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6704-6708: アートの国オランダからの便り 2021年3月5日(金)


No.1962 交差する光の羽_Crossing Feathers of Light

本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)


No.376, A Front & Rear Face

A front face has its rear face.

A rear face has its front face.

What has both faces?

That’s the essential point for our enlightenment.

Groningen; 06:53, 3/5/2021


No.377, Social Neurons

The society has its neurons.

It can be called “social neurons.”

It seems that social neurons are broken and pathologized, which generate various social issues.

Since our neurons and social ones synchronize with each other,

we need to take action to cure social neurons.

Groningen; 06:58, 3/5/2021


No.378, Developmental Lubricant

We interpret and experience any phenomena through our developmental levels.

Developmental models can unveil the hidden grammar of each developmental level,

and the models can play a role of developmental lubricant or facilitator for us.

Checking and sometimes reconstructing on purpose my experience through developmental models is helpful for my further realization.

Groningen; 09:30, 3/5/2021


No.379, In Tune with the Organic Rhythm of the Universe,

Whenever we are in tune with the organic rhythm of the universe, we can find our true self and can show our full potentiality.

More importantly, we must realize that we are the universe itself.

Groningen; 10:28, 3/5/2021


No.380, Cosmic Silence

Only silence exists.

Even if there are a flood of sounds and noises in our world, what exists beneath the surface is ultimate silence.

The essence of the cosmos is silence.

Can we feel it at this moment now?

Groningen; 10:32, 3/5/2021


No.381, Poetry as Spiritual and Existential Possession

Something takes possession of me.

Then, I make a poem.

Poetry could be spiritual and existential possession.

Groningen; 20:40, 3/5/2021


No.382, Descendence & Ascendence

Words descend from heaven.

They become a poem.

The poem ascends to heaven.

I’m a path of the process.

Groningen; 20:50, 3/5/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた5曲

本日生まれた曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

本日生まれた曲はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

タイトル一覧

6704. 今朝方の夢

6705. 書くことの効能/「統合的記号論」を活用した探究に向けて

6706. 「発達の潤滑油」としての発達モデル

6707. 究極的な静けさとして

6708. 時を刻まぬ時計を眺めながら


6704. 今朝方の夢


時刻は午前6時を迎えた。今の気温はマイナス1度であり、寒さもあって、早朝に換気のために開けていた窓を先ほど閉めた。


再び寒さが戻って来たフローニンゲン。ここからしばらくは、最高気温は7度前後の日が続く。


来週の水曜日からはまた少し小雨が降るような日が続くという予報が出ている。それらはいずれも先のことである。


重要なことは、先のことばかりをあれこれ考えるのではなく、今日という日を生きるということ、そして今を生きるということである。


今日はまだ小鳥たちの鳴き声が聞こえてこない。どうしたのだろうか。普段であれば、もうこの時間には彼らの鳴き声が聞こえているはずなのだが。


今日は気温は低いが天気は良いようなので、午後には街の中心部のオーガニックスーパーに行って、必要なものを買ってこようと思う。


今朝方はいくつか印象に残る夢を見ていた。最初の夢の場面では、私は学校の体育館にいた。雰囲気としては、それは実際に通っていた中学校の体育館だった。いや、その前に、実際に通っていた小学校のグラウンドにいたように思う。


そこで私は、中学校時代のバスケ部のメンバーたちと一緒に、これから始まる部活に向けてのウォーミングアップをしていた。まずはグラウンドの周りをランニングし、そこからストレッチ運動に入ろうとしていた。


私と何人かのメンバーは、本調子ではないために、別メニューでゆっくりと調整をしていた。すると、同じ学年で副キャプテンを務めていた友人がそれに対して不満のようであり、小声で何か文句を言っていた。


私を含めて、別メニューでの調整は好きで行っているわけではなく、仕方なくのことだったので、彼の不満はどこか的外れのように思われた。


仕方なく私は、別メニューでの調整を早々と切り上げて、本メニューに取り組んでいるメンバーたちに合流した。合流直後から紅白戦となり、どういうわけか、紅白戦には他校の選手が混じっていて、私がマッチアップするのは、過去にてこずったことのある選手だった。


そこから私はかなり本気を出して試合に臨み、キャプテンとしての責務を果たし、メンバーは再び私を信頼するようになった。そのような夢の場面があった。


次の夢の場面では、私は殿様になっていた。時代は現代なのだが、格好と扱いが殿様のようであり、城の中の大広間に私はいた。


周りには家臣たちがたくさんいて、どうやらこれから昼食の時間のようだった。興味深いことに、私は殿様なのだが、どういうわけか私には食事は出されず、家臣たちだけに食事が出された。食べ物だけではなく、私には飲み物さえもなかった。


