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9006-9012: フローニンゲンからの便り 2022年8月29日(月)



No.3962 朝光の交わり_Intersection of Morning Light


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.1749, The Real

The real is formful.

It is also formless.

Everything is in there.

Groningen; 08:20, 8/29/2022

No.1750, The God

The god is conscious and unconscious.

It always dwells in both our consciousness and unconsciousness.

Groningen; 08:23, 8/29/2022


No.1751, Enrichment

My life has been enriched so much since I started to practice Jeet Kune Do and practice playing the koto.

I’m very satisfied with my current life.

I wish it will continue forever.

Groningen; 16:49, 8/29/2022


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(3つ)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

9006. 今朝方の夢

9007. 意識と同様の資本主義/関心の扉が開いて

9008. イスラム金融・経済の書籍を購入して/昨日のプライベートレッスンを振り返って

9009. 霊魂と死後の世界の存在について

9010. 蛇と龍

9011. 箏の稽古(15):新しい箏爪が届いて

9012. ベーシックインカム導入に伴う労働意欲の減退について思うこと


9006. 今朝方の夢


時刻は午前6時半を迎えた。今日からまた新たな週を迎えた。すっかりと秋らしい気候になったフローニンゲン。今日の最高気温は20度ほどで、朝のこの時間帯はとても肌寒い。明日からも快適な気温の日々が続き、短いがとても素晴らしい季節になった。日本に一時帰国する頃にはもう冬の訪れを感じているのではないかと思う。この短い秋を存分に味わおう。


今朝方の夢についていつものように振り返っておこう。夢の中で私は、小学校時代によく対戦していたサッカーチームのエースとサッカーの話をしていた。話をしていた場所は室内であり、足元にボールはなかったが、お互いにどのようにボールを止めたり蹴ったりするのかを話し合っていた。自分は右サイドを主戦場にしていたので、その場所に固有のプレーの仕方について話した。その時に私は、味方にパスをするときは利き足ではない左足を主に使い、ゴール前にセンタリングを上げる時には右足を使うことを紹介した。最後に、彼がオーバーラップしてきた相手への対処法について尋ねてきた。自分は短い距離なら瞬発力があるので問題ないが、長い距離を走り合うことになると分が悪いので、ポジショニングをとにかく大事にして対処することを紹介した。そのような話をした後に、今度は別の友人(HY)とこれから試合が行われるグラウンドの芝の状態について話をした。これまで芝のピッチで試合をしたことがなかったので、彼に色々と話を聞いていたのだ。芝のピッチで試合ができることに胸を高鳴らせながら、試合の時を待った。そのような夢を見ていた。


その他にも確か、昨日と同様に、女性の画家の知人と話をしていた場面があったように思う。彼女の絵が挿入された様々なグッズを販売している店で話をしていた。その中に、インテグラル理論のスパイラルダイナミクスのモデルの絵を活用したオリーブオイルの瓶が売られていて、それを購入しようかと思った。興味深いのは、その瓶がイエロー色を基調にしていて、その理由を尋ねると、スパイラルダイナミクスの最後の発達段階の色だからとのことだった。実際には、最後の発達段階の色はターコイズなのだが、ティールブームに乗っかれば、ティールと同義であるイエローの色を用いたのは正解だったのではないかと思う。イエローを基調にしたスパイラル模様が入ったオーガニックのオリーブオイルを購入することにし、その他にも何か良いグッズがないかを見ていった。その他にはノートや絵葉書などの気になるものがあったが、少しかさばりそうだったので、オリーブオイルだけを購入することにした。フローニンゲン:2022/8/29(月)06:43


