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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12636-12645:2024年5月6日(月)




⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12636. 第32回シロシビン・セッションの振り返り(その1)

12637. 第32回シロシビン・セッションの振り返り(その2)

12638. 第32回シロシビン・セッションの振り返り(その3)

12639. 第32回シロシビン・セッションの振り返り(その4)

12640. 第32回シロシビン・セッションの振り返り(その5)

12641. 第32回シロシビン・セッションの振り返り(その6)

12642. 第32回シロシビン・セッションの振り返り(その7)

12643. 第32回シロシビン・セッション後の夢

12644. 第32回シロシビン・セッション後の夢の続き

12645. 第32回シロシビン・セッション翌日の充実したトレーニングを終えて


12636. 第32回シロシビン・セッションの振り返り(その1)


時刻は午前6時を迎えた。今、朝空が美しく輝いていて、小鳥たちの鳴き声がその景色に花を添えている。昨日、第32回のシロシビン・セッションを行ったのだが、その体験はあまりにも深いもので、過去一番と言ってもいいぐらいのものであった。これまでは午後4時半過ぎにはセッションを終えていたのだが、その時間帯になってもセッションを終えることができず、夕食を摂らないまま就寝した。結果的に1日半ほどのファスティングを行う形になる。いつもはセッションの後に必ず振り返りの日記を書き留めているが、昨日はそのまま就寝したこともあって振り返りの日記を書き留めていない。ここからゆっくりと体験について振り返っていきたい。まずどこから振り返るべきであろうか。昨日のセッションでは、シロシビン・マッシュルームの摂取の仕方を工夫した。結果的にこれが昨日のあまりに深い体験をもたらしたのだと思う。いつものようにまな板に乾燥させたシロシビン・マッシュルームを置き、包丁でみじん切りにしていこうとした。その時にふと、先日購入した電動グラインダーのことを思い出し、それを使ってみようと思ったのである。電動グラインダーを使ってみると、これまで包丁で細かくしていた手間が省けたどころか、包丁では細かくできないところまで細かくすることができ、一石二鳥であった。「シロシビン・パウダー」とでも名付けられるような状態に仕上がったそれを用いることにし、それをコップに入れ、そこにレモン汁を加えた。そこに少々白湯を加えて、さらにヘンプパウダーをスプーン1杯、蜂蜜を少々加えた。今回はカカオパウダーを加えることなく飲んでみたところ、それはとても飲みやすく、過去一番の最も飲みやすい組み合わせのように思えた。パウダー状のシロシビンのおかげで、飲んでいる間にマッシュルームを噛み砕く必要もなく、すぐさまシロシビン・ドリンクを飲み終えた。そこから前回とほぼ同様に、15分経った頃に体験がすぐさま始まったので1階の寝室に降りた。体験の始まりの速さについては前回と同様であったが、電動グラインダーで粉末状にしたこともあり、そしてそれをレモン汁に和えたこともあって、シロシビンが速やかにシロシンに変換され、体験の速さも若干今回の方が早かったように思う。そこからの体験はいつものように少しずつ深まりを見せていくのだが、ピーク時の体験が極限状態であり、その極限状態がどこまでも果てしなく続いていくかのようであった。普段セッションを終える午後4時半になっても依然として瞼を閉じるとあちら側の世界に入り、そのままゆっくりとして就寝に向かうのが賢明だと思われた。セッションの始まりから終わりまでの一連の流れはそのようになる。フローニンゲン:2024/5/6(月)06:23


12637. 第32回シロシビン・セッションの振り返り(その2) 

 

暖房が自動で入り、せっせと部屋を温めてくれている。昨日にも寒さを感じたが、今日はまた一段と冷えている。今の気温は7度で、今日の日中の最高気温は17度とのことだ。天気予報を確認すると、今週1週間は全て晴れマークなので、肌寒さはあれどとても清々しい日々を過ごすことができるだろう。