私は家臣たちが楽しげに飲み食いをしている様子を眺めていて、彼らの楽しそうな表情によって、こちらの気分も楽しげなものになって来た。しばらくすると、私も飲み物が欲しくなり、左横にいた家臣に遠慮がちに飲み物をお願いした。


すると、家臣は驚いた表情を浮かべ、「これは失礼いたしました!」と述べた。どうやら彼は、私に食べ物も飲み物も出されていないことをその時に知ったようだった。


私は自分に構わないでくれというような身振りを示し、彼らが引き続き楽しく昼食を摂れるように配慮した。そこで夢の場面が変わった。


最後の夢の場面で私は、ジョン·エフ·ケネディ大学に留学していた時の家のガレージの中にいた。私は歳が15歳ほど離れたアメリカ人のルームメイトと一緒にその家に住んでいて、ガレージには彼の車のアウディがあった。


ルームメイトの彼は綺麗好きなのだが、どういうわけかその日のガレージには物が多く、足の踏み場もないぐらいに散らかっていた。時刻は早朝であり、彼はまだ起床しておらず、私はガレージのシャッターを開けて、外の空気を吸いながら柔軟体操でもしようと思っていた。


すると、お隣さんも同じことを考えていたのか、ガレージの外にいて、目が合ったので挨拶をした。朝の新鮮な空気を吸って、朝日を浴びながら体操を少しばかりすると、私は再びガレージを経由して家の中に戻ろうと思った。


するとどういうわけか、シャッターがうまく閉まらなかった。いつもはボタン一つで自動で上げ下げできるのだが、なぜかちゃんとシャッターが閉まらないのである。


仕方ないので私は、途中まで下がったシャッターを手で最後まで下げることにした。そして私は、足の踏み場もないガレージを、大事なものを踏んで壊さないように慎重に歩いて行った。


ガレージの扉に到着し、扉を開けて中に入ると、リビングのソファでルームメイトがくつろいでテレビを見ていた。いつもよりも随分早い起床だなと思った。


彼はテレビを見ながら笑っていて、挨拶を兼ねて何の番組を見ているのか尋ねると、何やら日本の番組とのことだった。具体的には、子供たちが色々とチャレンジする番組とのことである。


すると突然、私の意識はその番組の中にあり、これからウォータースライダーに挑戦する子供を見守る形で自分の意識があった。その男の子は小学校低学年であり、今から始まる挑戦をとても楽しみにしているようだった。


いざ挑戦が始まると、最初その子は順調にウォータースライダーを滑っていたが、途中から突然浮き輪の外に飛び出してしまい、コースの中で迷子になってしまった。


監視をしている人たちが慌てて彼を探し始めたが、何台もあるモニター画面にも彼の姿は一切映らず、彼はまるで神隠しに会ってしまったかのようだった。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2021/3/5(金)06:33


6705. 書くことの効能/「統合的記号論」を活用した探究に向けて


時刻は午前7時を迎えた。辺りはもう大分明るくなっていて、遠くの空に少しばかり朝焼けが見える。ここのところは日の出の時間が早くなって来ていて、6時半を迎えるあたりから少しずつ明るくなり始めている。


昨日を持って引っ越しの荷造りのほぼ全てを終えた。あとは衣類や小物を少しばかり詰めるだけで良い。今日、そして今週末は引っ越しの準備から離れ、創作活動や探究活動に全ての時間を充てたいと思う。


昨日改めて、書くことの効能を実感していた。引っ越しについて色々と書いていると、諸々の取り組むべきことが明確になり、それらがとても捗ることに気づいたのである。


段ボールに書物をどのように詰めるのか、エクセルを用いて段ボールに詰めた書籍をどのように管理していくのかなどを含め、引っ越しにまつわる作業についてあれこれ書いていると、実際にその作業に取組み出してからの効率が極めて良く、そして次の作業にも速やかに移行できるという効能を実感していた。


やはり書くこと、書き出すことには特殊な力があるようだ。今のこのようにして普段何気なく日記を淡々と綴っていることも、実は書くことの特殊な力の恩恵を受けていることを日々実感する。


