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6535-6539: アートの国オランダからの便り 2021年1月6日(水)


No.1718 コスモスでの会合_A Meeting in the Cosmos

本日の言葉

Train without bias in all areas. It is crucial always to do this pervasively and wholeheartedly. Atisa


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本日生まれた5曲

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タイトル一覧

6535. 意味の湧出としての至高体験/無為自然的自己と人生

6536. 死に触れ、意味と輝きをもたらす詩

6537. 詩と永遠世界/父と母から受け継いだもの

6538. 今朝方の印象的な夢

6539. 至高体験への扉/ここ最近聴いているポッドキャストについて


6535. 意味の湧出としての至高体験/無為自然的自己と人生


——なぜ君たちは詩を学ばないのか。詩は精神を垂直に立たせ、そうすることで天の秘密を考えさせる——孔子


今朝は午前3時半過ぎに起床し、今、時刻は午前4時を迎えた。起床直後のルーティンを終え、換気のために開けていた寝室と書斎の窓を閉めた。


ここ最近のフローニンゲンはめっきり冷えており、今日は昼過ぎから雪が降るようだ。そして明日と明後日も雪との予報が出ている。


この時期の肌を刺すような寒さはたまらなく好きだ。存在を凝縮させるような寒さ。そうした寒さの後にやって来る新たな自己。毎年小さな変容を遂げていく自己は、自己を取り巻く現在の環境の恩恵を受けている。


至高体験とは、意味の爆発と湧出として体験される。昨日そのようなことを考えながら、絶えず至高体験的状態の中で日々を過ごしていることを改めて認識していた。


日々の取り組みを通じて、自己の意味や人生の意味、そうした意味に加えて、生きることに関する実に様々な意味が湧き上がって来る。それらの意味の泉に浸りながら自己が喜びの中で活動に没頭しているのがわかる。


マルクス主義的発想において、経済構造を司る下部構造が、文化を含めた上部構造を規定する。現代の経済構造が歪なものであることを考えると、それによって規定される下部構造から生まれる表現形式もまた歪なものになってしまうのだろうか。


昨日の夕方に、『亡国のイージス(2005)』という邦画を見た。この作品を見ながら、自分の人生も文化も、様々な人間が生きることを通じて潜り抜けてきた時間の堆積の上に成り立っていることを忘れてはならないということを考えていた。この点については、昨日の早朝に見ていた『FOUJITA(2015)』という映画を通じても考えていたように思う。


この作品の主人公であるパリで活動していた画家の藤田嗣治が、「雨にもいろいろな表情があって見ていて楽しい」というようなことを述べていたのを思い出す。彼は画家であるよりも前に詩人だったのだ。詩人としての心を持っていたのだ。


詩人はこの世界の様々な表情を見ることができて、それを楽しむことができる。孔子の芸術の発達段階モデルにおいて、「人間は詩において興る」と表現しているように、詩を学ぶことは私たちの意識を目覚めさせ、そしてそれを育む。


孔子は、その発達過程の中で人は「天の秘密」を知ると述べた。天の秘密とは、悟り的認識世界の開墾を通じて得られる深い自己洞察·世界洞察のことを指しているのだろう。


詩。詩。そして詩。今日もまた創作活動と映画鑑賞の合間合間に詩集を読む。


これから旅に出かけるときには絶えず詩集を持参する。自己が詩集のそばにいて、詩集がそばにいてくれる生活。


昨夜、アメリカの詩人ロバート·フロストの詩集全集が届いた。フロストが残した有名な詩の一説に「森の分かれ道で、人の通らぬ道を選ぼう。そうすれば全てが変わる」というものがある。


今日もまた森の分かれ道とたくさん出会うだろう。究極的には、その瞬間瞬間が森の分かれ道なのだ。


人生とは、森の分かれ道の集積であったか。いや、森の分かれ道そのものに他ならないと言うべきか。


森の分かれ道の無限連続過程が人生を歩むということであれば、人生というのは森の分かれ道というよりも、森そのものに他ならないのではないだろうか。もっと言ってしまえば、人生即自然なのである。


そして、分かれ道での選択には確かに結果が付きまとうが、その結果についてあれこれ考えるのは矮小な自我がなすことである点を考えてみると、人生の本質は、矮小な自我の選択や意味解釈を超えた無為自然的なものであることがわかる。それは必然的にわかることであり、人生が無為自然的なものであることは必然なのだろう。


