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6733-6737: アートの国オランダからの便り 2021年3月14日(日)


No.1995 永遠なる星々_Everlasting Stars

本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)


No.435, Ultimate Silence

Ultimate silence is here.

It is caressing my existence.

I’m totally relaxed in the silence.

Groningen; 06:25, 3/14/2021


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本日生まれた7曲

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タイトル一覧

6733. 小鳥と私/今朝方の夢

6734. 絶対的静けさ/今朝方の夢の続き

6735.「スピリチャル·フリーマーケット」に足を踏み入れていく無垢な現代人

6736. 現代の霊性に関する種々の問題

6737. 夢を書き出すこと/「マクマインドフルネス」


6733. 小鳥と私/今朝方の夢


1羽の小鳥が小さな鳴き声を上げた。時刻は午前5時半を迎えようとしている。これから小鳥たちも活動を始めるようであり、彼らの鳴き声に今日も耳を澄ましたい。


意識。気づきの意識のあるとなしとでは、この世界の見え方も感じ方も大きく変わる。一体何人の人が気づけているのだろうか。こんなにも素晴らしい音楽が近くにあるということを。


小鳥たちの透き通る合唱に気づき、その美音に包まれてみよう。


深き闇。書斎の窓から見えるのは、漆黒の闇である。


街灯の明かりがポツポツと見える。あと2週間後から始まる新居での生活においては、オーナーの敷地内に家があることもあり、周りに街灯はないのではないかと思う。そうすれば、まだ世が明けぬこの時間帯の闇をもっと味わうことができるだろう。


もっとずっと深い闇。存在を飲み込み、存在の髄まで染み込む深き闇を求めている自分がいる。


そうした闇と手を繋ぎ、共に歩んでいくこと。それが可能になる生活が間も無くやって来る。


今朝方はいくつか印象に残る夢を見ていた。無意識の深層から顔を出したそれらの夢について、今日もまたできるだけ書き留めておこう。


夢の中で私は、高校のサッカー部に高2の終わりから入部しようとしていた。サッカー部には友人が多くいて、ちょうど彼らは練習を終えて、今から体育館の中でミーティングをするようだった。


すでに入部届を出した私は、まずはその終わりのミーティングに参加することにした。私は、キャプテンを務める友人や、その他の友人が自分であればすぐにレギュラーとして活躍できるという勧めもあって高2の終わりからサッカー部に入部しようと思ったのだが、果たしてすぐにレギュラーになれるのか疑問であった。


そもそもなまった体を鍛え直す必要があると思ったのだ。そんなことを考えながらミーティングに参加してみると、サッカーの話ではなく、無駄な話が多く、時間が無為に過ぎていくのを感じた。


ある友人は、それを見越して、ミーティングには参加せず、いつも早く帰宅しているとのことであり、それは賢明かと思った。とりあえず次回からはミーティングにはもう参加しないと心に決め、瞬きをした瞬間に、私は学校の図書室にいた。


小中学校時代のある小さな友人(KS)が私の横にいて、一緒に本を選んでいた。彼は数冊ほど本を選び出し、私は20冊ぐらい本を本棚から引っ張り出していた。


本を選ぶことに夢中になっていると、次の時間の国語の補講のクラスが迫っていることに気づいた。私は彼に、このままだと遅刻してしまうので、本棚から抜き出した本のうち、数冊を借りるための手続きを早く済ませようと述べた。


彼は2、3冊本を選ぶと、私は彼に、「そう言えば、今週末は連休だから、もう少し多く借りてもいいかもしれない」と述べた。彼はそれもそうだねという表情を浮かべ、再び本を選び始めた。


取り急ぎ、私は5、6冊の本を手に持って貸し出しカウンターに向かった。ところがそこには誰もいなかったので、私は結局本を借りることなく、急いで図書室をあとにして、国語の補講が行われる教室に向かった。


