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9028-9035: フローニンゲンからの便り 2022年9月1日(木)



No.3966 夕方の永遠性_Eternity of the Evening


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1759, Morning Reliability

The morning is reliable.

This reliability soothes my soul.

Groningen; 09:42, 9/1/2022


No.1760, The Semiotic World

The world is semiotic.

Symbols are omnipresent.

Symbolic operators control us.

We need to rebel agains them by symbols.

Groningen; 13:57, 9/1/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

9028. 今朝方の夢

9029. 今朝方の夢の続き

9030. 生と存在に先立つ政治/箏の癒しの効果

9031. マウリツィオ·ラッツァラートの論考から:借金による支配

9032. 負債の考古学と借金社会について

9033. 資本主義的記号論的世界を読み解く概念図式

9034. 日本型資本主義生成への神道の貢献

9035. 箏の稽古(19):「ジュピター」とピチカートの練習に力を入れて


9028. 今朝方の夢


時刻は午前8時を迎えた。このところは朝はすこぶる肌寒く感じられ、上に何か羽織る必要があるぐらいの気温である。今の気温は13度であり、やはりそれくらいの気温だと室内にいても肌寒さを感じる。今日から9月を迎え、何か気持ちも新たになる。早いもので、オットー·ラスキー博士をお招きするプログラムが来週の木曜日から始まる。最後の告知を今日中にしておこうかと思う。ラスキー博士をお招きするのはおそらく今回で最後だと思われるので、せっかくの機会ということもあって是非多くの方に参加してもらいたいところである。来週に入ってから、プログラムに向けた最後の準備をしておきたい。


そう言えば今朝方の夢の中で、今回のプログラムに関して知人の鈴木規夫さんと話し合っている場面があった。鈴木さんに資料を見せてもらったところ、プログラムの概要と詳細の双方がわかる素晴らしい資料だと思ったが、鈴木さんはその資料に不満があるようだった。何やらそれは鈴木さんが作ったのではなく、別の方が作ったようで、その方の働きぶりに不満があるようだった。話を聞くと、プログラムの内容に関する理解がさほどなく、細かな点で色々と抜け漏れがある点が不満とのことだった。確かに資料を改めて眺めてみると、表面的にはプログラムの内容を理解しているようだが、深くは理解しておらず、さらにはページ数の抜け漏れや誤字脱字などがあり、鈴木さんの不満もよくわかる気がした。そのような場面があった後、いくつかの夢を見ていた。


1つは、小中高時代の友人3人と昔流行っていた戦略トレーディングカードゲームをしている場面があった。目の前にはある親友(SI)がいて、彼と対戦をしながら、右隣で行われていた別の友人2人の対戦を眺めていた。自分の右隣に座っていた友人(HY)は、大変レアなカードを持っていて、ちょうどそれが場に出された。そのカードはキラキラと輝いていて、赤い竜が描かれていた。その竜はどこから見ても強そうで、カッコよく見えた。攻撃力も生命力も双方ずば抜けて高く、また緑色に輝く説明文を見ると、自己治癒する能力も兼ね備えているようだった。自分も次のターンでレアなカードを引き、場に出そうとしたら、それを召喚するための土地のマナが足りず、どうしたものかと思った。すると、それまでのターンで土地のカードがありながらも場に出していなかったので、それを一気に出そうと思った。本来そんなことはできないが、それはある意味不正なのだが、目の前の対戦相手の友人の目を盗んでマナを増やそうと思った。しかし、それでもまだマナが足りないように思えて、どうしたものかと考えた。するとそこで一旦休憩となり、隣にいた友人に改めてそのレアカードを見せてもらった。それは相当に希少価値の高いカードだったので、手に取ってみるこちらも慎重にそのカードに触れ、丁寧に扱う必要があった。友人はそのカードについて嬉しそうに語り、彼の得意顔はとても印象的だった。フローニンゲン:2022/9/1(木)08:19


