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7180-7183: フローニンゲンからの便り 2021年7月25日(月)



No.2521 花のイデア_Idea of a Flower


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.777, Subjectivity & Universality

I have my own subjectivity.

It can be an atom of universality.

Our unique subjectivity is incredibly precious.

Groningen; 10:58, 7/25/2021

No.778, The Aesthetic Dimension

The aesthetic dimension is the last bastion of humanity.

I must desperately defend it by all means.

Nurturing the aesthetic dimension is the path to heaven.

Groningen; 21:47, 7/25/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日の3曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7180. 今朝方の印象的な夢

7181. 冷夏のフローニンゲン/パソクラシーとテクノロジーの癒着の危険性

7182. 文明と抑圧/英雄システムと英雄の欠如

7183. 主観性の画一化・標準化/発達の基礎構造と「発達的格差」


7180. 今朝方の印象的な夢


時刻は午前7時を迎えた。昨夜は就寝前に激しい雷雨に見舞われた。どこか近くに落ちたのではないかと思われるけたたましい音を伴う雷があった。


一夜明け、今は辺りが落ち着いている。空にはうっすらとした雲があり、午前中は曇りのようだ。午後からは昨夜と同様に雷雨が降るらしい。ほうれん草とパプリカを切らしているので、天気予報を見て、昼前に近所のスーパーに足を運ぼうと思う。


今朝方の夢を振り返っている。今朝方の夢には一連の流れがあった。


夢の中で私は、真っ暗な場所にいた。向こう側に川のようなものが見え、それが流れる音が聞こえてきた。川の流れは激しくなく、とても穏やかだった。


私の横には小中高時代の親友(NK)がいて、彼と一緒に川にいるおたまじゃくしを捕まえることになっていた。何やらそれは何かのミッションのようだった。


こんな暗い中に黒いおたまじゃくしを捕まえるのは難しいと思ったが、親友が早速川に足を入れて試してみると、すぐに1匹のおたまじゃくしを捕まえた。私は思わず「すごい!」と叫び、彼に近寄り、おたまじゃくしを見せてもらった。


彼にどのように捕まえたのかそのコツを尋ねてみたところ、左足の親指でおたまじゃくしの尻尾をサッと踏み、そこからはおたまじゃくしの体を傷つけないようにそっとで手で包むことがコツだと述べた。厳密には、手で包み込む際に、触ってはいけない箇所があるらしく、そこに触れずに指で支えることは大変のように思われた。


だが彼はそれをいとも簡単にやってのけ、一回でおたまじゃくしを捕まえた。彼の説明を聞いている途中に、タコ糸のようなものが現れ、彼はそれを使っておたまじゃくしを丁寧に縛り、糸を持っておたまじゃくしを移動させ、おたまじゃくしを入れておく水槽の中に入れた。


その時に、突然、自分の手元に小さなパソコンが現れた。そして画面越しに、見知らぬ若い女性が現れ、その女性とZoomで話をすることになった。どうやら私たちは知り合いのようであり、突然のことだったので私がその女性をうまく認識できていないだけのようだった。


彼女はカリフォルニアのベイエリアの北端にあるリッチモンドという街に住んでいる。リッチモンドはオークランドと並んで治安が悪いことが有名であり、あまり良い印象を私は持っていなかった。しかし、彼女曰く、これまで身の危険を感じたことはなく快適に過ごせているとのことだった。


そこから私たちは少しカリフォルニアの話をした。私も3年半ほどそこで生活をしていたので、色々と話が合い、また懐かしさも感じた。


しばらく話をしていると、気がつけば私は学校の教室に向かって廊下を歩いていた。廊下を歩きながらパソコンを開いて彼女と話しており、教室に入って席に座るまで彼女と話していた。


一応イヤホンをしていたが、私の話し方などから、教室の中の女子たちが私が女性と話をしているのを察したらしく、好奇の目で私の方を見ていた。席に腰掛けた瞬間に夢の場面が変わった。


最後の夢の場面は、街の上を走る高速道路の上にいた。その道路は一直線でとても幅の広いものだったのだが、途中から道が途切れていた。


すると、私の横に派手なバイクが一台止まっていた。そのバイクの周りには誰もいないのだが、激しい音を立てて、何かを待っているようだった。


すると、1人の見知らぬ女性が現れ、彼女は今からバイクで全速力を出して道路の反対側に飛び移ると述べた。それはあまりにも無謀に思えたが、彼女の目は真剣そのものであり、何を言っても止められないと思ったので、私は彼女を見守ることにした。


