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7014-7016: アートの国オランダからの便り 2021年6月6日(月)


No.2333 蝶霊_A Spirit of a Butterfly


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.670, Waiting for Words to Come

I’m just waiting for words to come.

My words themselves are creative products in this universe.

Where do they come from?

I have no idea.

That’s why they are divine products.


I’m just waiting for words to come.

Groningen; 06:06, 6/6/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた4曲


全ての楽曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

楽曲の一部はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

7014. 今朝方の夢

7015. 地獄と駆り立て/マネーの相対性・絶対性/訪れとしての存在

7016. 現実世界と想像世界/制度化された欲望


7014. 今朝方の夢


小鳥のさえずりが微かに聞こえてくる。静かな朝が再びやって来た。


今朝方起床してみると、随分冷えていることに気づき、今日は1日を通してひんやりとした日になるようだ。最高気温は16度までし上がらず、最低気温は12度とのことである。


窓越しに外の景色を眺めながら、今朝方の夢を振り返っている。夢の中で私は、見慣れない学校の教室にいた。席に着席し、テストの回答の返却を待っていた。


今から国語のテストが返却されるとのことだったが、教壇には高校時代にお世話になっていた数学の先生がいた。その先生はハキハキとした物言いをする特徴があり、テストの返却に際してもハキハキとした口調で1人1人の生徒に対して言葉を掛けていた。


いざ私のテストが返却されるとき、先生は私が初歩的なミスをしていることを指摘した。テストを受け取ってその箇所を見ると、確かにその通りだった。


よくよく解答用紙を眺めてみると、点数の計算がおかしいことに気づいた。端的には、7点ほど合計点が低く計算されていた。


席に着いていた私は挙手をし、先生を呼び、その点を指摘しようと思った。すると、他の生徒も問題や解答について色々と質問があるらしく、私はしばらくその場で待たされた。


その後、しばらくして先生が自分の元にやって来て、7点合計点が低く計算されていることを指摘すると、すぐに修正してくれた。名簿に正しい点数を反映させたいとのことだったので、私はいったんテストを先生に預けた。そこで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私は海にいた。そこは海外のどこかの海であり、サーフィンを楽しめることで有名な場所のようだった。その日は天気が良く、サーファーが何人も海にいた。


私もサーフィンを楽しもうと思い、早速海に入っていった。すると、すぐにいい波がやって来て、大きな技を披露した。それは天に向かってジャンプをし、何回か後方回転しながら着水するというものである。


そんな大技をどこで身につけたのか自分でもわからないが、それを得意としているようだった。他のサーファーの中に同じ技ができる人はおらず、みんなの注目を集めていた。


後ほど、数名のサーファーが私のところにやって来て、その技について教えて欲しいと言って来た。私は快諾し、その技について教え始めた。着水の際に頭を海にぶつけないことが最大の注意点であることを念を押して伝えた時に夢の場面が変わった。


最後の夢の場面では、私は見慣れない会議室にいた。部屋全体が白く、広々とした空間が広がっていた。そこで私は数人の人たちと話をしていて、その中に昔の上司がいた。


上司とは久しぶりの再会だったので、その場で少し近況について話した。その後、周りにいた見知らぬ男性が上司に対して、東南アジアの株式市場に関する注意点について質問をした。


上司はこれから海外赴任で東南アジアに行くことになっており、すでに色々と東南アジアの株式市場について調べているようだったので、非常に的確な回答をしていた。昔と変わらず、説明が上手いなと思ったところで夢から覚めた。


今朝方はその他にも何か夢を見ていたように思う。小中高時代の友人(TK)が現れ、彼とどこか見慣れない場所で話をしていたのを覚えている。その他にも何か場面があったかもしれない。今から朝風呂に入りながら、再び今朝方の夢について振り返ってみよう。フローニンゲン:2021/6/6(日)06:00


7015. 地獄と駆り立て/マネーの相対性・絶対性/訪れとしての存在


時刻は午前10時を迎えた。目には見えないほどの小雨が降っている。


ちょうど先ほど、サハルの家に行き、書籍を受け取った。昨夜書籍が届いていたようなのだが、昨夜はそれを受け取ることができず、早朝のサハルにテキストメッセージを送り、午前中に都合の良い時間を教えてもらった。


サハルは最近新しい仕事を受注したようであり、フィンの子育てと並行して忙しいながらも充実した日々を送っているようだ。サハルの家から自宅に戻り、早速書籍の箱を開けた。


そこには、先日イギリスのアマゾンに注文していた12冊の書籍が詰められていた。そのうちの数冊はスロヴェニアの哲学者スラヴォイ·ジジェクのものであり、今日は午後からジジェクのいずれかの書籍を読もうと思う。ジジェクも広義において現代の文明批判を行なっており、ドイツ観念論やラカン派の精神分析学を用いた論証の方法論が参考になる。