今朝方起床して2階のキッチンに行った時に驚く光景を目撃した。シロシビン・マッシュルームの栽培キットから大量のマッシュルームが大きく育っているのを目撃したのである。数日前に再び栽培の準備をしたところで、まだ一度も霧吹きで湿度を与えておらず、空気の入れ替えもしていなかったので驚きもひとしおだった。未だかつてこのようなことはなかった。小さな頭が出てきたのを確認して、そこから空気の入れを替えを1日に数回行い、そのタイミングで霧吹きでキットの内側を湿らせることをしてしばらくして収穫ができるというのが通常の流れである。しかしながら、今朝方はどういうわけかそれらのプロセスを飛ばして、大量かつ巨大なマッシュルームが育っていたのである。ひょっとしたら、昨日のセッションの体験が何か関係しているのではないかとさえ思わされた。すなわち、昨日のセッションの体験があまりにも深いものであり、自分の意識とマッシュルームの意識が共鳴・交流し合い、それが彼らの発育に影響を与えた可能性がある。マッシュルームにも意識があることを考えると、その説明は十分な妥当性がありそうである。植物が人間の優しい言葉掛けによってより良く発育するのと同じで、昨日のセッション中の自らの意識がマッシュルームたちに肯定的な影響を与えていたことは十分に考えられる。そうとしか説明がつかないような収穫量であった。


昨日のセッションでは、乾燥させたシロシビン・マッシュルームを5.3gほど用いた。その総量は前回と変わらないが、今回は電動グラインダーで細かくしたこともあり、体験が始まる速度を早め、同時に体験の深さと持続時間をこれまでにない次元で高めることになったのだと思う。これまで色々な実験をしながらかなり危ない橋を渡りそうになったこともあるが、ここ数回はそうした橋に出くわすこともなく、ピーク体験の波乗りが上手くなっていたように思う。しかしそこにまさかの落とし穴があったのが今回の体験である。これまで体験したことのない大波がまだ存在していたのである。これまで体験してきたピーク体験とは全く異次元のピーク体験がまだ存在しているなどとは夢にも思っておらず、完全に足元を掬われた形となった。意識には本当に無限の深みがあり、体験には無限の階層構造があるのだということを身をもって知った次第だ。幸いだったのは、過去体験した危ない橋を渡ってきた経験が活かされ、今回の異次元のピーク体験においても取り乱さずに体験の中に入っていけたことである。今回体験したことは、人間とは何かを超えて、意識を持つ生命体とは何か、そして意識の極みを体験する忘れがたいものであったことを書き留めておきたい。フローニンゲン:2024/5/6(月)06:38


12638. 第32回シロシビン・セッションの振り返り(その3)


祝福の朝。盛大なる祝福を浴びている自己。朝日が燦然と地上に降り注ぎ、無風の中に新緑の木々が佇んでいる。そんな木々に小鳥たちがふらりとやって来て、思い思いに美しい鳴き声を上げている。そんな彼らの鳴き声に導かれるようにして、自分もまた彼らの鳴き声を思い思いに傾聴している。自己を世界に明け渡す形での傾聴。それが傾聴の真義であろう。自我の計らいを一切捨て去った形で耳を傾けることが傾聴なのではないだろうか。耳を傾けようとして傾けるのではなく、自ずから傾けられてしまう形で聞く対象と合一することが傾聴の本質である。そのようなことを思う。


昨日のシロシビン・セッションは、本当に想像を遥かに超えるものだった。学習においてはそれが順調に進んでいく段階があり、あるところまでやって来るとプラトー状態(高原状態)となってしばらく頭打ちとなる。なるほど、これまでの31回のセッションは学習曲線を緩やかに上昇していきながらも、体験の質としては同次元のもので高原状態だったのではないかと思う。それがどうだろう。昨日のセッションは文字通り異次元であった。おそよ意識を持つ人間があのような体験をするとは考えられないような体験の波がやって来た。その高みに完全に攫われてみると、異次元な体験質を持った宇宙に投げ出された感じであった。法界の世界とはかくも神妙で、かくも深妙なものなのだと改めて気づかせてもらった次第である。自分はここで立ち止まるべきなのか、それともさらに法界の奥へと進んでいくべきなのだろうか。そのようなことを考えた。自分の中に依然として残る煩悩や執着を考慮してみたときに、奥へ行くことを一度やめた方がいいように思えたし、同時に煩悩や執着を滅尽するためにはさらに奥へと進んでいかなければならないような気がした。一夜が明けて、やはり自分は法界のさらに奥へと進んでいこうという気概さを携えていることに気づく。ただしここからは少し慎重に、無理をせず進んでいきたい。人間は学習する生き物であり、慣れる生き物であるから、昨日と同次元の体験が次にやって来た時にはうまく法界宇宙の奥へと入っていけるだろう。しかし繰り返しになるが、法界には無限の階層構造があるのである。ある階層の体験に習熟したと思ってさらに奥へ入ってみると、とんでもない世界がまだ次に待っているのである。それは時に精神的な危機を引き起こすものであるかもしれない。文字通り、自分は命懸けて法界探索をしているのだと昨日の体験の最中に思った。この命は本当に貴重で、1度の人生で1つしか与えられないものだが、それを賭けてでも法界の探索に乗り出すことを自分は厭わない。自らの命を賭けた探索は、きっといつかの後に続く人のためになると信じている。だから自分は命を賭けて1人でも進むのである。