バイクが全速力を出してもジャンプに必要となるエネルギーが足りないと彼女は判断したらしく、バイクの後方で爆発を起こすことによって加速することにしたようだった。それもまた無茶な案だが、気がつくとけたたましい爆発音が聞こえ、バイクは猛加速を始めた。


そしてバイクは途切れた道路の向こう側に向かって一気に飛び立っていき、道路の向こう側にある森に突っ込みながらも、無事に着地した。彼女は危うく木で怪我をしてしまうところだったが、無傷のようであり、その森で何か大切なものを受け取る必要があると彼女は笑顔で述べ、どこかに消えていった。フローニンゲン:2021/7/25(日)07:22


7181. 冷夏のフローニンゲン/パソクラシーとテクノロジーの癒着の危険性


時刻は午前7時半に向かっている。今、少し小雨が降り始めた。ここから3日間は雷を伴う雨が降る時間帯があるらしく、今週はその他の日も天気が悪い。


気温に関しては20度を下回る日もあり、8月の気温とは思えないほどだ。よく比較するヘルシンキの街の気温を確認してみたところ、やはりフローニンゲンの方がヘルシンキよりも涼しい。


日本の北端の町である旭川が脳裏に浮かび、試しに旭川の気温を調べてみたところ、旭川は随分と気温が高く、旭川の最低気温が今のフローニンゲンの最高気温に相当するようなので驚いた。今年のフローニンゲンは、これまでのところ冷夏のようだ。


トレーニングを行う際に、そして普段の生活を行う際に、涼しい気温の方が有り難いので、できるだけこのような気温で8月も進行して欲しいと思う。


昨日、ポーランドの精神科医のアンドリュー·ロバゼウスキーの書籍の再読を終えた。2年ぶりに書籍を読み返してみると、随分と得られるものがあった。ここからも自分が変化をしていれば、書物から得られるものが変化するということを改めて実感する。


ロバゼウスキーが提唱する「パソクラシー(pathocracy)とテクノロジーの癒着について考えると、それが本格的に実現されると相当恐ろし事態がやって来ると思った。パソクラシーは少数の精神異常者による大多数の精神的健常者の支配を行う政治形態であるが、テクノロジーを使えば、そうした支配·管理が容易になる。しかも、昨今のテクノロジー技術の進展はそれを容易にさせる。


パソクラシーの発生メカニズムとテクノロジーの性質について深く理解し、その知見を共有することが、テクノロジーを活用したパソクラシーの拡大と横行を防ぐことに寄与するのではないかと小さな期待を寄せる。


とにかく気づきの意識である。そうした事態を未然に防ぐためには、兎にも角にも気づきの意識がなければならない。そして、そうした気づきの意識をもたらすのが知識なのだ。知の力というのはそういうところにもある。


自己防衛的、社会防衛的な形で発揮される知を獲得し、それを共有していくこと。それが今後ますます重要になって来る時代に入っていくのではないかと思う。


ロバゼウスキーの書籍の中に、「深く理解していないものを無理に治癒しようとするな」という類の記述があった。それは個人や社会の病理の双方に対しても当てはまる重要な考え方だろう。


とりわけシャドーのような問題を扱う際には、そうした慎重な姿勢が求められる。人間の心も社会もそれが1つの有機的かつ動的なシステムであることを考えると、良かれと思って介入したことが後々の悲劇に繋がることがある。その点を肝に銘じさせる言葉としてロバゼウスキーの指摘を受け取っていた。フローニンゲン:2021/7/25(日)07:38


7182. 文明と抑圧/英雄システムと英雄の欠如


時刻は午後3時半を迎えた。早朝の天気予報から変化があり、結局この時間帯になっても雨は降っていない。どうやら今日は夜に雨が少し降るぐらいのようだ。


先ほど近所のスーパーに買い物に出かけ、その道中に色々と考え事をしていた。自宅では書物を読み、そして外に出かけるときには書物から得られたことが考えとしてまとまっていることはよくある。


雑多な考え事の1つとしては、文明が文明たる条件として、無意識の抑圧があるという点についてである。文明は人間の欲望や衝動をうまく抑圧し、そして時にそれらを改変する。


