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6530-6534: アートの国オランダからの便り 2021年1月5日(火)


No.1711 埋蔵された輝き_Buried Brightness

本日の言葉

I shall purify all my actions performed with the body and the word. I shall also purify my mental activities and I shall do nothing that is not virtuous. Atisa


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本日生まれた5曲

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タイトル一覧

6530. 公務としての日々の活動/詩から得られるもの

6531. 詩とリズム

6532. 日々の歩み/今朝方の夢

6533. 至高体験の中で/今朝方の夢の続き

6534. 日本の春に思いを馳せて/詩的言語/セルフイメージ


6530. 公務としての日々の活動/詩から得られるもの


——何でも好きなことをしたらいい。ただし、それはこの世界に喜びを生むものにしなさい——ウォルター·ホイットマン


時刻は午前5時を迎えた。辺りの静寂さに思わず息を飲む。闇の深さは恍惚感をもたらすほどだ。外の世界は大人しく佇んでいて、何かをこちらに語りかけてくるかのようだ。


昨夜眠りの世界に落ちる前にベッドの上で、「平和」「平穏」「平等」の実現について考えていた。自分の名前には「平」という文字が入っていて、その文字が含まれたそれらの単語が指し示す状態にこの世界がなってくれないだろうかという願いがあった。


「平等」に関して言えば、「公平」という言葉に置き換えた方がいいかもしれないということも考えていた。「公(おおやけ)」という漢字もまた自分の関心を引く何かがある。


ちょうど一昨日に、日々の探究活動も創作活動も公に資する「公務」としての意味合いがあるということについて考えていた。そう、日々の自分の活動は、自分を超えた何かに仕えるため、あるいは捧げるための公的な意味があり、またそうでなければならないという思いがある。


自分の活動を私的空間に閉じ込めるのではなく、絶えず公的空間に接しながらそちらに向かって開いていくこと。それをより意識した取り組みが今後進展していくだろう。


ここ最近はめっきり寒くなった。昨日の段階の天気予報では、今朝は雪が降る予報だったが、今は何も降っていない。


昼前後に雨と雪のマークが付されていて、夕方にはそれが落ち着くようだ。今日は夕方に街の中心部に買い物に出かける予定があった。雨と雪の様子を見て無理に出かける必要はないが、傘を刺さずに済みそうであれば街の中心部に繰り出していこう。


まずは書店に立ち寄り、詩集を求める。数日前と昨日に、合わせて合計で21冊ほど詩集を購入したのだが、それでは全く満ち足りない。過去現在にわたって、この世界には素晴らしい詩人がたくさんいたのである。


いつか日本語でも詩を読みたい。今年は日本に帰らないと決めているので、次回の一時帰国となる再来年の春には、日本語の詩集をたくさん購入する予定だ。それは素晴らしい手土産になり、存在を豊かに肥やしてくれる資産になるだろう。


ここ数日間の間で購入した詩集は、特定の詩人の全集のようなものが多い。ある詩人の詩をできるだけ全て読みたいという思いがあり、バラバラに詩集を購入するのではなく、彼らの作品が時系列的になっていれば、それを通じて彼らの詩的世界観の深まりのプロセスを理解したいという思いもある。


購入した詩集の中で、トーマス·スターンズ·エリオットのものがあり、彼の詩集は全2巻、合計で1700ページほどあった。彼以外の詩集でも1000ページを超えるものがいくつかあり、600ページほどのものも結構あった。


来月にかけてイギリスとオランダの書店から続々と注文した刺繍が届くであろうが、手に取ったときの重さが楽しみだ。それは物理的な重さを超えて、詩集に込められた精神的な重みもそこにあるだろうから。


エリオットの詩作から、保守主義の思想の何たるかを学ぶ。彼は伝統、すなわち古典に立脚した創作方法を採用していて、それは今自分が毎日の作曲実践で大切にしていることと大いに重なる。