今日もまたそうした必然に従って生きる。自己は必然に従う存在であり、自己は必然に他ならない。自己及び人生は、無為自然かつ必然だったのだ。フローニンゲン2021/1/6(水)04:35


6536. 死に触れ、意味と輝きをもたらす詩


溢れる意味とそれぞれの意味が持つ巨大なエネルギーの恩恵を受けて、自己が今日もまた活動をしている。起床から1時間が経ち、時刻は午前4時半を迎えた。


昨夜届いたロバート·フロストの詩集が、書斎の机の上で輝いているように思える。フロストの言葉に固有の輝きがあることを考えてみると、詩集が輝いて見えるというのは当たり前のことなのかもしれない。


むしろそのような輝きを見出せないのであれば、詩など読むべきではなく、死んだ言葉を通じて一生生きることに甘んじればいいのである。逆説的かもしれないが、仮にそうした輝きを今この瞬間見出すことができなかったとしても、少しずつ詩に触れていくことによって、死んだ言葉で構築された監獄からいつか脱出することができ、輝きを見出すことができるかもしれない。


今、「詩に触れる」ということを書いたが、詩に触れることは究極的には「死に触れる」ことなのだろう。かつてミヒャエル·エンデの父のエドガー·エンデは、「夢を見ることは死の準備である」ということを述べていたのを思い出す。夢を見ることは、実は「詩を見る」ことでもあり、それを通じての死の準備なのだろう。


珠玉の言葉で紡ぎ出された、生きることについて洞察の深い詩に触れることは、生の輝きを私たちにもたらしてくれる。言い換えると、それは私たちの生を輝かしてくれると述べることができるかもしれない。


その生の輝きが、死へ放射されるとき、死の本当の意味が見えて来る。そしてその意味は、再び生に対して生きることの意味を照り返す。


詩を読むことが個人の生に輝きをもたらすことであるならば、個人を超えて、この「世」に対しても輝きをもたらしてくれないだろうか。不穏な現代社会は光を求めている。


現代社会の闇を生み出している根源に、歪んだ自然言語の存在を認めざるを得ない。自我にせよ、社会構造にせよ、文化にせよ、それらは自然言語によって強く規定されている。


現代人の認識と行動を規定している言語そのものを緩やかに、そして確かに変容させていくことを通じて、この世界の漸進的な変容を促すことに詩が役割を果たしてくれないだろうか。


詩や詩人を軽んじる愚かな態度がこの現代文明に蔓延していることを考えると、その実現は非常に難しいのかもしれないが、言葉が人間の感情や行動、そして社会の文化や制度の諸々を規定することを考えると、言語空間の質的変容は避けて通れないことなのではないだろうか。


再びフロストの詩集に目が行く。これは600ページほどの詩集なのだが、意外とコンパクトであり、どこにでも携帯できそうだ。


早く詩集を携えて旅に出かけたい。雪が溶け、冬が去ったその後に、また積極的に旅に出かけよう。もう一人旅ではない。旅の友に詩集がいるのだから。


昨夜、就寝前にフィンランドの詩人とオランダの詩人について調べていた。厳密にはその前に、シュルレアリスムの詩人についても調べていた。こちらについては、“Surrealist Poetry: An Anthology”という詩集を購入予定リストに入れ、シュルレアリスムの創始者であるアンドレ·ブルトンの詩集“Poems of Andre Breton: A Bilingual Anthology”も購入予定リストに入れた。


こちらはタイトルにあるように、仏英のバイリンガル形式であり、ブルトンが発したフランス語の生の言葉を聞くことができる。バイリンガル形式の良さは、実際の詩人の生の声を聞けることかと思う。そのような観点で、フィンランド語とオランダ語のバイリンガル形式の詩集を探してみたところ、下記の4冊の詩集を見つけた。これらについては来月に書籍を一括注文する際に購入したい。

·Six Finnish Poets (New Voices from Europe & Beyond)

·Contemporary Finnish Poetry

·100 Dutch-Language Poems - From the Medieval Period to the Present Day Bilingual Edition

·Dutch Poetry in Translation: Kaleidoscope, from Medieval Times to the Present, With Parallel Dutch Text