教室に到着すると、まだ先生は来ておらず、間に合ったと思ってホッとした。私は向かって左側の窓際の最後尾の席に腰掛けた。


興味深いことに、1つ1つの机と椅子が異なっていて、私は左端の一番後ろの机と椅子に対して何とも言えない魅力を直感的に感じていた。とりわけ、机の木材の質感とニスの輝きなどにグッと来るものがあった。席に腰掛けたところで夢の場面が変わった。


小さく鳴き声を上げている1羽の小鳥。よくよく耳を済ませてみると、どうやらその鳴き声に対して応答はないようだ。


応答なしの泣き声。この世界において誰からの反応もなかったとしても声を上げ続けること。この小鳥と自分の共通点はそれである。


「神、光あれと言えば、光があった」という旧約聖書の言葉。「神がただ一言、あれと言えば、それはある」というコーランの言葉。


自分に舞い降りてきたコトバを発し続けること。それが自分に託された役割である。フローニンゲン:2021/3/14(日)05:47


6734. 絶対的静けさ/今朝方の夢の続き


小鳥たちの清澄なが辺りに響き渡っている。先程の1羽に加えて、お友達がもう1羽加わったようだ。


午前6時を迎える段階になって、2羽の静かな対話を聞ける有り難さの中にいる。彼らの鳴き声は、合唱というよりも対話である。


1羽の鳴き声の後に少し沈黙があったりする。その沈黙が余韻を生み出し、自分の内的世界を静音で満たす。


昨日から、iPadプロのApple Pencilを用いずに手で直接画面を触って描いてみたところ、それが何とも言えない感覚をもたらし、昨日の大半の絵はそのように描いた。筆を使わずに手で絵具を直接塗っていくというその直接性に惹かれるものがあった。


とりわけ、自分の身体意識を筆に媒介させず、身体と絵が直接つながっているという感覚は注目に値するものだった。今日もそのようにして何枚か絵を描いていこう。


絶対的静けさの中にいる自己。そして、絶対的静けさである自己。全てはそこから始まり、全てはそこに帰着していくこと。それがありありと分かる。


先ほど、今朝方の夢を書き留めていた。実はあれは途中で終わっていた。まだ夢の続きがあったのである。それらについても書き留め、そこから今日の探究·創作活動に入っていこう。今日もまた「没頭没我入魂」の精神を体現させて生きていく。


夢の中の私は、小学校の教師を務める小中高時代の友人(HY)の日常を眺める者として存在していた。ちょうど、彼は学校の脇に植えられた街路樹の付近で、小柄な同僚の男性と写真撮影をしていた。


彼は180cmほどの身長があり、その小柄な同僚とは随分身長差があるように見えた。撮影された写真を見ると、彼の顔が半分切れているものがあったり、変な表情をしているものがあったりと、少しばかり笑いを誘うものだった。


写真に向かっていた視線を再び上に上げると、どういうわけか、私の視点は彼が家族で住む集合住宅の前にあった。そこでもまた私は夢を眺める者として存在していた。


彼には奥さんと2人の小さな息子、そして最近、女の子が生まれたらしかった。彼は本来優しい性格の持ち主なのだが、家では相当に荒れていて、というよりもむしろ、隣人の騒音に対して相当に腹を立てていて、隣の部屋と彼の部屋を仕切っている壁を何度も思いっきり叩いていたり、大声で暴言を吐いたりしていた。


そんな彼の姿は、きっと家族には恐ろしく見えるだろうと思いながら、私はその様子を眺めていた。すると、彼はいよいよ我慢できなくなったのか、金槌のようなものを手に持って、壁を破壊し始めた。


そこで、生まれたばかりの彼の子供が鳴き声を上げた。すると彼はハッとした表情をして、冷静さを少し取り戻した。そこで夢の場面が変わった。


最後の夢の場面では、私は体育館の中にいた。そこで私は、外国人たちと一緒にバスケを楽しんでいた。そこで行われている試合は、和気藹々としたものだったが、同時にかなり真剣なものでもあった。