9007. 意識と同様の資本主義/関心の扉が開いて


月曜日の穏やかな朝の世界の中で、コーヒーを片手に読書を進めている。その進捗はすこぶる良い。資本主義という英単語は”capitalism”だが、これは意識”consciousness”と同じく複数形を取らず、常に単数形であることが興味深い。確かに、各国によって資本主義の特徴は異なるのだが、それでも共通した大きな基板のようなものがあることは確かだ。資本主義は意識のようなものなのかもしれない。意識に浮かぶ内容物は文化ごとに異なるが、意識そのものが存在していることに変わりはない。資本主義というのもそのような性質を内包しているものなのかもしれない。


一昨日にふと、来年の頭にイスラム圏に行こうと思った。中でも、日本と同じぐらいに治安が良いと言われるUAEに行ってみることにした。UAEにはドバイがあるが、ドバイよりもアブダビの方が文化的に関心がそそられるので、まずはアブダビに行ってみることにした。来年は西欧よりもイスラム圏や南欧の国に行ってみることが増えるかもしれない。今のところ、ドバイの次に足を運びたいのはトルコであり、欧州にいる間にエジプトやチュニジアにも足を運びたいと思う。自分の宗教的な研究の核は神道にあるが、イスラムについても色々と気になることはその都度調べていくことにする。特に、イスラムの経済構造や現代資本主義との関係性は重要なテーマである。イスラムの特殊な経済構造と、グローバルで展開されている現代資本主義とイスラム圏はどのような付き合いかをしているのか。そのあたりをまずは調べたいと思う。


振り返ってみると、欧州での探究生活を通じて自分の関心は非常に多岐に渡り始めた。欧州での生活が、自分の関心の目を開いてくれたと述べることができるかもしれない。間違いなくこの地での生活を通じて、意識が拡張し、様々な物事への関心の扉が開かれた。欧州を拠点にした数々の旅行はその刺激になっており、これまでは欧州の国々への旅行だったところから今後はイスラム圏や北アフリカ諸国に足を運ぶことによって、自分の関心と自分自身の変容の歩みがさらに一歩も二歩も先に進むような気がしている。フローニンゲン:2022/8/29(月)09:14


9008. イスラム金融・経済の書籍を購入して/昨日のプライベートレッスンを振り返って


先日書籍の一括注文を終えたと宣言したばかりだが、どうにもイスラム金融·経済が気になってしまい、そのテーマに関する和書を4冊ほど購入することにした。しかしそれらはオランダに送ってもらうのではなく、実家に送ってもらうことにし、この秋の一時帰国の際にそれらの書籍を読みたいと思う。欧米型の経済思想·金融思想だけを探究していては、現代の経済·金融現象がうまく読み解けなくなってきていることを実感する。そうした実感に基づいて、日本の経済·金融思想、イスラムの経済·金融思想に焦点を当てて研究をしていくことにした。購入した4冊の書物の前に、オランダの自宅にある手持ちの井筒俊彦先生の全集第7巻『イスラーム文化』を取り急ぎ読み返しておきたい。


今日は午前中から正午にかけてオンラインミィーティングがあった。午前中は読書が捗り、その合間合間に昨日のロビンさんとのプライベートレッスンを振り返りながらジークンドーの稽古をしていた。昨日もらった助言と洞察に基づいて、新たな発見を楽しみながら稽古をした。新たな発見とは、自分の身体がこれまでとは違った形で動くという確かな身体感覚に基づくものである。先ほども少し稽古をしていたところ、そういえば接触法の14番目の技に関して受けたフィードバックをふと思い出した。この技では、右手のパクサオから左手のロプサオをした後に、右手のバックフィストを相手の肋骨に打ち込む。この時に、自分は肋骨の下部を狙う傾向があり、それだと相手に避けられてしまうリスクがあることを指摘された。そう言えばこれは、この間参加したグループレッスンの際にも全体に共有されていたことであった。バックフィストを肋骨の下部や下腹に打ち込もうとすると、相手にその箇所を引っ込められてしまって回避されることがある。一方で肋骨の上部はどう頑張っても引っ込めることができないので、バックフィストは肋骨の上部を狙うことがセオリーであると改めて指摘を受けた。この点を忘れずに、ここからまた稽古に励みたいと思う。