詩に囲まれ、詩に溢れた生活とは、生きる意味に溢れた生活であり、輝きに満ちた生活であると言えるだろう。今日もまた意味と輝きに満ちた1日を過ごしていく。


そうした日々を積み重ねていくことによって、自己は溢れんばかりの意味と輝きに完全に合一化する。その完全な合致こそ、過去の偉大な思想が述べる人間の完成なるものなのではないかと思う。フローニンゲン2021/1/6(水)04:59


6537. 詩と永遠世界/父と母から受け継いだもの


人の生き様というものは、言語で全て把捉することができないことを考えてみると、人の生き様とは詩そのものに他ならないと言えるのではないかと思えて来る。


詩というのは、言葉で捉え切ることができない物事を、言葉の限界を通り抜けていくことを通じて表現されるものであり、そう考えてみると、人の生き様は究極的な詩なのではないかと思えて来る。


日々私たちは言葉にならないものを抱えながら生きていて、それはまさに詩を通じた生と言えるのではないだろうか。日々を生きるというのは、詩を生きるということだったのだ。


昨日見た『FOUJITA(2015)』という映画の中で、主人公である画家の藤田嗣治は、「意味はいつか物語を超えて受け継がれていくものだ」ということを述べていた。意味、すなわち言葉の伝承と不滅性をそこに見る。


そうであれば、永遠世界に参入する秘訣をここに見出すことができないだろうか。日々を生きることは詩を生きることであり、詩とは言葉の産物なのだ。そして言葉はそれを発した人間から離れても、いやむしろ小さな自己から脱却することを通じて受け継がれていく。


小さな自己から脱却した言葉は、その当人の大きな自己の言葉となり、その言葉が永遠に受け継がれていくことは、自己が永遠世界に生きれる可能性を示しているのではないだろうか。


日々を生きるというのは詩を生きること。詩を生きるというのは、日々を生きること。そしてそうした生は、永遠世界の道の上を辿っていく。今自分はその道の上を歩いていて、同時にそれは今この瞬間の自分が永遠世界の中を生きていることも示している。


オーガニックの大麦若葉と小麦若葉をブレンドしたものにチアシードを加えた飲み物を飲み干した。何をどのタイミングで飲むかに関して一連の流れがあり、ここからしばらくして、ベジブロスに味噌を加えたものを飲む。最近はそこにカレースパイスを振りかけていて、その味とスパイスの効能の恩恵に預かっている。


先ほどふと、以前父が創作していた詩を改めて読みたいと思った。父は写真を愛し、長らく写真を撮り続けている。そして昔は絵も描いていて、今は再び絵を描くか小説を執筆することを考えているようだ。


昨年の秋に実家に滞在していたとき、母が「ライアー(古代ギリシャの竪琴)」という楽器を自分に勧めてくれた。私はこの楽器の音色とコンパクトさに惹かれ、いつかこの楽器を購入し、自分で作った曲を演奏してみたいと思った。


母とリビングでこの楽器について話をしていると、リビングを通りかかった父が話に入ってきて、父もその楽器に興味を示した。その後3人でしばらく話をし、父は自分の部屋に戻った。私も自分の部屋に戻ろうと思ったが、父の部屋を覗いてみようと思い、覗いてみると、父はパソコンの画面と睨めっこしていて、そこにはライアーに関するアマゾンの商品ページが映し出されていた。


先ほどライアーという楽器を初めて知った父が、もうすでにその購入を検討していることが可笑しかった。一方で、自分が面白いと思ったもの、挑戦してみたいと思ったものを今すぐにでも挑戦する精神を父の中に見て、それは自分の中にも脈々と受け継がれているものだと改めて思った。


やりたいことをやらない人生にどのような意味があるのだろう。そうした人生に輝きはない。


結局父はライアーを購入したのだろうか。母は毎日熱心にピアノの練習をしている。ピアノの練習をしている時の母は輝いていて、実に生き生きしている。その輝きは母の日常も光で満たしているかのようだ。


母は新しく購入したピアノと毎日触れ合っているが、父は随分と昔に購入したオカリナにせよ、この間見せてくれたドイツ製のハーモニカにせよ、楽器を持っているものの、それらを演奏している姿を見たことがない、と母と私はよく父を冷やかす。


