自分が既存の理論的枠組みを活用しようとする方便なのかもしれないが、学んだことを無かったことにして、含んで超えるという現象を生じさせにくくしてしまう道を歩むことは自分にとってはひどくもったいない道のように思えた。そのような考えが先ほど浮かんでたい。ズヴォレに向かう列車の中:2022/11/23(水)13:54


9489. オランダ永住権・欧州永住権の手続きを終えて


先ほど移民局で手続きを終え、今、フローニンゲンに向かう列車に乗った。ズヴォレの移民局に到着したのは、予約した時刻の5分前で、以前と異なって、移民局の入り口でパスポートや滞在許可書を提示するのではなく、建物の中に入ってそれを行うことになっていた。受け付けの人に尋ねると、何やら最近は移民局で申請をする人が増加しているようであり、仕組みを変えたそうだ。いつものように番号札をもらって中で座る場所を探した。すると、受け付けの人が言っていたように、中にはかなり多くの人がいて混雑していた。いつもは昼前に移民局に訪れるか、午後一番で訪れていたので、その時間帯の方が良かったかと思ったが、それは後の祭りであった。次回、晴れて永住権が取得され、その受け取りの際には時間帯を変えようと思った。


番号札の番号が表示される電光掲示板を見てみると、自分が呼ばれるのは結構後かと思った。予定では速やかに手続きを終えて、45分後にやって来る列車に乗ってフローニンゲンに帰ろうと思っていたが、それは少し難しいと思い、次の列車で帰る方が賢明かと思った。ところが、そこから次々に人が呼ばれて行き、20分ぐらい待って自分の番がやって来た。それを受けて、申請手続きの処理にかかる時間次第で予定の列車に乗れるかもしれないと思った。電光掲示板に表示されたブースに向かうと、いつも手続きをしてもらう1階には見当たらず、指紋を採取しているブースの人に尋ねた。すると、上の階だと言われたが、上の階に行くには職員のカードが必要のようだった。それはおかしいと思って、入り口の受け付けの男性に聞きに行こうと思って歩いていると、ふと右手に階段が目に入り、そこから上に上がって行けることがわかった。無事にブースに到着すると、そこで担当の職員の女性と少し話をした。どうやら移民局を訪れる人の増加に伴って、階を2つに分けてブースを増やしたようだった。1階で見た限りだと、イスラム系の人、スリナム系の人、イタリア系の人などが目についた。移民局を訪れる人が増加しているというのはどういう社会背景だろうか。そのようなことを考えながら、手続きを進めてもらうと、あっという間にそれが終わった。当初はパスポートのコピーを取ってもらって、指紋を採取することが必要だと思っていたのだが、どうやら移民局から送られてきた文書を誤訳していたらしく、実際には写真だけが必要だった。写真を1枚撮って、パスポートと同じ漢字のサインを登録して手続きは終わりだった。20分ほど待って、手続き自体は職員の方との会話を含めて3分ほどで終わった。最後に、職員の方から、申請結果は来年の5月までに出ると伝えられ、お互いに笑顔で挨拶をしてその場を去った。あとは気長に申請結果を待つだけである。フローニンゲンに向かう列車の中:2022/11/23(水)16:00


9490. 啓蒙の虚偽/批判的実在論の入門講座の開催に向けて


時刻は午後4時を迎え、辺りがうっすらと暗くなり始めている。一年を通しておそらくこの時期が最も暗くなるのが早いと言えるだろうか。もうしばらくは日照時間がかなり短い日が続くだろう。


移民局に向かう行きの列車の中と移民局で待っている最中に、ピーター·スローターダイクの代表作である“Critique of Cynical Reason”の初読を終えた。この書籍は今後精読したいと思う。初読の段階でも随分と得るものがあり、スローターダイクがフランクフルト学派の創設者であるマックス·ホルクハイマーとテオドール·アドルノの問題意識を汲み取りながら、冷笑的な合理性の問題点について様々な角度から論じている論考には考えさせられることが多々あった。1つには、理性を通じた啓蒙というものが結局のところ、理性によってこしらえられた虚構の物語に過ぎないというものである。そして、理性を通じた啓蒙には最初からそうした虚偽が混在しているため、いつまで経ってもそれが実現されることはないということである。本質的に限界を持つ理性を通じて人間解放を希求する啓蒙など実現するはずはないのである。そのようなことを多面的に突き付けてくる良著であった。帰りの列車の中ではまだ時間があるので、もう一度下線を引いた箇所を中心に読み返してみようと思う。


自宅を出発する前に、いてもたってもいられなくなったので、明日から批判的実在論の入門講座を作り始めようと思った。その次に、思弁的実在論の入門講座を作る予定である。それらについてはとにかく自分が思い立った時に好きなようにコンテンツを作っていくのが賢明かと思い、ゼミナールと紐づく形での集中講座という立て付けで開催しようと思う。この夏に開催していたラスキー博士を招待したプログラムにおいても、バスカーの批判的実在論についてはたびたび話題に上がっていた。ウィルバーのインテグラル理論と並ぶメタ理論である批判的実在論に関する分かりやすいテキストがあるので、それを課題図書にする形で、4回か5回ぐらいの集中講座を開催したい。それに向けて、早速明日からコンテンツを作成していこうと思う。特に今週末には時間があるので、コンテンツの作成に力を入れていこう。コンテンツを作成するという目的で文章を読むと、大変身になることから、今後もこれは日本の多くの人に共有したいと思うものについては講座を開催していきたいと思う。フローニンゲンに向かう列車の中:2022/11/23(水)16:16

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