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6988-6991: アートの国オランダからの便り 2021年5月30日(月)


No.2310 気持ちの現れ_A Manifestation of a Feeling


本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)

No.658, A Transcendental Power

I’ve recently felt a transcendental power that leads my life toward a new direction.

The origin of the power is unknowable.

But it is palpable.

I just want to surrender myself to the mighty power.

Groningen; 07:16, 5/30/2021


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本日生まれた4曲


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タイトル一覧

6988. 今朝方の夢/表現に導く超越的な力の存在

6989. 異なる周波数帯の中で/滞在許可証の延長手続き

6990. 自己超越体験/文明批判と救済学

6991. 文明の限界と人間であることの限界


6988. 今朝方の夢/表現に導く超越的な力の存在


時刻は午前7時を迎えようとしている。今この瞬間は少し曇っているが、今日は快晴となるようだ。ここからうっすらとした雲がどこかに消えていき、晴れ渡る空を眺めることができるだろう。


今朝方はいくつか印象的な夢を見ていた。その中でも1つの夢は、幾分恐怖心を感じさせるものだった。


夢の中で私は、高校時代を過ごした社宅の近辺にいた。タクシーのような乗り物に乗って、社宅の敷地内に入ると、辺りがとても静かだった。それは肯定的な意味での静けさではなく、不気味な静けさであった。


自分の家があった棟の辺りに近づくと、運転手がふと、「昨日、あの棟の一番端の上の階で事件があったんですよ」と述べた。私はそれを聞いた時、背筋が凍りついた。というのも、運転手が述べた場所こそが自分の家だったからである。


運転手の話によると、ある男が壁をよじ登ってベランダから家に侵入し、家の中の女性を刃物で襲ったとのことだった。運転手は、襲われたのは小さな子供の母親だということを述べており、それを聞いた瞬間に、母ではなく、自分の家の上の階が事件に巻き込まれたのだと思った。


襲われたのが母ではないことに安堵したが、上の階の人が襲われたこともあり、複雑な気持ちになった。運転手はベランダの方から車を回し、階段の前で車を止めた。その際に、洗濯物の様子を見ると、事件があったであろう4階以外には洗濯物が干されていて、やはり4階が事件に巻き込まれたのだと改めて思った。


そこで夢の場面が変わった。この夢はとても印象に残っている。不安の気持ちから安堵に変わり、そこからまた複雑な気持ちになるという感情の変化があった。


今朝方はその他にも夢を見ていて、今それを思い出そうとしている。その他にも印象に残る夢を見ていたはずなので、今から朝風呂に入りながらそれを思い出す試みをしたい。


昨夜、自分に励ましと啓発をもたらしてくれる表現者の特徴について考えていた。自分は表現者の何に着目しているのだろうか。


表現内容はもちろんのこと、表現物を生み出す表現構造、すなわち表現形式へ着目することも当然である。しかしそれ以上に重要なことは、表現形式を超えて、それを表現せざるを得なかった、ないしは表現に導いたその人の歴史や実存性なのだと思う。


また別の言葉で言えば、表現者を駆り立て、表現物を生み出した超越的なものや霊的なものにも着目している自分がいることに気づく。バスカーの言葉で言えば、表現内容に着目するというのは経験世界(the empirical)の事物に着目することと同じであり、表現形式に着目するというのは実在世界(the actual)の経験パターンに着目するのと同じである。


一方で、表現者の背後にある歴史や実存性、さらには超越的なものに眼差しを向けるというのは、現実世界(the real)の構造的·超越的な力に着目するのと同じである。そのように考えてみると、自分は表現者を取り巻くそれら3つの階層構造の全てに注目し、とりわけ最上部の階層を大切にしていることがわかる。


その視点を創作活動に従事する自分にも当てはめてみると、やはり表現に導いた超越的な力の存在について思いを馳せざるを得ないし、そうした力の存在を大切にしたいと思う。フローニンゲン:2021/5/30(日)07:11