演奏されない父の楽器の博物館にライアーも加わるのだろうか。それとも父もどこかのタイミングで本格的に演奏に乗り出すのだろうか。


両親にはやりたいことは全てやって欲しいと思う。自分はそうした形で日々を生きていて、日々の一瞬一瞬が輝きに満ちており、それへの感謝の念を持って人生を過ごすことができている。


それを実現させてくれたのは、両親から受け継がれた精神性によるところが大きいだろう。そうであれば、父も母もやりたいことだけをやる日々を過ごすことができるだろうし、それによって人生を最後の瞬間まで謳歌することができると思うのだ。フローニンゲン2021/1/6(水)05:35


6538. 今朝方の印象的な夢


時刻は午前7時半を向けた。つい今し方『孤独のススメ(2013)』というオランダの映画を見た。物語の展開と合わせて、オランダの田園風景の美しや住居の美しさが見事に映し出されていて、想像以上に素晴らしい作品だった。


今朝方書き綴っていた人生の過ごし方に関する点とつながるような作品だった。昨日の朝もずいぶんと日記を書いていたように思うが、今綴っている日記も本日4つ目である。映画を見る前に絵を2枚ほど描き、曲に至ってはすでに3曲作っている。


充実感によって爆発し、充実感の中に溶け出して生きている自分を実感する。連日、コリン·ウィルソンが生前に作った音声講義を聞いているのだが、まさにウィルソンが指摘した意味の横溢が実現された至高体験的生を日々生きていることを実感している。


換気のために開けた窓。窓を開けた腕の動きに喜びが満ち溢れ、背筋に感動的なエネルギーが流れた。


未だ夜が明けぬ真っ暗な世界を眺めながら、開いた窓から冷たい風が流れて来る。その風が頬に伝い、頬が喜びに満ち溢れる。


歓喜に溶け込む自己と、歓喜と化す自己。その瞬間、世界もまた歓喜と化し、自己は世界となる。


そういえば今朝方は印象的な夢をいくつか見ていた。夢の中で私は、学校の教室にいた。それは実際に通っていた中学校の教室のようだった。


そこで部活の顧問の先生が授業をしていて、私は教室の右端の席に座って授業を聞いていた。先生の授業は堅苦しいものではなく、特にその日の授業は雑談がメインのようだった。


そこで先生は、教師としての仕事以外に、モデルの育成と斡旋を行っているという話をしてくれた。先生はまだ20代後半と若かったのだが、すでに120人ほどのモデルを輩出しているそうだった。その中には教え子もいて、1人忘れられない教え子がいたそうだ。


彼女を担任として受け持った時、新学期の最初にクラスの生徒全員に自己紹介をさせたことがあったそうだ。彼女が壇上に立ち、ひとたび自己紹介を始めた時の第一声に、クラス全員が引き込まれたそうだった。


彼女が持っている朗らかな声と表情、そして人々を勇気づけ、心を明るくしてくれるオーラにクラス全員が驚いたとのことである。先生の話に耳を傾けていると、その女子生徒の姿が想像されるかのようだった。


驚いたことに、私の目の前に、ホログラムのようなアルバムが立ち現れ、そのページがめくられていった。その中に彼女の写真があり、先生の言うように、本当に明るい表情をした女の子だったようだ。


アルバムのページが次々とめくられていき、その中に動物がいることに気づいた。どうやら先生は、120人の教え子をモデルとして輩出しただけではなく、動物もモデルとして世に送り出したようだった。


私:「先生、120人の教え子をモデルとして輩出したと言っていましたが、厳密には120人と2匹ですよね?(笑)」


先生:「あぁ、そうだ(笑)。それにしても細かいな」


私は先生に茶々を入れたかったのでそのように述べ、先生を含め、教室全体が笑いに包まれた。そこから私は、笑いだけではなく、少し真面目なことも聞いてみようと思った。


私:「先生は人と動物をこれまで育てる経験を通じて、人と動物の成長プロセスにおける共通点と相違点はどのようなものだと思いますか?これはありきたりな質問かもしれませんが」