9029. 今朝方の夢の続き


優しい朝日が降り注いでいる朝の時間を味わっている。そよ風がとても優しく、木々たちも喜んでいる姿が見える。今日もまた落ち着いた気持ちで自分の取り組みを前に進めていきたいと思う。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、もう少し振り返りたい夢があったのを思い出した。夢の中で私は、何気なく入った建物の中で見知らぬ画家の個展を眺めていた。遠くから見てもその作風には共感するものがあり、何という名前の画家が描いたのかと思って作品に近づいたところ、その画家が小中高時代の親友の1人(HO)であることに驚いた。彼がまさか画家になっているとは思わず、大変驚いたが、確かに彼にはそういうセンスが昔からあったなと思い、彼が画家になっていることをすんなりと受け止めることができた。しばらく作品を見ていると、上の階から誰か降りてくる足音が聞こえ、それが彼だとわかった。私は嬉しくなって階段の方に行き、階段を上った。するとそこにいたのはやはり彼であり、再会を大いに喜んだ。ところが、彼は長年の外国暮らしのためか、日本語もままならなくなっており、それに加えて、私のことも覚えていないようだった。彼は高校を退学したが、それでも小学校と中学校であれだけ時間を共にしていたので、彼が私のことを忘れるはずはないと思った。なので、彼の記憶が戻るように、昔話をたくさんした。すると、彼は最初こそ記憶が曖昧のようだったが、少しずつ記憶を取り戻していった。しかし、それでもまだ自分のことは思い出せないようだった。そこで、彼が覚えている別の親友(NK)の話をしながら、その親友と自分との繋がりを話すことによって彼の記憶を蘇らせようとした。結局、彼は記憶を完全に取り戻すことはなく、記憶を取り戻す過程で彼が少し混乱し、精神錯乱状態になりそうだったので、無理に記憶を思い出してもらうことをやめた。ひょっとすると、トラウマ記憶が彼の中にあり、それも合わせて思い出せてしまうリスクがあったからである。彼の記憶から自分の存在がこぼれ落ちてしまっていることは残念だったが、彼と再会できたこと、そして彼の素晴らしい傑作を見れただけでも満足であった。


その他に覚えている夢の場面として、ヨーロッパのサッカーのクラブチームが集う欧州チャンピオンズリーグ(CL)に関するものがあった。ある日本人選手が在籍するチームが今年CLに参加することになり、CLの対戦相手から前線から激しいプレスを受けたときの話をしてもらった。彼は相手からの激しいプレスを剥がす起点になる役割を担っていて、そのポイントをいくつか教えてもらった。最近のCLでは、前線からのハイプレスは結構常套手段になっているらしく、その対策を各チームはしっかりと行っているので、比較的焦らず対処できるという話もしてくれた。とは言え、強豪チームのプレスは迫力があり、焦ってプレーしてしまいそうだなと思ったところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2022/9/1(木)08:41


9030. 生と存在に先立つ政治/箏の癒しの効果


ジル·ドゥルーズとフェリックス·ガタリの有名な言葉として、「在ることに先立って政治が存在している」というものがある。私たちの存在に先立って政治というものは存在しているし、また私たちが生まれることに先立っても政治が存在している。フーコーのバイオポリティクスの概念の意味を引き延ばせば、生誕以前から存在している政治について問題意識を向けないわけにはいかないし、存在に先立って存在している政治というのは、実存的政治の側面があり、よくよく考えると政治がどれほど私たちに影響を与えているのかということがわかる。それは私たちの生と存在を生まれる以前から死後までずっと影響を与え続けるものなのだ。そうした重要性を持つ政治に関心が高まっていく。実態の政治を見ながら、個別具体的な政治家や政策の分析を行いつつ、同時に政治学の枠組みも探究していきたいと思う。


昨日から、バッハのゴルトベルク変奏曲を離れ、箏のリラックス音楽を聴き始めた。今もそれを聴きながら朝の活動に従事している。箏の音色には本当に癒される。このようにして他者の演奏を聴くことを通じての癒しがあるし、実際に自分で箏を演奏することを通じて得られる癒しがある。その双方を味わうことができていることに感謝しよう。昨夜にも思ったことだが、箏の演奏を通じて、音楽療法を自ら施しているかのようである。そこには癒しの効果がある。箏の演奏は手先を使うこともあり、認知機能にも好影響を与えていることがもうすでにわかる。今日もまた午後に十分に時間を取って箏の稽古に励みたい。そこには成長と癒しの双方があるだろう。


今日はまず、イタリアの哲学者かつ社会学者のマウリツィオ·ラッツァラートの書籍を読み始めた。すでに1冊の初読を終え、今2冊目に取り掛かっている。現代の経済は金融経済というよりも負債経済の様相を呈しており、信用あるいは信用貸しというものがどれほど効果的な搾取の道具になっているかをラッツァラートは指摘している。今から読み解いていくのは、その仕組みについてである。新自由主義において金融と呼ばれているものは、債権者と負債者の歪んだ関係に基づくものであり、そうした関係を担保している前提とそれを生み出しているメカニズムの理解に努めよう。それが今日の午前中の読書の焦点となるだろう。フローニンゲン:2022/9/1(木)10:44