6989. 異なる周波数帯の中で/滞在許可証の延長手続き


時刻は午前8時を迎えた。早朝の空を覆っていた雲はどこかに消え去り、今は雲一つない見事な空が広がっている。


朝日はとても優しく、車庫の上で1匹の猫がうたた寝をしている。その気持ちがよくわかるような朝だ。


昨日の夕方に買い物に出かけようとした時、ちょうど隣人のサハルも出かけるところだった。サハルの家の玄関で偶然鉢合わせ、ちょうど同じ方向に向かうことになっていたので、雑談をしながら歩いていた。


インドの現状に関するいろいろな話を聞かせてもらった後に別れ、買い物を終えて自宅に戻った。その際に、一昨日に届けられた書籍が近くの家に預けられていたのでそれを取りに行こうと思った。


その家の前に辿り着いた時、後ろから声を掛けられ、振り返ると、どうやらその家の住人のようだった。そこでふと、サハルと雑談をしながらゆっくりと歩いていなければ、その住人がまだ不在であり、書物を受け取ることができなかったと思った。そして、その偶然に感謝の念を持ったのである。


昨日のサハルとのシンクロだけではなく、今自分は諸々の事柄に対してシンクロしているような感覚がある。仮に存在の周波数帯いうものが存在するのであれば、自分はこれまでとは違う周波数帯の中にいて、これまでとは異なる周波数を自ら発しているように感じる。


今日は午後に、滞在許可証の延長に関する書類をダウンロードし、記入を始めていこうと思う。先週もそのようなことを述べていたが、結局着手することなく過ごしてしまった。今日は本当にそれに着手しよう。


会計士のロブに必要な書類を依頼することになるかもしれず、どのような会計書類が必要になるのかも明らかにしておこう。午後3時半頃から移民局のウェブサイトに行き、必要な書類をダウンロードする。


更新手続きは最初の申請時よりも遥かに手続きが楽であろうから、できれば今日の夕方に全ての記入を終えたい。そうすれば、来週のどこかで近所のコピー屋に行って書類を印刷し、その流れで移民局に書類を郵送しようと思う。


静けさの漂う日曜日の朝。美風が木々を優しく揺らし、朝日が地上を優しく包んでいる。


車庫の上の猫は引き続きうたた寝をしたままだ。自分はここから充実した1日をスタートさせていく。フローニンゲン:2021/5/30(日)08:30


6990. 自己超越体験/文明批判と救済学


日曜日の穏やかな朝の世界が引き続き目の前に広がっている。今日は天気がとても良く、隣人のマークがグリーンハウスで庭いじりをしていた。その後、近くのテーブルに腰掛けて本を読んでいる姿を見かけた。


幸いにも明日からは少しずつ気温が上がってくる。今はまだヒートテックを着用して室内で過ごしているが、来週からはもうそれは必要ないかもしれない。


昨夜就寝前に、自己超越体験に見舞われた。これは時折やってくる体験である。


ふっと目撃者の意識に誘われ、自己を超越的な観点で眺めている時間があった。これが起こると、自分の存在と日々の取り組みを高次元から眺めることにつながり、それによって活動の軌道修正が行われているように思う。


ライフワークの方向性をうまく舵取りするような体験としてそれがやって来るのは不思議である。さらには、この体験は存在をさらに高みに導くことにもつながっているようなのだ。


この体験の内容そのものについては言葉にすることは難しい。その体験はそもそも言語を超えているようなものなのだ。


1つ言えることは、この体験中には自己感覚というものが消失し、自己を含めた世界全体を眺めている意識だけがそこにあるという感覚を伴うということだ。ここからまた自己は自己自身を超え出ていくのであろう。


この現代社会を覆う種々の問題の構造のそのまた構造のさらに深い構造にまで働きかけていく道を探る日々。そのためにインテグラル理論と批判的実在論およびメタ実在論の探究を緩やかに継続してく。