私は黒人の小さな選手とマッチアップしていて、一進一退の攻防を繰り広げていた。その試合を見ている人が体育館の中に随分といて、そうした盛り上がりがプレーをしているこちらにも良い影響を与えていた。


私は、マッチアップしているその黒人の選手と、ダンクシュートを決める数を競っていた。2人には超人的なジャンプ力が備わっていて、通常よりも2倍高いリングに対してもダンクシュートを決めることができた。


あるところで、いつの間にかダンクが野球のホームランとみなされ始め、ホームランを競うホームラン合戦に変わっていた。より具体的には、ダンクシュートを決めたら、リングから大砲が飛び、それが果てしない距離まで飛んだらホームランとしてカウントされるルールになっていた。


マッチアップしている彼と私は、次々にダンクを決め、ホームランを放っていった。まさに一進一退の状況が続いていたのだが、試合時間も残り少なくなってくると、彼と私のジャンプ力が落ちてきて、次のダンクが最後になると直感的に思った。


最後に決めるのは私のようであり、私はシュートの直前に、ここまで一緒に戦ってきた彼に感謝し、また球を自分たちに供給してくれた人たち、そして観客に感謝の念を捧げて最後のシュートを放った。


最後に豪快なダンクシュートが決まり、とびきりの大砲が空に向かって発射された。その場にいた全員が、その大砲の行方を目で追い、感慨深い感覚に浸っていた。


そこで目が覚めた。目覚めた自分は、大きな感動の渦の中にいた。フローニンゲン:2021/3/14(日)06:23


6735.「スピリチャル·フリーマーケット」に足を踏み入れていく無垢な現代人


なんという落ち着きだろうか。そして、なんという美しい鳴き声であろうか。


朝日が輝く世界は静寂さに包まれていて、小鳥たちが美しい鳴き声を上げている。今ここに留まり、この世界にただあることを味わっている、という意識がないぐらいに今ここにいる。


現代の霊性を取り巻く種々の問題点。「今ここ」にあろうとすることそのものが、フェティシズム的な対象に成り下がってしまっている問題を見る。


今ここを強調する人たちは、果たしてどれほど今ここにいるのだろうか。今ここにいないがゆえにそのような言葉が発せられるのではないかだろうか。


霊性を取り巻く種々の思想や実践、そして在り方がフェティシズム的な対象として崇められているだけの状況を見ていると、それは非常に滑稽に思え、同時に残念な気持ちになる。


「スピリチャル·フリーマーケット」に次々と足を踏み入れていく無垢な現代人。大半の彼らは霊性に関するリテラシーもなければ、霊性の発達段階も未熟である。そんな彼がそうしたフリーマーケットに足を踏み入れていくと、結局は「スピリチャル·ブラックマーケット」に迷い込んでいく。そこからの歩みと結末は言わずもがなであろう。


現代の霊性に関する種々の問題点について、昨日はあれこれと考えていた。上述のフェティシズムの問題は、ある特定の意識段階や意識状態への固着、さらには拒絶反応(アレルギー反応)の観点から考えてくことができるのと同様に、その他の問題もそうした観点から考察していくことができる。


スピリチャルなものが金融資本主義とどのように癒着しているのかというテーマについても、例えばフーコー、ハーバマス、そしてその他の思想家などを参照にして考えていきたいと思う。現在音読を進めているウィルバーの書籍を参考にして、発達段階ごと及び意識状態ごとの霊性の問題を整理していこう。


そもそもスピリチャルな実践がフリーマーケット的な形で提供されているということにも社会文化的な問題があるだろうし、「スピリチャル·ブラックマーケット」とでも形容できるようなものが温存されていることにも社会文化的な問題があるだろう。そうしたフィールドを起点にして、霊性にまつわる種々の実践が歪められて普及してしまっている。