9031. マウリツィオ·ラッツァラートの論考から:借金による支配


イギリスの哲学者かつ社会学者のマウリツィオ·ラッツァラートの書籍は洞察に富む。先日まで熱心に読み込んでいたビョンチョル·ハンの思想と同じく、ラッツァラートの思想にも多分に学ぶことがあるように思える。ラッツァラートもフーコー、ドゥルーズ、ガタリなどのフランスの思想家を引用しながら、フランス思想を超えて、イタリアやドイツの現代思想にも触れながら社会批判を展開させている。マルクスが述べた資本家と労働者の関係性を通じて現代社会を見ていく側面がこれまでの自分には強くあったが、ラッツァラートの指摘するように、現代の金融が債権者と債務者の関係性によって成り立っているという都合上、その関係性に着目して社会分析を展開していくことをこれから意識していこうと思う。ラッツァラートの洞察で注目に値するのは、新自由主義の根源に内在する内戦の論理であり、その論理を把握しておかなければ、新自由主義の超克はなし得ないであろう。先ほど書き留めた日記の方針に加え、しばらくはその内戦の論理の理解に努める必要がある。


先日もラッツァラートの書籍を読み進めており、今読み進めている"The Making of Indebted Man"は3冊目に該当する。フーコーが暴力の歴史を辿り、暴力に関する考古学を提唱したのと同じく、ラッツァラートは現代金融に潜む債権者と債務者の関係に関する考古学、あるいは負債に関する考古学を提唱している。その関係性をもとにした現代の新自由主義社会は、ある意味、借金(負債·債務)によって成り立っている。国家も個人も借金というものの存在無くしては成り立っていないかのように、全てが債権者·債務者の関係性を通じて立ち現れている。現代経済学においては、個人をホモ·エコノミクスとして捉えるが、ラッツァラートの言葉を使えば、ホモ·デター(Homo Debtor)として捉える必要があるのではないかと思う。その方が、より実態に即した個人の見立てになるであろうし、債務者としての個人の経済活動の分析をより精緻にするだろう。


借金(負債)というものが社会におけるコントロール手段になっているという観点は非常に重要だろう。日本でも奨学金の問題は社会問題の1つになっているが、アメリカにおいてはそれは非常に重大な問題である。そこでは教育を受ける権利というよりも、借金をして教育を受ける権利にそれがすり替わっているかのようである。また、不動産の所有に関しても、住居を得る権利ではなく、それに代わって住宅ローンを組む権利にすり替わる形で負債を背負うことが余儀なくされているのが現代社会の実情だろう。こうした借金は、将来にわたって返却していかなければならないものとして、人々の将来を規定する。また、債権者は借金は返済しなければならないものという倫理を個人に植え付けることによって、個人は借金の返済に躍起となり、それによって多大な制限と不自由を被っていることに気づけなくさせる。そうした支配の論理が債権者と債務者の間に構築されている。そんな分析をラッツァラートの論考から引き出すことができる。フローニンゲン:2022/9/1(木)11:06


9032. 負債の考古学と借金社会について


フーコーの暴力の考古学のアプローチを採用して、負債の考古学とでも呼べるものを提唱しているマウリツィオ·ラッツァラートの論考は非常に興味深い。負債に縁取られた人間をどのように捉え、負債が生成されるメカニズムについての関心は高まる一方である。そもそも、債権と負債というものの内在性質を考えてみたときに、そこには多分に宗教的なものを見る。まさに信用という債権の性質には、マネー神学者のフィリップ·グッドチャイルドが指摘するような宗教的論理が潜んでいて、その論理を正確に理解しなければ、現代社会の債権·負債構造を読み解くことはできないだろう。ラッツァラートとグッドチャイルドの間に存在する思想的連関が見えてきたことを嬉しく思う。今、ラッツァラートの単著に関しては英訳された全てのものを持っていて、それらは再読を通じた精読をしたいと思う書籍の仲間入りを果たした。まずは手元に届けられたその他の書籍の初読を一気に進めていき、そこから再読フェーズに入ったときには、ラッツァラートの論考を丁寧に辿りたいと思う。