法界の極み。法界の極点。それはまだまだ果てしない場所にあるが、自分はそこに向かっていく。食実践や運動や睡眠に始まり、日々の学習も実践も何もかもは法界の極致に向かうためにある。自分はただ1人でもこの命を掛けて法界宇宙の果てに行く。フローニンゲン:2024/5/6(月)07:34


12639. 第32回シロシビン・セッションの振り返り(その4)   


先ほど朝の抹茶を淹れた。そして、オーブンで乾燥させているシロシビン・マッシュルームをひっくり返し、反対の面を乾燥させ始めた。今回は大収穫であったから、じっくり時間をかけて乾燥させていこう。まさか今用いている栽培キットからさらにこんな量の収穫がもたらされるとは思ってもみなかった。生命の不思議さがある。生命には何か途轍もない力があるようだ。この様子だとまだ収穫ができるかもしれず、そうなってくると、秋の一時帰国までにあと1つ新しい栽培キットを購入するだけで十分かもしれない。6月の終わりぐらいに新しい栽培キットを購入してそこから栽培と収穫を続けていけば、ちょうど一時帰国する11月の中旬ぐらいのタイミングで全ての収穫を終えることができそうである。そうすれば栽培キットの世話を気にかけずに一時帰国できる。全てが自分にとって好ましいように展開していくことに有り難さを感じる。


小鳥の鳴き声に耳を傾けながら、暖かいを抹茶を飲み、こうしてゆっくりと昨日のセッションの内容を振り返るというのはいいものだ。これまではセッション終えた当日の夜に振り返りをしていたが、今後はあえて一夜明けてからの振り返りにしてみようかと思う。夜に振り返りの日記を大量に書いていると、それによって脳が覚醒してしまい、寝つきにも影響を与えてしまうように思う。また、就寝直前までパソコンと向き合っていると、パソコンの光によってこれまた睡眠の質に影響を与えそうなので、今後はセッションをする日は振り返りの日記を書くことなく、さらには夕食を食べることなくそのまま就寝してしまおうと思う。そうすれば1日半のファスティングが行えることもあり、一石二鳥である。2週間に1度のセッションは、ファスティングとして胃腸を含めた身体全体をゆっくり休める最良の機会となる。それを通じてまた生まれ変わった自己として翌日から生き直すということをしていきたい。唯識学の教えが説くように、仏になる道は自己浄化の道なのである。自己の心身を徹底的に浄化し、それを通じて他者や社会の浄化に寄与していくこと。それこそが大乗仏教瑜伽行唯識学が根本的に目指すべきことなのだ。奇しくも浄化というのは神道においても大切にされている。心身の浄化には、まだ今の自分に気づけていない深層的な意味がありそうだ。いずれにせよ、シロシビン・セッションそのものを通じて煩悩と執着を滅尽させていくという心の浄化を進めていき、セッションに付随させて行うファスティングによって肉体を浄化させていく。この組み合わせをこれからのセッションで採用していこうと思う。フローニンゲン:2024/5/6(月)08:08


12640. 第32回シロシビン・セッションの振り返り(その5) 


結局一夜が明けた後の振り返りも、これまで通りの振り返りの総量になっていることに気づく。ここからも無理をしてセッションの当日の夜に振り返りの日記を執筆するのではなく、一夜が明けてから生まれ変わった自己を通じて振り返りの日記を書き留めていきたい。セッションの後に夕食を食べることをやめ、日記を書くこともやめるのであれば、セッションの開始はこれまでの午前10時からではなく、正午にしてもいいように思う。正午まではいつも通りの探究活動に従事し、そこからゆっくりと時間を取ってシロシビン・セッションという法界探索の実践に従事する流れを採用してみよう。こうして毎回のセッションから絶えず新たなことを学び、その時の自分にとって最良のセッションのデザインが生まれていく。