書くことによる差異化と統合化の力、書くことによる治癒と変容の力。書くことによって非二元の世界に触れること。書くことには本当に多くの効能が詰まっている。


来週にまた最後の荷造りをする際には、ベッドの下に保管している論文類、衣服を置いているクローゼットの中に保管している論文類を忘れずに取り出し、それらを段ボールに詰めていく。


2つの大きなスーツケース、そして小旅行用の機内持ち込み可能な1つの小さなスーツケースをうまく活用すれば、この間注文した段ボールで間に合うように思う。すなわち、段ボールの合計は30箱で収まりそうだという目処が立っている。


昨日考えていたその他のことについても書き留めておこう。今音読を毎日続けているウィルバーの“The Religion of Tomorrow”の中には、「統合的記号論(integral semiotics)」という興味深い理論·実践体系があり、それを使って特定のテーマについて探究していこうかと考えていた。


とりわけ種々の意識状態の分類に着目をして、様々な霊性詩を分析していく探究の際に統合的記号論を活用していく。その探究そのものは3人称的な試みだが、真の狙いはそこになく、そうした分析を通じて、種々の高度な意識状態を1人称的に体感することが1つの狙いであり、その分析を共有することによって、多くの人たちが詩を読むという行為を通じてそうした高度な意識状態にアクセスすることを実現させていくことがもう1つの狙いである。


楽譜と同様に、詩集の読解には、暗号解読的な楽しみがある。こちらにどれだけ豊富な観点と観点の深さがあるかが試されるのだが、統合的記号論を用いれば、詩集から無限に豊かな意味を汲み取ることができ、高次元の直接体験への扉を開けるきっかけを作ることができるのではないかと思う。楽しみながらその試みに着手していこう。フローニンゲン:2021/3/5(金)07:13


6706. 「発達の潤滑油」としての発達モデル


時刻は午前9時半を迎えた。外の世界は幾分寒いが、それでも今は窓を開け、新鮮な空気を取り入れている。


寒さがあることは確かだが、空には雲1つなく、朝空は晴れ渡っていて清々しい。早朝に聞こえてこなかった小鳥たちの鳴き声が今は聞こえる。


こうした寒い日の朝は、淹れたてのコーヒーがなお一層のこと美味い。この間、街の中心部のオーガニックコーヒー豆専門店で調達した豆のうちの1つを先ほどコーヒーミルで挽き、フレンチプレスで待つことしばらくして、つい今し方一口つけた。


タイプ論的な観点で言えば、私は濃い目の味が好きであり、その店で購入するのはいつもダークタイプのものばかりである。一度店員さんから比較のためにミディアムを勧められたのだが、それは最初に店を訪れたときだけのことであり、そこからはずっとダークタイプの何かしらの豆を選んでいる。


タイプ論の観点は日常の様々な場面で意外と有益であり、ダークタイプという大きな括りだけではなく、栽培方法に関して言えば「オーガニック」、産地に関しては「アフリカ諸国」「中南米」などの括りも採用することができると思う。それらのタイプを組み合わせて豆を選ぶことはいつも楽しみである。


そのようなことを考えながらコーヒーに一口付け、改めて発達モデルの有用性について考えていた。ふと自分は、発達モデルを自身の成長促進のための潤滑油のような形で活用していたことに気づく。


私たちは特定の発達段階のレンズを通じて日々の現象を解釈し、経験する。ウィルバーが述べるように、そのレンズはまさに、「隠れた文法(hidden grammar)」とでも形容できるようなものであり、私たちはそうした隠れた文法構造によって身の回りの現象を見聞きし、解釈し、意味付けをしている。意識するよりも先に、反射的な反応次元でそれは機能するであろうから、なお一層のことその影響力がわかる。


種々の発達モデルを学び始めて10年以上になるが、自分は知らず知らずに、それを通じて絶えず自らの解釈や体験を検証していたように思う。さらに、こうした隠れた文法を学ぶことの有用性は、その文法構造を知ることによって、あえて意図的に解釈や体験を別の文法構造で再解釈·再体験することを可能にするということだ。


言い換えると、今の自分の発達段階よりも高次元の文法構造を知ることによって、その次の段階における解釈や体験を行うようにすることが可能になるということである。もちろんその段階にまだ到達していないのだから、それは擬似的なものであり、文法構造が体現されていないがゆえに、文法構造を通じた外側からの解釈·体験となるが、それでもそうしたことを続けていくことによって、徐々に発達が促進されていくということが起こり得るように思う。


体験上、自分はまさにそのように発達モデルを活用する形で自己の解釈と体験を深めて来たことを感じる。まさに発達モデルが「発達の潤滑油(developmental lubricant)」としての役割を果たしうるというのはそういう意味である。