今日は朝から経済と宗教に関する書籍を読んでいた。その中で、地獄を信じているキリスト教徒は、労働に駆り立てられるというデータを発見し、それは大変興味深いと思った。これはキリスト教徒だけではなく、無宗教の現代人にも当てはまることかもしれない。


現代人の多くは、意識的ではないせよ、深層意識的に地獄のようなものを想像しており、それがあれほどまでに過度な労働に駆り立てているのかもしれない。地獄に落ちるかもしれないという不安や恐怖に類した不安や恐れから逃れるために労働に自らを駆り立てる現代人の姿が浮かんでくる。現代人にとって地獄が何を暗示するものなのか、それについてもう少し考えてみよう。


今日はすでに2冊目の書籍を読み進めている。その書籍は形而上学、認識論、存在論、倫理学の観点からマネーについて扱っている良著である。本書を読み進めながら、マネーの特性が掴みづらいのは、それが相対的リアリティの産物であり、そこには膨大な歴史が付属しており、相対的特徴が無数にあるからなのだろうと思った。


それらの特徴を1つ1つ紐解き、マネーの相対的特性を幅広く理解していき、マネーの絶対的·超越的性質まで見通せたらと思う。マネーに付帯する無数の意味を紐解きながら、究極的な意味にまで到達する道が先ほどチラリと知覚された。


自分にしかやって来ない世界体験を何らかの形にして共有すること。自分を通してしか開示されない世界の諸相を形にし、それを共有することが自分の活動の根幹にある。それは探究活動しかり、創作活動しかりである。


訪れとしてやってくる体験と形。どちらも超越的な世界からの訪れなのだ。


ひょっとすると、自分の存在それすらもが超越的な世界からの訪れなのかもしれない。全ての存在者は訪れとして共通している。そのようなことを思う。フローニンゲン:2021/6/6(日)10:14


7016. 現実世界と想像世界/制度化された欲望


日曜日がゆっくり終わりに近づいている。日曜日の夕暮れに、色々なことを考えている。


人間は現実世界と想像世界のどちらか一方を生きることはできず、絶えずその双方の世界を通じて生きているのではないだろうか。ふとした時に想像世界の中に入り、またふとした時に現実世界に入る。時にはそれらが渾然一体となっている状態さえあるかもしれない。


今日は結局4冊ほど書籍を読み、映画を3本ほど見ていた。言語世界と映像世界の双方に気づいたら意識が向かっていて、言語と映像の海の中にいた。その最中には絶えず想像世界に自分がいたように思う。


ここ最近は日記の中で映画について言及していないが、毎日継続して2本は映画やドキュメンタリーを見ている。相対的真実で溢れる世界を探求することに終わりはなく、そこに拘泥するつもりは全くない。


むしろ、絶対的真実の世界に落ち着くことを望んでいる自分がいるのだが、それでも相対的真実の世界を探求しなければならないという使命のようなものを感じる。相対的真実と絶対的真実の探求の調和の中で日々を過ごしていくこと。その調和が崩れてはならない。それは危険ですらある。


午後にふと、現代文明の批判の立脚点を、例えば仏典、聖書、コーランに求めてみることの大切さを思った。現代社会の歪みは、そうした偉大な思想体系の逸脱と切っても切り離せない関係にあるのではないかという考えが芽生えた。


偉大な思想体系の叡智を汲み取ることは、歪みの治癒に幾ばくか寄与するはずであり、どこかそれが最後の望みにすら思えてくる。テクノロジーの活用は、根本的な問題を温存したままとなり、最終的には思想的な何か、信念体系の根本的変容にあるような気がする。


ひょっとしたら、テクノロジーによって信念体系の根本的変容すら実現可能になる時代もそう遠くない未来にやってくるのかもしれない。そうであれば、テクノロジーも最終的な救済手段になる可能性がある。それは少しばかりテクノクラート的に傾斜した発想だろうか。


制度化された欲望、そして教育を通じて埋め込まれた欲望をどのように治癒·解放していくのか。まずはそもそも欲望がどのようなプロセスとメカニズムで制度化されているのかを探究していく必要がある。


治癒と解放にはそれが不可欠である。コンピュータープログラミングで言えば、バグの特定とバグの発生メカニズムの解明を経ての修正。暴走する人間の欲望についても同様のプロセスを辿って治癒と解放を図る必要がある。


欲望の歪みは自然と無意識化され、それがまた種々の問題を生み出している。人間には様々な種類と次元の欲望があるが、とりわけ低次な欲望を抱く人間の本質を眺めていると、そこから悪が蔓延るように思えてくる。


人間誰しもの中に悪があるというのは、欲望があることと密接に関わっているのではないだろうか。人間には善も悪もあり、同時に善悪を超えた何かがある。それら3者があることを見逃してはならない。


決して善だけでも、決して悪だけでも、そして決して超越的なだけでもない。それら3者があっての人間なのだろう。フローニンゲン:2021/6/6(日)20:23

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