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6694-6696: アートの国オランダからの便り 2021年3月2日(火)


No.1946 生命線_A Lifeline

本日の散文詩(prose poetry)& 自由詩(free verse)


No.362, Inner Silence

Inner silence has come.

My soul echoes with it.

I became peace.

Groningen; 06:34, 3/2/2021


No.363, Nothing and Everything

I’m here. Then, I disappear.

I disappear. Then, I’m here.


I’m the existence which is both nothing and everything.

Groningen; 08:24, 3/2/2021

No.364, A Trip & My Origin

Every trip in the world can be a journey to find out the root of my origin.

I realized it intuitively.


What does the next trip uncover the root of my origin.

I look forward to it.

Groningen; 09:17, 3/2/2021


No.365, Yours = Mine

Your journey is my journey.

My journey is your journey.


Yours is mine.

Mine is yours.

Groningen; 13:50, 3/2/2021


No.366, The Space

Be the space where everything is arising moment to moment.

Become the space where everything is changing moment to moment.

It is you. You are it.

Groningen; 13:58, 3/2/2021


下記のアートギャラリーより、本日のその他の作品(4つ:コメント付き)の閲覧·共有·ダウンロードをご自由に行っていただけます。

本日生まれた7曲

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タイトル一覧

6694. 宗教と家/今朝方の夢

6695. 労働のこと・お金のこと

6696. 音読の効能


6694. 宗教と家/今朝方の夢


小鳥たちの澄み渡る鳴き声が辺りに響いている。時計の針は午前5時を指している。辺りの闇と静けさがなんとも言えない瞑想的な雰囲気を発していて、意識の状態も自ずから瞑想的なものになる。


いよいよ今月末から、より瞑想的、より観想的な生活が始まる。現在神学及び宗教学への関心から、いろいろな宗教思想について学んでいるが、その観点で新居を眺めてみると、やはり家というものも宗教的な影響を逃れることはできない。仏壇や神棚がある家は日本ではなんらおかしなことではないが、オランダではそのような家はほぼない。


オランダの家に目を向けてみると、オランダの家は面白い作りになっていて、日本では考えにくいが、通行人が家の中を簡単に覗けてしまう。日本には内と外という暗黙的な意識があるが、オランダ人にはあまりそうした意識はないことが、そうしたオープンさを生み出しているのかもしれない。


オランダに来た当初は、通りの家のとりわけ一階に住む人たちの生活の様子が外から丸見えであることに驚いたが、それにも慣れ、またそれが文化的な要因であることがわかってくると、今となっては至って普通である。そのようなことを考えながら、ごくたまに仏教好きなオランダ人が仏陀の木彫り人形などを窓辺に置いていることがあるが、全体としてはやはりキリスト教的な雰囲気を発している家の作りになっている。


今度の新居は、オーナーのフレディさんが自ら建築したものであり、それはフレディさんの宗教思想が自ずから体現されている。この間見学した感じだと、窓ガラスのデザインはやはりキリスト教的な何かを思わせる。全体としてもやはりキリスト教的な作りではないかと思う。


オランダの家や新居について考えを巡らせていると、今朝方の夢を思い出した。夢の中で私は、外国の高速道路を自転車で走っていた。


周りは全て車であり、私は車と同じ速度で自転車を走らせていたのである。特に頑張って自転車を漕いでいたわけではなく、普段通りの速度が高速を走る自動車と同じだったのだ。


しばらく自転車を走らせていると、前方を走るスポーツカーに追いついた。それは最高速度が時速250kmは優に出るであろうスポーツカーだった。


私は右の車線からその車に近づくと、運転手は全身黒い服を着た若い女性だった。その女性の雰囲気はモデルのようであり、全身黒の服と相まって、格好良く見えた。


すると、私はその女性と心の中で会話をすることが可能になり、少しばかり雑談をした。しばらく話をしていると、高速の分岐点がやって来て、そこでその女性と別れた。


そこからは一般道を走ることになり、しばらく自転車を漕いでいると、私の後をつけてくる2人の男性がいることに気づいた。彼らは私に追いつき、いきなり質問をして来た。


彼らの見た目は若く、私服だったのだが、何やら警官とのことである。私は彼らに滞在許可証の提示を求められ、ちょうど私は滞在許可証の更新手続きをするために今自転車を走らせて移民局に向かっていたことを警官に伝えた。