前々回と前回のゼミナールのクラスでは「発酵」というキーワードが出ていた。まさに一日空けてセッションを振り返ることは、体験と洞察が発酵していることを感じる。わずか1日でもそうした発酵を感じられる。また、振り返りをすることが発酵をより促進されることにも注目しなければいけない。私たちの言葉は酵母なのだろうか。あるいは体験の方が酵母で、酵母に与える水あるいは酸素が言葉だと言えるだろうか。いずれにせよ、体験に対して言葉を与えることが発酵を促進することは間違いなく、逆に言えば、体験に言葉を与えなければその体験は発酵せずに死ぬ。私たちの1つ1つの体験には固有の命が宿っていて、1つ1つが貴重なものであることを思うとき、その命を無駄にしないためにも体験に逐一言葉を与えて発酵を促し、自らの肥やしにしていくことの大切さを思う。


シロシビン・セッションに対する一連の振り返りは、当然ながら自らの言葉を通じて行われている。体験そのものが主観的な産物であるから、それを自らの主観を通じて己の言葉で振り返りことの大切さを思う。世間はどうも主観というものを酷く軽んじているようで、客観を金科玉条のように崇め奉っている様子が奇妙であるし、滑稽である。それはとんだ誤解であり、客観なるものを過度に尊重することは危険ですらある。それは唯識学の教えを学んでみればすぐにわかることである。客観なるものがどのように発生しているのかのその発生機構を一度きちんと考えてみるべきである。さすれば客観なるものが究極的には空なるものであり、主観から生まれていることに気づくであろう。厳密には主観もまた空なるものであり、主観と客観を同時に生み出している自体分(自照分)なる存在に気づくだろう。そして自体分もまた空なる存在であることに気づけるかどうか。それが五重唯識という観法の中で修せられる事柄なのである。いずれにせよ、社会が諸手を挙げて客観なるものを客観があると実体化させ、それに取り憑かれている様子は愚の骨頂であり、それが社会に混沌と迷いをもたらし、種々の病理をもたらしているのだと思う。そのことに目覚めてくれる人がどれほどいるだろうか。それに対して目覚めた同志を求め、彼らとの協働がこれから本当に大切になることを思う。フローニンゲン:2024/5/6(月)08:24


12641. 第32回シロシビン・セッションの振り返り(その6)


風が全く吹いておらず、朝の太陽光が煌めいている。朝の世界全体が1つの大海のように知覚され、朝日が大海の水面を照らし、その光が美しく反射しているかのようだ。


リセット。リスタート。再生。再誕。シロシビン・セッションの翌日はいつもそのようなことを感じる。セッションを終えて一夜が明けてから振り返ることは、時の発酵過程を経てとても充実している。今日はこのまま気の向くままに振り返りを進めていきたい。いつもは朝は書物と向き合って探究活動に勤しむが、たまにはこうして書物から離れ、心の声に耳を傾けながら気ままに文章を綴ることもあっていいだろう。まさに豊かな時間がここにある。

セッションでもたらされる体験は自分に固有のものであるから、自らの言葉を通じて振り返りをしていく必要がある。その際に、今の自分の持てる言葉を総動員していくことになるが、その時に助けになっているのは唯識学にある種々の言葉である。唯識学の1つ1つの言葉は叡智の結晶であり、叡智の産物である。過去の偉大な瑜伽師たちが自らの実践体験をもとに紡ぎ出した言葉をスキャフォールディングにして、既存の自らの言葉とブレンドさせる形で体験に意味づけをしていくことを大切にしたい。私たちは言葉を超えた存在でありながら、同時に言葉を通じて生きている生き物である。阿頼耶識に貯蔵される種子は「名言種子」と呼ばれるほどに、私たちは言葉を不可欠なものとして意味生活を営んでいるのだ。そして言葉は自らに物語を生み出し、人は己の意味物語を通じて生きる。シロシビン・セッションはそうした物語を検証させる機会を与えてくれ、新たな物語に刷新してくれる力を持っている。人から物語を奪うことはできないし、人は物語無しには生きていけない。同時に人は自らの既存の物語に縛られて生きる存在でもある。瘡蓋のような過去の物語を払拭し、それを含んで超えていく新たな生き生きとした生命力に溢れた物語を構築させてくれる働きがシロシビン・セッションにはある。今後のセッションにおいても自らの言葉を通じて体験に意味を与えていき、新たな物語に刷新していくことが怠りたくはない。その際に、唯識学の種々の言葉を援用させてもらう。唯識学は自分にとって巨人に他ならず、巨人の肩に乗らせてもらうのだ。それを通じて、自らの言葉を彫琢し続け、言葉の粒度を高めていき、それを自分の意味世界の養分としていく。そうすれば、心身はさらに浄化を進めていき、法界のさらに奥へ奥へと進んでいけるだろう。フローニンゲン:2024/5/6(月)08:43