最たる例は、マインドフルネスの実践だろうか。巷で流行しているマインドフルの実践は、極めて表層的であり、そこには根幹部分の仏教的な思想もなく、その実践に付随する道徳や倫理に関する話題もなく、実践が社会への関与や貢献といった部分と完全に切り離されてしまっている。


また、インテグラル理論でいうところの、シャドー、意識状態、意識段階に関する見取り図がなんらない状態でその実践が普及していることには危機感を持つ。そのようなマインドフルネスの実践は、実践者の方向を惑わせ、狂わせる危険性に満ちているのである。


現代社会で喧伝されているマインドフルネスを何の批判的観点もなしに実践している者たちは、ことごとく既存の社会に「より良く適応した歯車(better adjusted cogs)」に留まる。そこには、真の意味での目覚めも解放もないのである。


さらに調査と探究を進め、このテーマについてはいつか書籍を執筆したいと思うぐらいだ。それぐらいに現代の霊性を取り巻く状況は歪みに歪んでいる。フローニンゲン:2021/3/14(日)08:56


6736. 現代の霊性に関する種々の問題


時刻は午前10時を迎えようとしている。今日はとても穏やかな土曜日だ。


天気予報とは異なり、朝日が燦々と地上に降り注いでいて、世界はとても明るい。ここ最近の気温は再び低くなっているが、こうして朝日を拝めるだけで満足感がある。


現代の霊性に関する問題についてまた考えていた。ウィルバーが指摘するように、現代の主要な宗教は、慣習的ないしは神話的段階に固着してしまっている一方で、その他の実践領域はそれ以外の段階にまで自由に到達できるようになっている。そうした状況の中で、霊性に関する知性の重要性について、ウィルバーは示唆深い指摘をしている。


他の諸々の知性は、相対的な真実を扱うものであるが、霊性に関する知性(スピリチャル·インテリジェンス)は、絶対的な真実を扱うという指摘である。これは極めて重要な指摘であり、ここに霊性に関する知性の重要さを見る。


今まさに自分が霊性に関する探究を再開させ、スピリチャル·インテリジェンスや現代の霊性を取り巻く諸問題に関心を持っているのは、スピリチャル·インテリジェンスが本来他の知性には決して取って代わることのできない極めて重要な性質を持っていることへの気づきがあるだろう。


現代のマインドフルネスの問題に関する続き。エーリッヒ·フロムが指摘するように、個人のストレスや不安は、それを生み出す社会的な根元要因を無視していては十全に理解することも治癒することもできない。


ところが、マインドフルネスの実践者たちは、そうした点に対してあまりに盲目的であり、そうした問題が見えなくなってしまっているような「無感覚症(anesthesia)」を患っているようにさえ見える。


歴史家のラッセル·ジャコビーの洞察を思い出す。ジャコビーが述べるように、問題を生み出す社会的コンテクストや社会構造が温存された状態においては、真の問題から自ずと目を背けさせてしまう「社会的記憶喪失(social amnesia)」状態が生み出され、現代人の多くはその状態に飲み込まれてしまっている。


これも集合的な意識状態の観点から捉えることができる問題だ。マインドフルネスの実践者たちも等しくこうした社会的記憶喪失を患っていて、マインドフルネスによって治癒しようとしている個人的な問題が生み出されている社会的コンテクストや社会構造が見えなくなってしまっている。


Googleを筆頭に、マインドフルネスプログラムを導入する企業について。もしマインドフルネスプログラムを導入した会社の従業員が、必要なシャドーワークもなしに彼らの破壊衝動的なものを絶えずマインドフルに観察せよとだけ指導されたのであれば、ミシェル·フーコーが警鐘を鳴らしていたように、彼らは単なる「調教された純朴な犬」に成り下がる。