先生:「なかなか真面目なことを聞くなぁ。そうだなぁ···」


先生はそこからしばらく考え込み、何か言葉を紡ぎ出そうとしていた。そして出てきた言葉にマクロ経済学の観点が盛り込まれていることに私は驚いた。正直なところ、先生の回答に何の期待もしておらず、そして自分なりの回答にはマクロ経済学の観点、さらには先生が述べた総資本とマルクス主義的な下部構造の観点など入る余地もなかったので、驚きはひとしおだった。


先生の斬新な答えを聞いた瞬間に、その場が合宿所の大広間に変わった。そこで私たち生徒は雑魚寝をするらしかったが、先生はベッドで寝ることになっているらしい。


2つの巨大なベッドが部屋の右隅と中央に置かれていて、私たちはベッドメイキングを手伝った。ベッドメイキングが終わると、夕食の時間となった。


その合宿所は山の中にあり、その山は野生動物が多く出没し、その一帯は狩りが認められている。宿の亭主が狩りの達人のようであり、奥さんはジビエ料理の腕前が抜群との評判だった。


狩猟で獲った野生動物と、その宿が飼育しているウサギが本日の肉料理のメインのようだったが、私は肉料理を食べることはできないので、野菜中心のベジタリアン料理を作ってもらうことにした。


先ほどまで愛らしく動いていたウサギが殺され、それが料理として出て来ることに私は恐ろしさを感じた。また、多くの人がそれをなんとも思わずに食べてしまうことにも強い恐怖と嫌悪感を覚えた。


夕食を摂り終えると、高校時代に一番背が高く、サッカー部に所属していた友人が速やかに就寝に入り、大広間の一番端の布団の中でぐっすり寝ていた。彼の姿を見て、私も早く寝ようと思い、友人を見習って早く就寝しようとみんなに呼びかけると、実は彼はまだ寝ておらず、布団からひょっこり顔を出して笑みを浮かべた。そこで夢の場面が変わった。


次の夢の場面は、日本のようだった。私は、日本のどこかの都市にいて、高速道路の下の道を歩いていた。


すると、かつて塾で教えていた教え子の兄弟がこちらに向かって歩いて来ていることに気づいた。彼らの後ろには、2人の母親がいて、どこか心配そうな表情を浮かべていた。


2人の兄弟はもうすっかり大きくなっていて、大人のように見えた。兄の方は小柄だったのだが、弟の方はずいぶんと背が高く、今や弟の方は相当大きな男になっていた。


2人がこちらに近寄って来ると、どうやら2人が口喧嘩をしていることに気づいた。母親はそれを心配しているらしかった。


いざ2人が私のすぐ近くまでやってきた時に、私は挨拶をしようと思ったが、2人は私の存在に全く気づいておらず、素通りしてしまった。2人は口喧嘩のためそれどころではなく、周りの世界が見えていないようだった。


思わぬ形で素通りされてしまった私は、しばらくその場に佇んで、振り返って2人の後ろ姿を眺めていた。すると突然、時計の針が急速に逆行し、私の目の前に高速道路の真下にある横断歩道が現れた。


厳密には、先ほど通り過ぎた横断歩道の前に再び私は立っていたのだ。すると、前方から2人の兄弟がやってきて、弟は素早く横断歩道を渡ったのだが、弟に罵声を浴びせた兄の方が何かまだブツブツ呟きながら横断歩道を渡っていた。


兄の方は視界が狭く、弟の背中しか見ていないようだった。すると、よそ見をしている運転手が運転する大きなワゴン車が横断歩道に突っ込んできて、兄はワゴン車に轢かれた。


兄は道路に激しく頭をぶつけ、頭から大量に血が流れてきた。その光景を見た時、私は即死だと思った。


後を追っていた母親は泣き叫び、その光景はとても痛ましいものだった。だがなんと、地面に血だらけになって倒れていた兄がすくっと立ち上がり、フラフラしながら横断歩道を引き返し、左の方に向かって歩いて行った。私は彼のふらつく姿をぼんやりと眺めていて、言葉を失ったままその場に立ちすくんでいた。


最後の夢の場面では、私は高校時代を過ごした社宅の自室にいた。その日は休日のようであり、時刻は朝のようだった。


部屋でくつろいでいると、開けっぱなしにしていた部屋の扉から、母方の祖母がひょっこりと顔を覗かせた。どうやら今日は、日本の伝統料理の食べ方に関する筆記試験を私は受けることになっていて、朝食を摂る際に祖母が伝統料理の食べ方に関する確認のレクチャーをしてくれるとのことだった。