それではこれからいつのように20分ほど仮眠を取り、仮眠後には読書をし、その後に部屋全体に掃除機をかけたい。それが済んだら今日もまた楽しみながら箏の稽古をしようと思う。学術、芸術、武術が三位一体となって絶妙な調和の輪を生み出していることを嬉しく思う。自分はその円環の中に絶えずいて、充実感と至福と化している。フローニンゲン:2022/8/29(月)13:23


9009. 霊魂と死後の世界の存在について


今日はすでに洋書を5冊ほど読み、読みかけだった和書を1冊読み終えた。そして先ほど、日本人の死生観に関する和書を1冊読み終えた。その中で、次のようなことを考えていた。「霊魂は存在するのか?」その問いに対しては、仮に霊魂がそもそも存在しないのであったら、そのような問いは芽生えないのではないかと思い、そうした問いが立つということは、少なくともその人の認識空間上においては霊魂が存在していることを意味するのではないかと思った。認識空間上に霊魂が存在しているのであれば、それが物理的な現実場に顕現するかどうかは別として、存在論的空間に写像として存在していることも意味するのではないかと考えていた。「死後の世界は存在するのか?」という問いに対しても同様に考えることができる。仮にそれが存在しないのであれば、そもそもそのようなセンテンスは成り立たないので、死後の世界は認識空間かつ存在空間に確かに存在していると言えるのではないかと思う。繰り返しになるが、それが肉体を通して把握される現実世界と同様に存在しているかと言えば、それはないであろう。存在の入れ子の観点からして、霊魂も死後の世界も肉体が司る次元よりも高次元のところに位置するのであるから、肉体的な現実世界と同じようにそれらが存在するかと言えば、否だと言えるだろう。そこからは、肉体の消滅に伴って霊魂は消滅するのかについて考えていた。肉体の消滅に伴って、マインドは消滅し、そこからソウルとしての魂も消滅するが、スピリットとしての霊はバスカーやラカンがいう実在界(the Real)の存在として生き続けるとまず考えた。ところが、スピリットが存在しているのであれば、スピリットの下位構造としてのソウルを生み出すこともできるのではないかと一瞬思ったが、存在の入れ子の原理においては、下部構造が上位構造を生み出すことはできてもやはり上位構造が下部構造を生み出すことはできないと考え直した。少し行ったり来たりを繰り返しながら、そこからもう少し考えを整理していた。そもそもボディ、マインド、ソウルまでは1つの個に立脚するものであり、ソウルを生み出すスピリットというのは個を含みながらも集合的な性質を持ち合わせており、ゆえに実在界とほぼ等しいとみなすことができる。そう考えてみると、ボディとマインドが消滅すれば、マインドを生み出していた個的なソウルは消滅するが、実在界のスピリットが永遠に存在し続けている以上、それはありとあらゆるものを創造する領域でもあるので、個的なソウルをボディとマインドがあった頃とは違った形で存続させ続けることは十分にあり得ると思った。その例として、ボディとマインドが消滅しても、個人を記憶の世界の中で偲ぶことができるという現象がまさにその現れかと思う。要約すると、ボディとマインドが存在している時のソウルの顕現の仕方は、ボディとマインドが消滅した際のものとは異なり、ボディとマインドが消滅した後も、スピリットの持続性ゆえに上述の例のような形でソウルは存在し続けると言えるかもしれない。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2022/8/29(月)15:07