実際にエリオットの詩を読むことを通じて、また新しい学びが得られるだろう。このように詩を読むことを通じて、様々な刺激を受けながらたくさんのことを学んでいきたい。


詩の真髄が自分の内側に染み入るように詩集を毎日読んでいく。今書斎の机の上には、詩集と楽譜しかないような状態だ。そして窓の方の机の上には画集が高く積み上がっている。


手元の机の右側に詩集の山があり、左側に楽譜の山がある。その山の向こうのテレビ台には、机に置き切れない楽譜の山が聳え立っている。


それらの山を全て登り切った時、どのような世界が開けているのだろうか。そこでの眺めと感覚が今から楽しみである。フローニンゲン2021/1/5(火)05:34


6531. 詩とリズム


時計の針が気がつかない間に進んでいる。進んだのは時計の針だけなのか。自分の人生もまた少しばかり進んでいたようだ。


いや、そもそも人生というのは進むようなものなのだろうか。仮にそれがただ全体としてそこに在り続けるような類のものであったらどうだろう。


それはただそこにあり、在りながらにして深まっていくものなのだが、それを前進的に進むようなものとして捉えるのではなく、何か別様の捉え方があるのではないかと思う。


人生の捉え方が、その人の人生そのものに影響を与える。人生の捉え方は、日々見える景色を変え、日々の体験の質を変える。


当然人や社会との接し方も変えてくれるだろう。そうなってくると、人生の捉え方というものがいかに大事かが見えてくる。


自分は決して他者や社会が作り上げた幻想的·虚構的な人生観に基づいて生きはしない。それは唾棄とまでは言わずともすぐさま棄却するべきものであり、自分独自の人生観というものを見出し、それを深めていく。


人それぞれに固有の人生があるのだから、そんなことは当たり前なのだ。そうした当たり前を放棄したのが現代人であり、その集合が現代社会なのだ。


詩人のエドガー·アラン·ポーは、「私にとって詩とは、美のリズム的産物である」ということを述べている。少し前にリズムに関する音楽関係の書籍を何冊か集中的に読んでいた。音楽にとって、いや生命にとってリズムはとても大切であり、生命現象はリズムに他ならないと述べてもいいほどだ。


ポーの詩集も昨日購入したのだが、詩集をこれから毎日味わいながら読むことによって、偉大な詩人たちが体得した言葉のリズムを学んでいくことになるだろう。それは言葉のリズムを超えて、彼らの命のリズムに他ならない。いや、彼らの魂のリズムと述べていいかもしれない。


魂のリズムが具現化したものが本当の詩なのだ。自分の魂のリズムに共鳴する詩にどれだけ出会えるだろうか。今後は、世界を旅する中で、滞在先の書店や古書店で詩集を求めるようにする。


これまではもっぱら思想書や芸術書ばかりを旅先で求めていたが、これからはそこに詩集が加わった。旅先で購入し、そこで読む詩集は思い入れの深いものになるだろう。


今日もまた旺盛に映画鑑賞を進めるだけではなく、詩集も旺盛に読んでいく。魂の渇きと飢え。それは魂の成長にとって必要なものであり、とても自然な現象なのだと思う。魂の渇きと飢えを満たす形で日々の取り組みを行っていく。


今のところ自分で詩を作ることは考えていないが、詩集を通じて得られたものは、日々の日記の中や曲の中に何かしらの形となって現れるだろう。とりわけ、言葉のリズムや曲のリズムに影響を与えるはずだ。


命のリズム、魂のリズムとしての詩に触れることによって、自分の内側のリズムに変化が見られないはずはない。仮に変化が見られなければ、それは詩を読んだことにはならない。


詩を読むというのは、自分の魂に滋養をもたらし、内側のリズムを変容させていくことなのだ。そして内的リズムの変容を持って、日々の活動をさらに意味のあるものにしていくことなのだ。そのようなことを思う。フローニンゲン2021/1/5(火)05:51