狭義には個人のクレジットカードの利用や各種ローンの利用を含め、企業の融資の活用や国家の借金の状況を見てみると、この社会がまるで「借金社会(debt society)」と呼べるような形で運営されていることに気づく。社会を成り立たせるものとして借金が存在していて、それはマネーと同じぐらいの重要性を持っているように思える。社会の中を血流として行き交うマネーのように、借金もまた個人、企業、国家の中をくまなく流れていて、借金がなければ個人も企業も国家も回らなくなっている姿を見ると驚きが生まれる。負債の性質を理解することは、マネーの性質を理解することと同じぐらいに重要なことなのだ。


ラッツァラートも指摘するように、負債はかつては有限なものだったが、現代の金融技術の発達により、負債は無限のものとなった。負債は無限に膨張する魔物として個人にも社会にものしかかっている。現代の金融資本主義的社会の中においては、負債から逃れることはもはやほぼ不可能な状態になっている。そんな社会の中で生きる人々は、借金人間(あるいは負債人間)として生きざるを得なく、それが現代固有の足かせになっている点をまずは自覚する必要があるだろう。負債の内在性質と負債の論理を理解することは、借金人間からの解放につながる実践的な処方箋になるだろう。私たちは自らの意思で借金をしているのではない。目には見えない暴力に服従してしまうのと同じく、目には見えない借金に服従し、借金を背負うことが宿命づけられているというのが現代人の特徴だろう。その特徴に自覚的になることから出発する必要がある。フローニンゲン:2022/9/1(木)11:53


9033. 資本主義的記号論的世界を読み解く概念図式


記号が遍満し、記号を操作する者による支配が進む現代社会。現代社会を読み解くための実践的な記号論への関心が増す。先日読んでいたラカンの精神分析のアプローチやパースの記号論はその礎となる。また、先ほど初読を終えたマウリツィオ·ラッツァラートの“Signs and Machines”という書籍は自分の関心事項に強く合致している。資本主義的記号論的世界を読み解く概念図式がその書籍の中に豊富に紹介されている。現代人は種々の記号として機能する言葉にいとも簡単に騙され、それに隷従してしまう。上記の書籍はそのメカニズムを解明する。記号に隷従してしまうメカニズムを理解することを通じて、そのメカニズムへ対抗する処方箋が見えてくる。まずは自分の内面世界がどのような仕組みで記号に屈してしまうのかを理解することから出発する必要がある。本書はその格好の手引書だ。


少し見方を変えてみると、世界の中に資本主義的世界があるというよりも、資本主義的世界が世界を生成する担い手、ないしは巨大な場として存在しているように思えてくる。資本主義が有する超越性というのはそのようなところにあるだろうか。世界そのものを認識することができないのと同じく、資本主義そのものを理解することはできない。さらには、資本主義的世界そのものを理解することはできない。できるのは、そこから生み出される表層的な現象のみである。そのようなことを思うが、同時に、そうした現象を生み出す一つ存在論的次元が上がった構造やメカニズムなら把握可能なのではないかと思う。そこに介入することが、そうした構造やメカニズムを持つ世界そのものを揺るがすことになる。その揺れがどれほどの影響があるのかは不明であるが、少なくともそうした揺さぶりがなければ、この社会の変容はなし得ないように思えてくる。今の自分は、資本主義そのものや資本主義的世界そのものという超越的な存在に眼差しを向けながらも、つぶさに発見と検証、そして介入していくべきものは、そこから生み出される構造やメカニズムである。そのために、種々の学問領域を狩猟しながら、少しずつ探究を進めていくしか道はない。フローニンゲン:2022/9/1(木)14:14


9034. 日本型資本主義生成への神道の貢献


今、宗教と経済を絡めた研究をするに際して、寺西重朗先生が仏教に注目しながら日本型資本主義の性質を歴史学的に解明していったように、神道に着目して同様のことを行う道が見えている。それはかなり大掛かりなものになるので、博士論文の執筆のテーマとして向いているかもしれない。一方で、小さな研究としては、神道の考え方を用いてマネーの内在性質を解明することや、信用·負債というものの性質を神道神学的に解明していく道が見えている。後者に関しては、キリスト教の枠組みを活用して同様のことを研究している何人かの先人たちのアプローチが参考になるかと思う。両方の道を視野に入れながら日々の探究を少しずつ進めたい。