文明における抑圧現象は何も個人に限ったことではなく、学問的研究においても見られる。経済学はマネーを扱う学問だが、マネーの本質については一切言及をしていない点を見ると、学問の世界においても影と抑圧があることがわかる。


現代社会において、文化は英雄を仕立て上げ——対立軸として悪を生み出し——、それを崇め奉る物語によって構築·運営されている。アーネスト·ベッカーはそうした社会の姿を「英雄システム」という言葉で説明した。敬意を表し、そこから啓発される英雄であればまだ良いのだが、現代においては真の英雄というものが本当に少ない。


人間の成長において、その領域で優れた仕事をなしている人や人格的に優れた人の特性を内面化させることは極めて重要だが、現代では人間そのものが小粒となり、内面化に値する規範的存在が少ないことに危惧する。


ひょっとすると、集合規模での幼稚化や発達的停滞というのは、英雄の欠如に由来する側面もあるのかもしれない。文化によって捏造された偽物の英雄ではなく、真の英雄の台頭を望む。


買い物から帰っている最中に、ノーダープラントソン公園の池で微笑ましい光景に出くわした。2羽の親のアヒルが3羽の小さな子供を連れて優雅に池を泳いでいたのである。


彼らをよくよく観察してみると、子供のアヒルはピーピー鳴き声を上げながら親について行っており、親から餌を口移しでもらっていた。しばらく観察していると、1羽の子アヒルが親たちから離れて1人で泳ぎ始めた。その姿にそのアヒルの固有性を見て取った。群から離れて1人で行動に乗り出す姿は勇敢に思えた。


烏合の衆から抜け出て、大衆を敵に回しても行動に乗り出す英雄が現代社会からなかなか出てこないことはもどかしい。実にもどかしい。フローニンゲン:2021/7/25(日)15:43


7183. 主観性の画一化・標準化/発達の基礎構造と「発達的格差」


時刻は午後5時半を迎えた。今もまだ晴れ間が広がっていて、穏やかな夕方の世界が目の前に広がっている。


この日記を書き終えたら夕食の準備に取り掛かろうと思う。明日はまだトレーニングの休養日であり、次回のトレーニングは明後日だ。


主観性が画一化され、標準化される傾向が加速する現代社会。そのような中、自らの主観性を保護し、それを育んでいく必要性を改めて実感する。


主観性というのは、客観性の、あるいは普遍性の原子になるのだというマークーゼの指摘に本日出くわした。この指摘はどこか、敬愛する思想家の森有正先生の指摘と繋がる。


最終的な自己の拠り所として美的感覚世界がある。これは日々探究と実践を進めていけばいくだけ思うことである。


日記の執筆、絵画や音楽、そして詩の創作。それらは最終的に自己の拠り所になる美的感覚世界を守り、そして育むためにある。


与えられた才能や活用できる資源、そして支援体制の有無を含めた発達の基礎構造ないしは下部構造を無視する形で、一様に高度な発達段階へ向かわせようとするのは暴力の何ものでもない。マルクスの発想を借りれば、発達上のそうした基礎構造に焦点を当て、それを考慮に入れた支援設計をしていくことは発達倫理上不可欠のことなのではないかと思う。


そうでなければ、「発達的不平等」や「発達的格差」が助長されるだけである。発達に必要な基礎構造がないのに発達を促されるというのは暴力の何ものでもないのだ。


顔を上げると、隣人のマークがグリーンハウスの植物に水をあげていた。自分も人生の中盤に差し掛かったら、日々野菜を育てることや創作活動にもっと多くの時間を充てているのではないかと思った。そのような生活に並行して、大きな視点で文明批判の探究をゆっくり行っている自分の姿が想像できる。


午後にアーネスト·ベッカーの書籍を読みながら、常人の定義そのものが現代社会においてはひどく狭いものになっており、常人に含まれる範囲が狭められることによって、社会に必要な異端児の居場所がなくなっていくことを憂いていた。


社会で叫ばれている多様性の確保というのは美辞麗句であることが多く、社会の発展に真に必要な異端児が排斥される動きが見られることが残念でならない。異端児、辺境人、部外者、そうした少数者の存在によって社会全体が平衡感覚を保っていられることを忘れてはらない。


今の社会はどこを切っても金太郎飴のような画一的な人間で溢れ返っている様子が見て取れる。この傾向はもはやかなりの程度進行してしまっている。フローニンゲン:2021/7/25(日)17:40

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