そして根元を見ずして抑圧された破壊衝動は、いつか何らかの形で吹き上がる。マインドフスネスの実践とは、そのような目的に活用されるものだったのだろうか。


誤った目的でマインドフルネスを活用する企業の増加に足並みを合わせる形で、虚妄な言語ゲームによる売り込み文句で広がるマインドフルネス関連商品および関連サービスについて視線が向かう。先日言及したように、この関連市場はもはや数千億円規模にのぼるようだ。


霊性に関する発達段階の未熟さと、霊性に関するリテラシーの欠如がそうした市場をどんどんと肥やしていく。そして霊性的に未熟かつ純朴な人間たちが、ますますその市場に取り込まれていく。これは現代における霊性を取り巻く1つの地獄絵図だろう。


本来地獄からの脱却と解放を実現するはずの霊性実践が、いつの間にか地獄を生み出し、地獄を深めている様を見ると、極めて残念な気持ちになる。自分が探究をし、関与していく1つの領域はここにある。フローニンゲン:2021/3/14(日)10:16


6737. 夢を書き出すこと/「マクマインドフルネス」


時刻は午後8時を迎えようとしている。今週もまた静けさと共に終わりに近づいている。


新居で過ごす週末も今週を除けばあと2回ほどだ。明日からの新たな週も、いつものように自己と気持ちを新たに過ごしていこう。


日々夢を書き出すことを行っているが、それは有益なシャドワークとなり、Cleaning Upが進んでいる。そしてその効果は、Growing UpとWaking Upに繋がっている。


より多面的な観点や、より深層的な観点で夢を紐解いていくことができれば、それはShowing Upにも繋がるだろう。ウィルバーが述べる4つの柱は夢を書き出すという実践においても当てはまる。今夜もまだ時間があるので、ウィルバーの書籍の続きを音読し、そこからはマインドフルネスの問題について言及した書籍を読んでいこう。


仏教の本質的な教えを骨抜きにし、誰もが手軽に行えるように単純化されたマインドフルネスの実践は、社会学者のジョージ·リッツアァーが述べた「マクドナルド化」と同じプロセスを辿っている。


マインドフルネスに関するプロダクトの1つとして、マインドフルネス瞑想に関するアプリが存在することを知った。そうしたものが出回ることによって、マインドフルネス瞑想がより手軽に、計測可能に、そして予測やコントロール可能になることによって、標準化されたハンバーガーがどこでも手軽に食べれるのと同じ形になっている。


本日の午後に読み終えた、“McMindfulness: How Mindfulness Became the New Capitalist Spirituality”という書籍のタイトルにあるように、まさにマインドフルネスの実践が「マクマインドフルネス(McMindfulness)」になっている現象を目の当たりにする。


マインドフルネスを取り巻く問題はその他にも数多くあり、米国においてはスナイパーにマインドフルネスのトレーニングが施され、より優秀な殺戮兵士の育成にこの実践が使われていたりもする。ここまでくると、もはや手の施しようのない過ちを犯しているように思えてくる。引き続き、マインドフルネスを取り巻く種々の問題を調査し、問題の本質的な構造を明らかにしていこう。


哲学書や、各宗教における啓典を読んでいると、詩に関するアイデアが自ずと溢れて来るという現象を日々体験している。そうした書籍は間違いなく創作における刺激になっていることもあり、引き続き読書を継続させていく。読書は創作の養分になり、自己の養分になっている。


哲学書や、各宗教における啓典の中には、詩的な文体を持つものがあることに気づく。そしてそれに自然と惹かれている自分がいる。詩的表現を通じてでしか伝えられないものが確実に存在しているようなのだ。


意識の状態について関心を持ってみると、詩人が尋常ではない意識状態の中で詩を生み出したことがわかる時がある。その時の直接体験が詩に体現されていて、それを読むことによって、その直接体験が追体験できるかのようなのだ。それと同じくことを自分でも行っていくことに関心がある。


高次元の意識状態の中で得られた直接体験を詩の形にすること。明日からもそうした点を意識して詩作を行っていく。フローニンゲン:2021/3/14(日)20:11

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