12642. 第32回シロシビン・セッションの振り返り(その7)


素粒子の発生点。素粒子の消失点。生と死の発生点かつ消失点。昨日のあの体験を手持ちの言葉で表現するとそのようになるだろうか。仏教の言葉で言えば、それは空性に他ならないと思うのだが、意識次元と物理次元の双方で全てが生まれ、全てが消失し、再び全てが生まれる虚空間があるということを直接体験することは驚き以外の何物でもなかった。未だかつてそれを体験したことはなかった。もちろん類似する体験であれば、これまでのシロシビン・セッションやアヤワスカのセッションを含めで何度もしているだろうが、あれくらいの鮮明さと深さを持った形では体験はしたことがなかったのである。昨日のその体験を持ってして、万象を生じさせ、万象が還っていく虚空間の存在に対して信解がもたらされたと言える。それは有即無、無即有の森羅万象の生成空間である。それはれっきとして、虚空なるものとして有る。唯識学の教えのように、無なる虚空としての有としてその存在が直接体験を通じて証せられた。それは明証体験であった。また、自らが還っていく場所はそこなのだと思った。自らはそこから生まれ、そこに還っていくのである。全ての生命も全ての現象も、全ての全てはそこから生成され、そこに還っていくのである。


もう1つ印象的だったのは、生命体の根源はやはり物質ではなく意識であるという確証を再度得たことである。その確証はすでに過去のセッションで得られていたが、昨日はそこからさらに一歩進めて、生命体を構成する物質の1つ1つに意識があることを体験した。自らの肉体を構成する細胞の意識を通じてリアリティを知覚する体験があったのである。瞼を閉じると、眼根を構成する物質体の意識が立ち現れ、それを通じて世界認識が立ち現れていた。意識は脳からもたらされるのでは決してなく、もちろん脳の細胞1つ1つに意識が宿っていることは間違いないだろうが、肉体の全細胞の1つ1つに固有の微細な意識が存在することをありありと体験する時間が続いていた。ピーク体験においては、一刹那に1つのライフサイクルを体験するというものもあった。仏教でいる輪廻転生は確かに存在するようだ。しかしそれは魂というようなものが生まれ変わりをしていくものでは決してなく、唯識学が指摘するように、阿頼耶識という意識が輪廻転生を繰り返していくようなのだ。それを止めて解脱する手段は心身の徹底的な浄化しかなく、仏になるしかないのだが、唯識学が理想とする涅槃である無住処涅槃においては、他者の救済のためにあえて完全な涅槃に入らず、煩悩のある迷いの世界で苦しむ人々の救済に向けて活動を行い続ける。自分もそのような菩薩になりたいと心底願う。いずれにせよ、宇宙誕生の無始より想像されている自らの阿頼耶識が、過去無数に輪廻転生を遂げていることがありありと理解されたし、無数の人生において体験した膨大な記憶の情景を見た。それは太古の宇宙の記憶からスタートし、過去生の自分の阿頼耶識が蓄えた種子が開示する無限で多様な物語がそこにあった。それはあまりにも印象的な光景であった。こうして自分は唯識学が説く真理を1つ1つ自らの直接体験を持って確証していくということをこれからも行なっていく。法界の極地に向かうということは、森羅万象の生成と消滅を司るあの虚空に還り、それと一体となることなのだ。さすれば死と呼ばれるものはなんと安らかなものだろう。フローニンゲン:2024/5/6(月)09:05