それともう1つ、先日に書き上げた書籍はビョンチョル·ハンとポール·ティリックの思想を活用したものだったが、今日数冊読んで、マウリツィオ·ラッツァラートの思想を活用した書籍も執筆したいという思いが沸々と湧き上がってきた。ハンにはない視点で新自由主義的世界の諸矛盾を解明するラッツァラートの思想からは得るものが多く、実践的処方箋もそこから抽出することができる。先日原稿を書き上げたばかりだが、新しい書籍の原稿執筆を視野に入れば、日々の探究を進めていこう。


1つ自分の中で気になる歴史区分として、鎌倉·室町時代がある。江戸時代に商業が栄え、それが日本的な資本主義の礎になったというのはなんとなくわかるのだが、江戸時代よりも前の時代においても日本型資本主義に向けた何らかの準備があったはずであり、そこに基礎となっている文化や制度がないかを調べてみたいと思う。


鎌倉時代には確かに仏教の隆盛があったが、神道界においても大きな動きがあった。例えば、鎌倉時代後期においては、両部神道や山王神道などが提唱する本地垂迹説に反対する形で、反本地垂迹説が提唱されるようになり、それに影響を受けて伊勢神道や吉田神道が台頭した。そうなってくると、仏教側による日本型資本主義生成への貢献だけでなく、神道からの貢献もあったはずなのではないかと思う。そのあたりをつぶさに研究してみたい。この秋に伊勢神宮に参拝し、数日ほど伊勢で過ごすことはこの研究に向けた足がかりになるだろうか。伊勢神道における教典である『神道五部書』の読解を通じて、文献学的·歴史学的に日本型資本主義の生成メカニズムを解明していきたいと思う。寺西先生の『日本資本主義経済史 文化と制度』は大変刺激に満ちた分厚い論考で溢れている。この原著の“Culture and Institutions in the Economic Growth of Japan”も次回の書籍の一括注文の際に取り寄せたい。次回は冬のどこかのタイミングで一括注文を考えている。フローニンゲン:2022/9/1(木)15:08


9035. 箏の稽古(19):「ジュピター」とピチカートの練習に力を入れて


時刻は午後5時を迎えた。先ほど、ジークンドーの稽古を20分ぐらいした後に、箏の稽古を行った。いずれも学術研究とは違った感覚を刺激するため、学術研究の合間に行う実践としてこれ以上のものはないと実感している。今日の箏のことの稽古の前に行ったジークンドーの鍛錬においては、接触法の3番目の技において1つ発見があった。この技の威力を高めるときに重力の落下力を活用する形で、身体を重力に任せる形で沈み込ませ、その力を拳に乗せると威力がさらに増すことを発見した。この感覚を染み込ませるように明日からの稽古に励もう。


先ほどまで行っていた箏の稽古においては、一昨日に調弦したCメイジャー(ハ長調)の曲を演奏していった。その前に、準備運動がてら親指、中指、人差し指の順番で、それぞれの指を用いて音を鳴らしていくエクササイズをした。そこから合わせ爪の練習をして、いくつかの曲を演奏していった。準備運動そのものも楽しいのだが、やはり実際の楽曲を演奏する喜びに勝るものはない。いずれの曲も数回練習したのだが、特にホルストの「ジュピター」は回数を多くして練習した。まだ難所をスムーズに演奏することができず、その箇所では速度が遅くなってしまったり、ミスが発生する。そうした箇所を抽出して個別に練習をし、再び全体を通して練習するということを繰り返し、今日もまたミクロな成長を実感することができた。音を鳴らす喜びと成長を実感する喜びの双方があるところが箏の演奏の魅力であり、楽しみでもある。


楽譜の数字が丸で囲まれているのはどういう意味なのかと思って、今度先生に尋ねてみるための質問リストに数日前に書き留めていた謎が昨日解明された。それは「ピチカート」と呼ばれる奏法だとわかったのである。今日はそれを練習した。左手のピチカートから始めて、右手のピチカートを練習し、そこからは両手のピチカートを練習した。明日はさらに自主的に、「すくい爪」「流し爪」「引き連」という奏法を練習してみようかと思う。今日はその他にも、『文化箏のためのテクニック2巻』を用いて、Cメイジャーの調弦で指の練習をしていった。8分音符に慣れる練習や、中指と人差し指を使う練習を行った。しばらくはこの練習を続けていこうと思う。フローニンゲン:2022/9/1(木)17:18

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