私は更新前の滞在許可証と、更新のための一連の書類を提示した。すると、1人の警官が、チェックリスト式の書類が1つ足りないと述べた。


私は2年前にも手続きをしていたので、そんなはずはないと述べた。すると、警官たちはその場で話し合い、私の言い分が正しいことを認めた。今朝方はそのような夢を見ていた。


今朝方の夢も解釈の余地が多分にある。高速道路を走る車と同じ速度で自分が何食わぬ顔で自転車を走らせていたことは、今の生活における探究速度や実践速度を表しているかもしれない。


ひょっとすると他者から見たら諸々の探究や実践を高速に進めているように見えながらも、当の本人は自転車をゆっくりと走らせるかのような意識で取り組んでいるという感覚。それは確かにあるかもしれない。これもまた累積的な学習効果·実践効果と時間感覚の変容がもたらしているものだろう。


滞在許可に関する話題は、確かに今年の夏に更新が控えており、もう数ヶ月したら移民局から連絡が来るであろう。その他の細かな事柄については心の中で意味を解釈していこう。フローニンゲン:2021/3/2(火)05:43


6695. 労働のこと・お金のこと


一昨年ぐらいからであろうか、平均すると、1ヶ月に5時間ぐらい働いており、最近それが随分と多く感じてくるようになった。


1日でも1週間でもなく、1ヶ月に金銭報酬が発生するような労働時間は5時間ほどである。それが今多く感じ始めているのだ。


「労働時間」と書いたが、それは“labor”のような強制力を伴うようなものではなく、自分のライフワークの方向性と合致した“work”に近いものであるため、「労働時間」という言葉は適切ではないかもしれない。いずれにせよ、そこから金銭的な報酬が発生していることもあり、あえてそのような表現をした。


極端な話で言えば、理想は金銭的な報酬が発生するような仕事はもうゼロにしてしまっていいように思っている。とは言え、今後も対価としての報酬をいただくような仕事を少しは継続していくだろうが、月に5時間は時間を使い過ぎのように思えなくもない。端的には他にもっとずっとやりたいことがあるのだ。


探究と創作。それらが最も最優先に取り組みたいことであり、有り難いことに探究も創作も、それ自体からは金銭的な報酬が発生しないのだ。


種々の動機付け理論を引き合いに出すまでもなく、自分の場合は、やはり金銭的な報酬とは一切関係なく、自分が真に取り組みたいと思っていることを純粋に取り組んでいるときに自らの生産性が極度に高まることを実感している。


そうしたことを鑑みると、今年からさらに月間の労働時間を減らしていこうかと思っている。今はまだ少しばかり協働プロジェクトが走っているのだが、それらのうちのいくつかは秋を目処に区切りをつけさせてもらってもいいかもしれない。


とても細かい感覚なのだが、協働作業を完全にゼロにしてしまうと生活に張り合いがもたらされないような気がして、理想的には月に2時間から3時間働くという形が今のところ良さそうだ。


1時間のオンラインミーティングを月に2、3回することに留めるような生活である。それであれば自分の探究と創作にも思う存分励むことができ、それでいてそうした短い時間のミーティングを通じて社会に何かしらの還元ができるのではないかと思う。


振り返ってみれば、自分が社会で働くことができないかもしれないと思い始めたのは大学に入学して比較的すぐのことであり、そこからは働かずして現代文明社会で生活を成り立たせていくために、金融と投資を学んだ。実際には大学を卒業して組織に所属したのだが、組織で働くことは自分には無理だと数ヶ月で気づいた。


フローニンゲン大学に所属して研究を始めてみると、人間関係上のしがらみや粘着質が日本よりも圧倒的に少なく、のびのびと働かせてくれるオランダにおいても、自分が組織に所属して働くことは到底無理だとわかった。端的には、企業組織においても、学術機関においても自分の居場所などないことがわかったのである。


ある日、大学のコピー室で論文を印刷していると、ある中堅の女性教授と出会った。私はあるクラスを通じてその教授にお世話になっていたので、そこで立ち話をした。


最近読んだ教授の論文について話題を振ると、その教授は「学科長からもっと論文を書けと言われてしまって···」と少しばかり浮かない顔で述べた。私はその教授はコンスタントに論文を書いているように思ったので、それについて伝えると、「セカンドオーサーではダメなのよ。ファーストオーサーの論文をもっと書けと言われたの」と述べた。