そのようなことを考えながら、現在音読しているウィルバーの書籍を改めて眺めていると、今の自分はとりわけ熱心に第三層の意識構造の箇所を読んでおり、その記述内容を自身の発達の潤滑油として活用しようとしている意識が芽生えている。


こうした意識が自発的に芽生える時点で、意識の極点には程遠いところにあることがわかるが、そうしたことがわかるようになったこともまた発達モデルを学習していたからである。


第三層の4つの段階において、最初の3つまで、とりわけ最初から2つ目の段階の特性に共鳴するものが自分の中にあることが見えて来ており、ここからしばらくは第三層の意識段階の特性についてより理解を洗練させ、ここ最近の自分の体験や意味構築活動を検証していこうと思う。フローニンゲン:2021/3/5(金)09:48


6707. 究極的な静けさとして


時刻は午前10時半を迎えた。静謐さに満ちた辺りの世界。


この世界は静謐さの大海なのだろか。その中で自分は大海に漂う存在なのか。はたまた大海そのものなのか。


そのようなことを感じながら、先ほど1つ詩を作った。タイトルとしてすぐに“Cosmic Silence”というものが浮かび、コスモスの絶対的静けさに関する詩が生まれた。


静かで静かで静かな日々が続く。内なる静けさ。それを見つけているうちは、それを感じているうちは道半ばである。


なぜか?それはまだ自分が絶対的な静けさと同一化していないからである。


存在が静けさそのものにならねばなるまい。仮にそれが実現したら、もう自分は静けさを探す必要はないのである。なぜならば、自分が静けさに他ならないからである。


究極的な静けさとしての自己。そこに向かって自己が静寂さの道を歩んでいる。


今日はオランダ時間の正午から、「一瞬一生の会」の第4期の説明会がある。それまでまだもう少し時間があるので、ここからは曲の原型モデルの作成に取り掛かろうと思う。


来週の月曜日からオランダはロックダウンが解除され、月曜日にようやく髪を切ってもらえる。


半年に一度の歯科検診も少し前に予約を入れていて、数日前に、歯医者のオフィスが移動になったという連絡があった。住所を確認すると、以前の場所とほとんど変わらないところに移動したことがわかり、今度の検診の日には間違って昔の住所の所に行かないようにしよう。


先ほどふと、テロリストや病理的新興宗教団体の誕生メカニズムを宗教学的な観点から探究していくことも1つの関心事項であることを思った。より具体的には、ある集団内の信念体系の形成過程と、信念体系の歪みの発生と病理化のプロセスとメカニズムについて学んでいきたい。


言うまでもなく、現代社会のいかなる組織にも宗教的な世界観や慣行が見られ、宗教団体が辿る道というのは、いかなる組織も大なり小なり通るものである。この関心事項については、経営学の組織行動論のような形で探究するのではなく、あくまでも宗教学の観点に立脚し、そこにハーバマスのような批判理論の哲学者の思想と関連づけて探究をしていきたいと思う。


以前見つけた書籍の中で、ハーバマスが宗教について取り上げた下記の書籍はそうした探究の支えになるだろう。ハーバマスが執筆した下記の書籍などは有益かもしれない。


·Habermas and Religion

·The Power of Religion in the Public Sphere

·An Awareness of What is Missing: Faith and Reason in a Post-secular Age

·Between Naturalism and Religion: Philosophical Essays


宗教組織における文化の形成過程と諸問題についても射程に入れた探究をすることによって、宗教以外の領域の組織に応用できるような探究をしていこう。フローニンゲン:2021/3/5(金)10:58

6708. 時を刻まぬ時計を眺めながら


時刻は午後7時半に近づこうとしている。今日もまた充実感と共に1日が終わりに向かっている。


今日は午後に街の中心部に買い物に出掛けた。ここ最近は、中央市場が開いている火曜日に街の中心部に行くことが多かったのだが、市場は金曜日にもやっているので、今日はそこでいつものように、オーガニックの野菜や果物が手に入る出店で椎茸を7つほど購入した。


いつも7日分の椎茸をきっちり7つだけ購入する。大きさについてもこだわりがあり、その旨をいつも店の人に伝えている。


今日も自分で選んだ7つの椎茸を手に入れ、満足げに梯子する形でオーガニックスーパーに向かった。そこでは味噌や豆乳など、いつも通りのものを購入した。


ここ最近は再び乳製品を摂取し始めており、寝ている間に腸内環境をさらに整えるために、夜に飲むためのヨーグルトを購入している。Ekoplazaというスーパーには、ルドルフ·シュタイナーによって提唱されたバイオダイナミクス農法で作られた商品がいくつかあり、ヨーグルトもそのうちの1つである。