9010. 蛇と龍


午前中はコーヒーを片手に読書に勤しみ、午後は緑茶を片手に読書に勤しんでいる。最近、異国の地から日本のニュースを眺めていると、新興宗教の問題や色々な汚職問題ばかりが取り上げられているように思う。特に前者の新興宗教の問題については、自分の関心領域の1つである宗教学や神学の観点から今後何か貢献をしたいという思いが募る。これは今に始まったことではないが、宗教に関する無知さや免疫のなさが仇になって、そこに歴史に関する無教養さと社会の腐敗による怨念や劣等感の醸成などが複雑に絡み合う形で、昨今世を賑わせているニュースのような事態が発生したのではないかと推察される。そしてそれは今回限りの出来事ではなく、何も実践的な処方箋を打ち出さない限りは、同型の問題が今後も反復されるだろう。ロイ·バスカーやマーガレット·アーチャーの社会学的な発想を活用すると、そうした社会現象を生み出した構造やメカニズムが必ず存在しているのであり、それらに介入しない限りは、今後も同種の問題が必ず社会に顔を出す。


そのようなことを考えながら、本日3冊目の和書の初読を終えた。正午過ぎに、先日一括注文した和書のうち半分ぐらいが到着し、後ほど小包を開けてみようと思う。その中には文化箏の楽譜が入っているはずであり、箏の新しい爪も入っているだろう。


先ほど読み進めていたのはまたしても日本人の死生観に関するもので、タイトルは『日本人の死生観:蛇 転生する祖先神』というものだ。本書では神道の底流にある蛇信仰を紐解き、日本人が抱く神の考え方と死生観の繋がりを明らかにしている。個人的に、蛇はとても身近な存在かつ気になる存在としてあり続けている。そもそも、加藤家の家紋が「蛇の目」と呼ばれ、そこには蛇が象徴として存在している。日本の神話を紐解いてみると、藤と蛇は密接な繋がりがあるようであり、そこから派生して蛇と龍の繋がりも連想させる。蛇に関しては、日本で卒業した大学の校章に蛇がモチーフに使われていることも蛇に親近感を覚える理由の1つである。また、龍に関して言えば、最近始めた箏という楽器には「龍尾」や「龍頭」というように龍の文字が付く部位が存在している。そうしたことからも龍という存在も近しいものとして感じられていた。おそらく神道のみならず、仏教芸術やキリスト教芸術を見ていると、蛇がそこにさりげなく描かれていることが多々あり、蛇はどうやら宗教的にも普遍的に重要なシンボルなのだと思われる。そして、そうしたシンボルが果たす象徴の力というものを考えてみた時に、このシンボルを様々な観点から探究していくのは実に面白そうだと思った。フローニンゲン:2022/8/29(月)15:30


9011. 箏の稽古(15):新しい箏爪が届いて


時刻は午後4時半を迎えた。先ほど、つい今し方、箏の稽古を終えた。ジークンドーと同じように、日々の稽古を内省的に行い、稽古での試行錯誤の過程を日記に書き残していることもあって、毎日の小さな上達が実現され、それを感じることができていることに喜びを感じる。正午過ぎに届けれられた日本からの小包を開けてみると、そこには文化箏の楽譜が10冊ほど入っていて、一番上には箏の爪が同封されていた。早速その爪をはめてみたところ、元々の付属品と質が全く異なることを即座に実感し、フィット感も素晴らしく、とても演奏しやすい感じがした。実際にすぐに音を鳴らしてみると、これまでの窮屈な箏爪とは全く違って、ストレスなく演奏できるようになった。その喜びを実感した後に、今日もまた「さくら」の1箏パートの練習を通しで何度か行った。いまだ100%の完成度ではないが、90%ぐらいの完成度になっている実感がある。ここからも毎日通しで演奏をしたり、詰まってしまう箇所を分解して何度も練習することをしていくと、完成度が徐々に100%に近づいていくかと思う。