12643. 第32回シロシビン・セッション後の夢


第32回のシロシビン・セッションの振り返りも落ち着きを見せたので、セッションを終えた夜に見ていた夢について振り返っておきたい。夢の中で私は、以前文明が存在していたと思われる古代遺跡の跡地にいた。今はそこには誰も住んでおらず、建物の大半は倒壊しており、残っている建物には草花の蔓が巻きついていた。そんな場所を1人散策していると、自分の後ろにはかつての友人たちがいるようで、私の後をゆっくり追うようにして歩いて来ていた。私は彼らが後ろにいることに安心感を感じ、1人遺跡の奥へ奥へと足を進めていた。すると、あるところでそれ以上奥に行ってはならないような気がした。姿形は見えないのだが、何か今の自分には決して手に負えないような存在がいるような気配があったのである。そこから私はもう数歩だけ足を前に進め、遺跡の奥を覗いて引き返すことにした。引き返す際には空を飛んで一気に元の地点に戻るのが賢明だと思ったのでそのようにした。空を高速度で飛行していると、友人たちが自分の姿を見上げ、何事かと言わんばかりに驚いていた。そのような場面があった。この夢は、昨日のセッションの体験をどこか象徴しているようだ。古代文明の記憶は、相続したかつての自分の阿頼耶識に蓄えられた種子が開示したものだろうか。そして古代遺跡のさらに奥へと進まなかったのは、今の自分にはまだ足を踏み入れるには早い法界のさらに深い世界を暗示しているように思う。こうして日々の夢を振り返っていると、現生における自分の過去の記憶が夢として形となって現れているだけではなく、心の浄化を通じて少しずつ過去生の記憶が夢の中に染み込み始め、形となって現れつつあるのを感じる。シロシビン・セッションと夢日記の継続は、間違いなく自分の阿頼耶識の浄化につながっているようだ。


それ以外に覚えている夢としては、実家で朝食を食べようとしている場面であった。普段オランダで生活をしている際には固形物としての朝食は一切摂らないようにしているが、実家では果物などを軽く食べるようにしている。ところがその日は母が豪勢な朝食を作ってくれていて、テーブルの上には様々な食事がこれでもかというぐらいに並んでいた。中でも驚いたのは、どういうわけか汁物が3種類もあったことである。流石に汁物が3つもあるというのは多いように思えたので、母に対してツッコミを入れた。すると母は無理して全てを食べる必要はなく、残ったものは夜、あるいは翌日に食べればいいと述べた。確かにそれもそうだなと思い、テーブルの上に並べられた豪勢な食事の1つ1つをゆっくりと堪能しながら、腹八分ぐらいで食べるのをやめて、夜や翌日にまた味わって食べようと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/5/6(月)09:27


12644. 第32回シロシビン・セッション後の夢の続き


薄暗い世界の中にある賑やかさ。今朝方の夢の続きとして、そんな世界にいる場面があったことを思い出す。そこでは見知らぬ日本人の男女たちがパーティーを行なっていて、テーブル席に着いていた。男性陣が手前側に座り、女性陣が奥側に座っていた。どういうわけか私は喉を痛めてしまっていて、一言も喋れない状態にあった。喉を労り、体力を回復させることも兼ねて、パーティー中ではあったが椅子の背もたれからだらりと体をずりおろして寝ることにした。しばらく眠りの世界に入っていると、そこから目覚めた時にはもうパーティーが終わっていた。時刻もいい時間になっていて、これから自宅に戻ろうと思った。1階に降りると、そこには広い待合室のような空間が広がっていた。大理石でできたようなフロアが眩かったが、それでいて照明は点灯しておらず暗かった。持参した荷物は全て小さなロッカーに入れていたので、ロッカーを開けて荷物を取り出しに行こうと思った。ロッカーを開けてみると、ジムで利用するシューズがないことに気づいた。フロアの方を振り返ると、そこに片方のシューズが落ちていることに気づいた。もう片方はどこにあるのだろうと思って探していると、どうやら誰かがいたずらをして、自分のシューズを蹴飛ばしてフロアのどこかに置きっぱなしになっているのだと思った。いかんせんフロアはだだっ広かったので、もう片方のシューズを探すのは難航した。そうこうしているうちに帰りのバスの最終便の時間がやってきそうであった。小中高時代の親友(SI)が先にバス停に行って自分を待ってくれていたため、彼に巻き添いを食わせて最終便に彼が乗り損ねてしまうのは申し訳ないなと思った。もう片方のシューズを無事に見つけたので、今から急いでバス停に行くということを彼に伝えようと思って電話しようと思った。するとポケットから出てきたのはスマホではなく、ガラケーであり、その操作に少し手間取りながら彼に電話をかけた。すると、画面に何か電話を妨害するようなシグナルが表示され、結局彼に電話をすることができなかった。なので電話はもう諦めて、すぐさま彼が待つバス停に駆けつけることにした。しかし出発前に突然トイレに行きたくなり、用を足してから出発しようと思った。トイレに入ると、もう時刻は午後11時過ぎだったが、数人ほど先ほどのパーティーの参加者が残っていて、トイレの中にいた。彼らと少し言葉を交わして、彼らが見落としている半個室のトイレを利用することにした。用を足し終えると、もうバスの最終便は出発してしまったのではないかと思い、親友の彼には申し訳ないことをしたと思った。彼が無事に最終便に乗車してくれたことを祈りながら、自分はもう今夜自宅に帰ることをせず、パーティー会場で一夜を明かそうと思った。そのような場面があった。フローニンゲン:2024/5/6(月)09:41