製品表示は全てオランダ語なのだが、ヨーグルトについては英語とスペリングが非常に似ていて、牛乳と間違うことはない。ただし、バイオダイナミクス 農法で作られたヨーグルトは3種類あって、2種類は牛乳の濃度によってタイプ分類がなされていることがすぐにわかるのだが——lightとwholeの違いはすぐにわかるのだが——、もう1種類が何なのかがよくわかっていない。


そうであれば、濃い目のヨーグルトを選んだ方が安パイのように思えるが、私はいつもその何かわからないものを購入している。ちょうど空いたパックがあるので、後ほどGoogle翻訳を使って、その中身が何かを確かめてみよう。手っ取り早いのは店員に聞くことなのだが、これまではそれを聞かないままにしていた。


明日からは週末を迎える。今の家で過ごせる週末の回数はもうわずかになっている。あと4回ほど週末をこの家で過ごすことができるので、思い残すことのないようにこの家で週末を過ごしていこう。


儀式的にその時間を大切にする。引っ越しもまた儀式的な意味を持たせることができ、それによって意識の状態が変わり、儀式をするのとしないのとでは、今の家との別れの質が異なり、新居に移ってからの生活の質も変わるだろう。


この家で積み重ねて来た5年半の思い出が走馬灯のように蘇る。すっきりとした部屋を今見渡してみると、壁に掛けられた動いていない時計に目が止まった。


時刻は深夜1時10分を指したままの時計。そう、私がこの家にやって来たのは、5年半前の夏の深夜だった。


受け取れるはずの鍵を所定の場所で受け取ることができず、不動産屋のヨスという男性の家に行って、彼がパジャマのまま外に出て来て、彼が鍵の受け渡しに関して粗相があったことを私に誤ったことが懐かしい。


ヨスと一緒に誰もいない不動産屋に行き、そこで鍵をもらって、彼の運転する車で一緒に家に向かった。車中で彼と話したこと、家に到着してから、少しばかり家の説明を受けたこと。今となってはそれがとても懐かしい。


このあたりのエピソードは5年半前の日記に詳細に書き留めていて、それを書き留めていたからこそ、思い出がより色濃いものになっているのだと思う。日記を書くという行為は、思い出の色をより鮮やかなものにしてくれ、人生の色彩もより一層鮮やかかつ豊かなものにしてくれるということがわかる。


そうだった。あの日は家に到着して、少しばかり荷ほどきをして、時計の針が動く音が聞こえ、電池をすぐに抜いたのだった。


私は音に敏感であり、実家の寝室にある目覚まし時計も、いつも帰ってすぐに電池を抜くようにしている。時計の針がチクタクと動く音が、自分の心臓の動きや血脈のリズムに影響を与えているようで嫌なのだ。


腕時計は普段全くしないのだが、腕時計に関しても同じである。今はもうそういう機会はないが、お洒落や身嗜みとして、式典などに参加してアナログの腕時計をしていく際には、針を動かないようにしている。


秒針の動きが自分の身体の血流のリズムを乱すのが嫌なのだ。そうしたこだわりから、部屋の時計も電池を抜き、この5年半、それは同じ時を刻み続けている。


そうなのだ。自分は同じ時の中に居続けていたのである。


それがわかるだろうか。今の自分ならようやくその意味がわかる。


時の流れぬ時の中に、この5年半自分はいたのである。そうだ。いつも絶えず常にそこに居続けていたのである。


永遠の今に居続けていたということ。それがこの5年半の自分の生き様だったのだ。


そうだったのか。自分は絶えず居続けていたのだ。時の流れを超えた時の流れぬ大河の中に居続けていたのだ。


新居での生活。それもまた同じようなものになるだろう。


ここからの生活はもっと先に進む。時の流れを超えた時の流れぬ大河の中からも自分は抜け出ていき、超越的な時間と1つになる。それは宣言する必要など全くなく、そうなることは明々白々の規定された事実である。


直感的覚知。それを持ってすれば、わかってしまうことなのだ。


自己は永遠なる時に還り、そして永遠と化す。さすれば自己は自らが永遠であることを悟り、そこから自己も永遠もないことに気づくだろう。フローニンゲン:2021/3/5(金)19:43

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