私は別にそれは必要ないと思っていたが、せっかくなので祖母のレクチャーを受けることにした。すると、父が私の部屋にやってきて、「まだ支度をしてないのか?」ということを含んだ言葉を投げかけてきた。


父は車で試験会場まで私を連れて行ってくれることになっていて、約束した出発の時間までまだ時間があったが、父は約束した時間の10分前ぐらいからソワソワ動き出す行動特性を持っていることを思い出し、すぐさま支度をする旨を伝えた。そこで夢から覚めた。


意識を今この瞬間に向けてみると、この日記を書き始めて1時間が経っていた。途中、コーヒーを煎れたり、煎れたてのコーヒーを味わっていたこともあるが、まさか1時間も経っていたとは。これから就寝まで、時間なき時間の中で自分の取り組みに没頭していく。フローニンゲン2021/1/6(水)08:29


6539. 至高体験への扉/ここ最近聴いているポッドキャストについて


時刻は午後7時半を迎えた。静かな夜の世界がやってきて、今、その静けさに癒されている。


今日は天気予報の通り、午前11時前ぐらいから雪が降ってきた。そこから断続的に雪が降った。


今は雪は止んでいる。どうやら今夜から明日の朝にかけて雪が降り、いったん雪が止んで、午前中から午後にかけて雪が降るようだ。


今日の取り組みを振り返ってみると、深海に潜っているかのような集中力で1つ1つの活動に取り組んでいたように思う。そこでは意識が外部世界を離れ、内面世界へ深く潜っているような感覚があった。


コリン·ウィルソンが指摘するように、至高体験の状態に入るためには、第一条件として集中することが必要になる。極度な集中状態になればなるほど、至高体験の質が高まっていく。


明日もまたこうした集中状態を心がけていきたい。深くゆったりとした呼吸をすることが集中状態へ導き、至高体験への扉を開く。


ここ最近は写譜をしている最中に、Spotifyを経由して世界のニュースを取り上げたポッドキャストを聴くことが多い。しばらくの間は、“Democracy Now!”という独立系のメディアの番組を聴いていた。


この番組のコンテンツの独立性は定評があり、実際に興味深いコンテンツを毎日提供しているのだが、いかんせん最近はコロナの話やテロに関する話が多く、しかもそれらの実情を生々しく伝えることもあって、気が滅入りそうになってしまうことがある。そうしたことから、もう少し気軽に聴ける“Inside Europe”を最近は聴いている。


“Democracy Now!”はアメリカの番組であり、どうしてもアメリカ目線になりがちであり、取り上げられる話題もアメリカに関することが多いのだが、“Inside Europe”は広くヨーロッパの国々を取り上げている点において面白い。


先ほど聴いていた少し前の配信ニュースの中で、コロナ下で精神を落ち着かせるために絵を描いたり、楽器を演奏したりする人について取り上げられていた。世界的に見て、今人々は精神が滅入ってしまうような状態にあるが、その中で精神を安定させるために、芸術活動に取り組み始めた人も多いのではないかと思う。確かに、自分も絵を描き始めたのはコロナの問題が生じてからであるし、詩集を本格的に読み始めたのも最近になってのことである。


時代が過酷なものになればなるほど、その中から時代の過酷さを乗り越えていく創造的な人間が生まれるというのは過去の歴史においても見受けられる事柄であり、今回のコロナはそれが世界規模での出来事でもあるから、今後この世界の中から時代の過酷さを乗り越えていく創造的な人間が数多く生まれてくるかもしれない。


しかし、今回の出来事の過酷さに打ちのめされてしまう人もいるであろうし、むしろそうした人の方が多数を占めるように思われるため、今回のコロナは色々な意味で人間の自然淘汰をもたらすものなのかもしれない。


最後に、先ほど聴いていた番組の中で、サブリミナルで気分が落ち込まないようにすることへの注意が促されていた。テレビのニュースやSNSなど、私たちの気分を容易に操作し、気持ちを落ち込ませることを可能にするそれらの媒体との付き合い方は一人一人がよく考えるべきかと思う。とりわけ今の世相を鑑みると、それはとても大切な心がけだろう。フローニンゲン2021/1/6(水)20:06

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