そこからは一旦「さくら」から離れて、合わせ爪の練習をした。新しい爪によって、これまで同時にうまく音が鳴らせなかったところから、同時に鳴らせる確率がグッと高まった。もちろん、まだ時折中指が遅れて音が鳴ることが多く、これまで発見した種々の事柄を注意していきたいと思う。そこでも注意の意識は重要であり、これまで自分が発見した種々の工夫を意識することによって、後半においては随分と合わせ爪の音が合ってくるようになった。この調子で稽古を続けたい。そこからは、「さくら」の2箏パートの稽古をした。2箏パートは冒頭から合わせ爪が連続し、さらには最初の小節の中には8分音符が後半に連続するので、冒頭から難しい。なので通しで練習するのではなく、まずは冒頭の6小節までを何度か練習した。今日1日では6小節すらも完全に演奏できなかったので、明日もまた出だしの6小節に絞って練習をしたい。もしゆっくりと完全に引くことができたら、そこからさらに4小節伸ばしたいと思う。2載パートでは2番の指、すなわち人差し指での演奏も入ってくる。また、楽譜上において謎な記号や表記法があるので、それは自分で調べたり、先生に質問したりしようと思う。フローニンゲン:2022/8/29(月)16:47


9012. ベーシックインカム導入に伴う労働意欲の減退について思うこと


夕食前に、本日届いたベーシックインカムに関する和書を読み進めている。それは日本の観点からベーシックインカムについて書かれた良書であり、日本の文化的·制度的コンテクストにおいてベーシックインカムについて理解を深めていく上で大変参考になる。その書籍を読みながら、ベーシックインカム導入に伴う労働意欲の減退の可能性に関する問題は必ず挙がってくる反対意見だが、それに対しては色々と言いたいことがある。まず最初に思い浮かぶのは、例えば企業社会に限定すれば、腐敗した企業社会で労働することに意欲が湧かない方が精神上健全なのではないかということだ。自分自身日本の企業社会で2年ほど働き、アメリカの企業社会で1年強働いた経験に基づくと、あのような歪んでストレスフルな環境の中で労働意欲が高いままであることの方が異常であるようにすら思える。また別の観点から言うと、労働に対して意欲が持てることや持てないこともまたある種の個性として尊重されるべきなのではないかという考えがある。ベーシックインカムの導入に伴う労働意欲の減退の問題を挙げる人の多くは大抵企業人の場合が多いように推察され、そうした人たちが仮に労働意欲の減退を指摘するのであれば、労働に対して意欲が持てないこともまた一つの個性であり、価値観の現れであると投げかけてみたい。例えば企業人がどれだけ知的鍛錬に意欲を持っているかというと、それを測る尺度として例えば月にどれだけ本を読んでいるかを問うてみた時に、毎日1冊すら読んでいない人が多数を占めるのではないかと思う。自分からするとそれは、知的意欲が皆無であるとみなすことができ、労働に対して意欲が湧かない人を批判する割に、知的鍛錬に意欲が湧いていない自分自身の姿を見れていないことを指摘するだろう。また、自分の日々の実践に紐づければ、武術を通じて日々心身の鍛錬をしているが、一体企業人のどれほどの人が身体的な実践をして心身を鍛えることに意欲を持っているのだろうか。それに加えて、芸術実践も挙げることができる。企業人のどれほどの人が毎日楽器の演奏や絵画の創作などの実践を通じて、自分の美的感性を育むことに意欲を持っているだろうか。自分の目を通して見える企業人の姿は、労働に対しては意欲があるが、知的鍛錬、心身の鍛錬、美的感性の鍛錬には全くもって意欲を持てていない人が多数を占めるように映る。そんな人たちが、自らが唯一意欲を持てている労働に固執して、ベーシックインカム導入に伴う労働意欲の減退の問題を棚上げしている姿は大変滑稽である。おそらく彼らには労働以外に打ち込むことや大切にすることがないからこそ、労働にしがみつき、労働の重要さを過度に強調したいのだろう。労働意欲はそこそこに、知的鍛錬、心身の涵養、美的感性の鍛錬に時間と資源を投じた方が、個人にとってより幸福度合いが増し、文化的な発展も促されるのではないだろうか。そのようなことを考えながら書籍を読み進めていた。フローニンゲン:2022/8/29(月)17:26

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