時計の針が気がつかない間に進んでいる。進んだのは時計の針だけなのか。自分の人生もまた少しばかり進んでいたようだ。


いや、そもそも人生というのは進むようなものなのだろうか。仮にそれがただ全体としてそこに在り続けるような類のものであったらどうだろう。


それはただそこにあり、在りながらにして深まっていくものなのだが、それを前進的に進むようなものとして捉えるのではなく、何か別様の捉え方があるのではないかと思う。


人生の捉え方が、その人の人生そのものに影響を与える。人生の捉え方は、日々見える景色を変え、日々の体験の質を変える。


当然人や社会との接し方も変えてくれるだろう。そうなってくると、人生の捉え方というものがいかに大事かが見えてくる。


自分は決して他者や社会が作り上げた幻想的·虚構的な人生観に基づいて生きはしない。それは唾棄とまでは言わずともすぐさま棄却するべきものであり、自分独自の人生観というものを見出し、それを深めていく。


人それぞれに固有の人生があるのだから、そんなことは当たり前なのだ。そうした当たり前を放棄したのが現代人であり、その集合が現代社会なのだ。


詩人のエドガー·アラン·ポーは、「私にとって詩とは、美のリズム的産物である」ということを述べている。少し前にリズムに関する音楽関係の書籍を何冊か集中的に読んでいた。音楽にとって、いや生命にとってリズムはとても大切であり、生命現象はリズムに他ならないと述べてもいいほどだ。


ポーの詩集も昨日購入したのだが、詩集をこれから毎日味わいながら読むことによって、偉大な詩人たちが体得した言葉のリズムを学んでいくことになるだろう。それは言葉のリズムを超えて、彼らの命のリズムに他ならない。いや、彼らの魂のリズムと述べていいかもしれない。


魂のリズムが具現化したものが本当の詩なのだ。自分の魂のリズムに共鳴する詩にどれだけ出会えるだろうか。今後は、世界を旅する中で、滞在先の書店や古書店で詩集を求めるようにする。


これまではもっぱら思想書や芸術書ばかりを旅先で求めていたが、これからはそこに詩集が加わった。旅先で購入し、そこで読む詩集は思い入れの深いものになるだろう。


今日もまた旺盛に映画鑑賞を進めるだけではなく、詩集も旺盛に読んでいく。魂の渇きと飢え。それは魂の成長にとって必要なものであり、とても自然な現象なのだと思う。魂の渇きと飢えを満たす形で日々の取り組みを行っていく。


今のところ自分で詩を作ることは考えていないが、詩集を通じて得られたものは、日々の日記の中や曲の中に何かしらの形となって現れるだろう。とりわけ、言葉のリズムや曲のリズムに影響を与えるはずだ。


命のリズム、魂のリズムとしての詩に触れることによって、自分の内側のリズムに変化が見られないはずはない。仮に変化が見られなければ、それは詩を読んだことにはならない。


詩を読むというのは、自分の魂に滋養をもたらし、内側のリズムを変容させていくことなのだ。そして内的リズムの変容を持って、日々の活動をさらに意味のあるものにしていくことなのだ。そのようなことを思う。フローニンゲン2021/1/5(火)05:51


6532. 日々の歩み/今朝方の夢


——その一歩一歩を自身が生きた証とせよ——ウォルター·ホイットマン


日々の活動の1つ1つが自分の生きた証となる。この日記1つとってみてもそうだ。また、今から描く1つの絵、そして絵を描いた後に作る1つの曲もまたそうである。


自分が生きた証を残すことが目的なのではなく、証を形として残す過程の中で自己を深めていくこと、そして証を残すことを通じて他者や社会と関わっていくことが大事なのだ。


端的には、自分が生きた証を残すというのは、決して自閉的な行為ではなく、すこぶる外側に開かれたものであり、利他的なものである必要がある。そのようなことを思う。


今朝方はいくつか印象に残る夢を見ていた。外の世界に広がる静けさと闇が、今朝方の夢を思い出させてくれることに一役買っている。


夢の中で私は、小高い砂丘の上にいた。ふと少し遠くの方に目をやると、誰かが蟻地獄のようなものに吸い込まれ、生き埋めになろうとしていた。それを見て、私はすぐさま助けが必要だと思った。