12645. 第32回シロシビン・セッション翌日の充実したトレーニングを終えて


時刻はちょうど午後5時を迎えた。先ほどジムから帰ってきて、シャワーを浴びて今に至る。この日記を書き終えたら夕食の準備を始めよう。トレーニング後の夕食はさぞかし美味しいだろう。今日もまたジムに行く前に黒豆の水煮を作ったので、それを茹でた野菜に加えていただくことが楽しみである。トレーニング後の十分かつ良質なタンパク質の補給になるだろう。


今日の筋力トレーニングから、トレーニング中に抹茶と蜂蜜を混ぜたものを飲むのはやめた。確かに抹茶に含まれるテアニンによってカフェインの効果が緩かないなることは確かだが、カフェインには利尿作用があるので、筋力トレーニング中に汗をかくことを考えると、水分補給には適していないと思われた。なので今日からは、体外に放出される汗によって失われたナトリウムを補うためにシンプルに蜂蜜を600mlほどの白湯に溶かしたドリンクを作って持っていくことにした。これからフローニンゲンも気温が上がってくるだろうから、今後さらにトレーニング中に発汗することを見越して、良質な蜂蜜で作ったドリンクをワークアウト中の飲み物としたい。実際に今日から蜂蜜を白湯に溶かしたものを飲んでみると、トレーニング中にトイレに行くことはなかった。自宅でトイレを済ませて出かけると、トレーニングとにジムを出発する前にトイレに行くだけでよかった。ここからも蜂蜜と白湯を混ぜたものによる利尿を抑える働きを見て取ることができる。かつてはトレーニング中にもプロテインを飲んでいたが、トレーニング中は消化器官に血液が集められ、消化が悪くなるようなのでそれもまた望ましいことではなかった。色々とトレーニングに関する栄養理論を調べてみたところ、シンプルに水や蜂蜜を混ぜた白湯がトレーニング中の水分補給に最適だとわかった次第である。


今日のトレーニングはシロシビン・セッションの翌日かつファスティングの翌日でもあったが、驚くほど体が動いた。トレーニングの開始時はいつも様子を見ながらスタートするのだが、準備運動をしてローイングを5分漕いだ後からは体が十分に温まり、そこからのトレーニングはとても順調であった。極め付けは締めの有酸素運動であり、そこでまたローイングを5分ほど漕いで、そこから20分強走った。その時にどこまでもローイングを漕いだり、走ったりすることができそうな感覚があったが、自分は体脂肪を燃やしたり、体重を落とすことには一切関心がないので、体はまだまだ動けても適度な時間で切り止めることに次第である。シロシビン・セッションとファスティングの双方を通じて身体の浄化もますます促されているようであり、コーヒーから抹茶に切り替えたことや黒豆を摂取し始めたことによる健康効果も相まってか、身体がますます良好な状態になっていることを素直に喜びたい。フローニンゲン:2024/5/6(月)17:08

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