とりわけ後者の2つの思想体系についてはより一層の理解が求められる。そして、個別具体的な学術領域としては霊性学さらには宗教学と経済学の探究を行っていく。


人間社会全体の深くに存在しているシャドーを特定するにはインテグラル理論と批判的実在論およびメタ実在論のようなメタ理論が必要であり、個別具体的なシャドーに働きかけていく際にはより個別具体的な知識が求められる。


今の自分はそうした個別具体的な知識を霊性学や宗教学、そして経済学に求めている。人類共同体のシャドーの特定とその治癒、それを実現することが少しでもできれば、この地球は少し救済されるのだろうか。


文明批判は、ある意味では救済学の創出と表裏一体なのではないかと思う。現代の文明を批判することを通じて、現代文明を救済していくということ。その治癒を実現していくということ。


そうした役割を担っている自分もまたその実践を通じて救済されていくのだろうか。そうであれば、相互救済的な関係を自らの探究と実践に見出すことが可能となり、それが活動の根源的なエネルギーになっていくかもしれない。フローニンゲン:2021/5/30(日)11:52


6991. 文明の限界と人間であることの限界


時刻は午後7時半を迎えた。昨日と同様に、夕方の穏やかさが世界に満ちている。


今この瞬間は、昨日のように車庫の上に猫がいない。昨日は数匹の猫が車庫の上で仲良く戯れていた。


今日もまた雑多なことを考えていた。どうやら創作活動というのは自分の内側で体験する1人称的実践というよりも、3人称的なものを共有するという点で3人称的実践の側面が強いことに気づいた。日記の執筆を含め、3人称的な形となったものをこの世界に共有するという3人称的な実践として、これからも引き続き創作活動に従事していこうと思う。


相対的真実を知るという学術的探究だけではなく、絶対的真実を知るという試みとして詩集を読むことの意味が自分の中にある。2つの種類の真実を知る実践は、自分の内側の調和を図る上でとても大切だ。


片方だけだとバランスが崩れてしまうようなのだ。全ての詩集が絶対的真実を開示しているわけではなく、その辺りは選別する眼が必要になってくる。


幸いにもこれまで購入したいずれの詩も、絶対的真実を開示しているものばかりである。数日前に届いたフリッチョフ·シュオンの詩集はまさにそうしたものである。


文明の限界と人間であることの限界は相似形なのではないかという気づきが今日芽生えた。人間という生き物の知性的限界は文明の限界であり、そうした限界が生態系の危機とつながっている。創造主は、人間に言語という優れた贈り物を授けたが、同時にそれが分離思考をもたらし、それが自らや社会のみならず地球を蝕んでいることの皮肉さを思う。


そのようなことを考えていると、既存の経済·金融思想の盲点を探し出し、新たな経済·金融思想を提示することすらも表層的な試みなのかもしれないということに気づく。そうだとしても虚無主義に陥ることなく、今の探究を継続していく。


さらには、新たな経済·金融思想に基づいたコミュニティ運営の方策や社会運営の方策についても模索していく。新たな経済·金融思想を具体的な政策次元にどのように落とし込んでいくかまで将来的には探究を広げていくつもりである。そこではまた政策立案と政策実装に関する新たな専門知識が要求されるだろう。


既存の経済·金融思想に対して、機能的批判と道徳·倫理的批判の双方を行っていく道を午後に考えていた。金融資本主義はある種のゲシュタルトとして存在しており、それがフラクタル構造を伴って社会の隅々に行き渡り、そして私たちの心にもそれが侵食している。


そうしたゲシュタルト構造とフラクタル構造に対して2種類の観点から批判を加えていくことは、それらの変容に繋がってくれるだろうか。今はそれに一縷の希望を託す形で探究を進めていく。フローニンゲン:2021/5/30(日)19:46

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