大学に所属していても、企業におけるノルマのようなものがあるのだとその時になって知った。本来論文というのは書けと言われて書くようなものではな決してない。書きたいと思うから書くものである。


そうした形で生み出された研究論文とそうでないものは、質に歴然とした差がある。端的には熱量に違いがあるのだ。


私は幼少期の頃から、人からやれと言われたことは絶対にやらない性向があり、人からの指図に基づいて何かをやることに強い抵抗感を示す。それは自分の中にある何かしらのシャドーと関係していることは明確だが、そのシャドーは絶対に治癒してはならない肯定的なものとして今でも大事に自分の内側に留めている。


自ら率先して行う探究活動や創作活動の根源はそこにあるのだ。そのようなことを考えながら再び労働時間の話に戻ると、他者と協働するとなると、必然的に相手から求められるものが発生する。それは不可避のことであり、むしろお互いに役割分担をして、求め合い、補完し合うことがなければ協働など成り立たないのである。


今自分は改めて、2つの幸運に恵まれていると思っている。1つは、組織で働ける資質を全く持ち合わせていないという幸運。もう1つは、それを理解して金融と投資を学び、資産収入だけで生活が成り立っているという幸運である。


後者に関して言えば、今年は資産がまた大きく動くことになりそうなので、資産運用に関する諸々の作業が必要になるだろう。確かにそこでは少々時間を取られるが、俯瞰的にみれば、投資を通じて経済·金融·国際政治を学ぶことにつながっているし、そもそも自分の投資スタンスとして、意味のない形でカネを回さないこと、つまり社会に何かしらの貢献を果たすためにカネを回すことを大切にした投資を行っていることを考えると、自分にとっては投資もまた1つの大切な学習·実践領域なのだ。


1羽の小鳥が清澄な鳴き声を上げてどこかに飛び立っていった。今日もまた静けさの中にあって、極度に集中した状態で自分の取り組みに従事していく。フローニンゲン:2021/3/2(火)06:20


6696. 音読の効能


時刻は午後7時半を迎えた。昨日出荷された連絡が来た段ボールがまだ届いていない。段ボールの到着は明日になるだろうか。


段ボールが届かなくても今日は午後に、明日に段ボールが届くことを見越して、荷造りに向けた整理をしていた。本棚を整理し、どの段ボールにどのような書籍を詰めていけばいいのかの準備をしたり、部屋の掃除をしたりしていた。


それによって、明日に段ボールが届いたら、スムーズに荷造りができるようにしておいた。明日と明後日に荷造りをすれば、もう引っ越し準備はほぼ完了である。


一昨日より、ウィルバーの800ページ近い大著“Religion of Tomorrow”の3読目を行い始めた。今回は一言一句最初から最後まで音読している。特に、「統合的記号論(integral semiotics)」について理解を深めていき、色々な領域に応用していこうと考えている。


本書を音読し終えたら、ウィルバーのその他の書籍についても改めて音読していこうと考えている。詩集の音読はもちろん今後も継続していくが、今はウィルバーの書籍を音読したい気持ちが高まっている。


そうした内的要求に忠順になり、音読を進めていこう。黙読よりも音読を優先し、読書の時間がさほど取れない日は黙読ではなく音読だけでも行っていく。


ここ最近は詩集を含めて音読を毎日行っていて、それによって音読の効能に関して色々と気づかされることがある。空海は「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」という音読を行って、自身が述べるように途轍もない思考力と記憶力を獲得したことも、あながち伝説的な話ではないように思えてくる。


音読によって、脳の深層的な部位や普段活用していない部位が活性化され、脳の組成や機能が変化して行っていることを実感する。昔から英語の文章の音読を行うことが好きだったのだが、その時の感覚が今でも残っていて、音読による快感を得ている自分がいる。


脳の深層の回路がさらに開けていくのかを検証する意味でも、まるで瞑想実践とでも形容できるような今の音読法を継続していく。今の音読法が瞑想的である所以は、できるだけ高速に音読していくことによって、言語脳の活性化がうまい具合に抑えられ、それによって右脳が活性化され、文字認識ではなく、言語をイメージや感覚を通して捉えていくような体験がなされている点にある。


今夜もまだ時間があるので、さらに続きの箇所の音読をしていこう。フローニンゲン:2021/3/2(火)19:46

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