その場に駆けつけた時、ちょうど小中学校時代の友人(KS)もその場に駆けつけ、彼が率先して大きな蟻地獄のような砂の渦の中に腕を突っ込んだ。すると、彼の腕は見る見るうちに飲み込まれていき、これは蟻地獄の中に身体を投げ出す覚悟を持たなければ救出は不可能だとお互いに悟った。


彼は一旦腕を砂の渦から抜き出し、上着を脱いで、深呼吸をした。「今から体ごとこの渦の中に入れるから、何かあったら助けてくれ」と彼は述べた。


彼の勇敢な姿勢には大変感銘を受けた。というのも、私もすぐさま砂の渦に腕を入れようとしたのだが、自分も地中に飲み込まれてしまうと思って躊躇っていたからである。


そこからは、彼の補助役として渦のすぐそばにいて、土を払い退けたり、いざとなったら彼を救出する役割を担うことにした。彼が砂を懸命に払い除けていくと、地中から巨大なミミズが大量に出てきた。それは見たこともないような大きさであり、最初私はギョッとしてしまった。


だが彼はお構いなしでとにかく砂をかき上げていき、最終的には身体を全て渦の中に投げ出して、渦に飲み込まれた人をなんとか地上に引き揚げた。すると、そこに引き揚げられたのは、上半身のスケルトンだけだった。


説明が難しいが、それは物理的な骨ではなく、確かに骨もあるのだが、それが透き通っていて、どちらかというと微細なエネルギー体のようなものがそこにあったと言っていい。身元確認は難しいが、スケルトンの雰囲気から、それが小中学校時代のある友人(TF)だと分かった。


スケルトンの心臓部位を見ると、そこに僅かながら鼓動が見え、彼のエネルギー体はまだ生きているようだった。しかし、彼の意識はなく、そこには心臓が僅かながら動くスケルトンの上半身だけが横たわっていた。


そのような夢を見た後に、気がつくと私は車の中にいた。車からの景色から察するに、そこはどこかのリゾート島のようだった。


海を眺めながら、少々うねった道を車が進んでいた。運転をしていたのは、小中高時代の女性友達(YY)であり、後ろの席にはまた別の友人が座っていた。


どうやら私たちは、今から1週間後ぐらいに学校の定期試験を受ける必要があるようだった。お互いに試験勉強の進み具合について話をしていた。


その中で、運転している友人が、地理の資料集の無味乾燥さに呆れていることを話してくれた。私はそれに同意であり、彼女と同様に、私もテスト勉強が捗らないと愚痴をこぼした。


だがそれでも試験勉強はしようと思って、カバンから教科書を取り出すと、いつの間にか車が海岸に到着した。車から降りると、海風がとても清々しく、塩気を含んだ空気が何とも言えなく美味い。


伸びをして体をほぐし、海風を満喫すると、海と河川の出会い頭の水の溜まり場で泳いでいる人たちの姿が目に入った。近寄ってみると、欧米の一流映画俳優たちがそこで泳いでいた。


彼らは私の存在に気づき、笑顔で手招きをして自分も泳げと要求してきた。それは強制的なものではなく、友好的なものだった。


彼らの中に、そこにいる人たちから「王子」と呼ばれている俳優がいた。彼がなぜ王子と呼ばれているのかはわからないが、随分と昔に何かの映画で王子役を演じたからなのかもしれないと思った。


すると、後ろから私を呼ぶ声がして、振り返ると、小中学校時代の親友(YU)が立っていた。彼は勢いよくこちらに駆けてきて、走りながら服を脱ぎ、水の溜まり場に向かってジャンプした。


水しぶきがその場に上がり、その場にいた全員は大いに笑った。すると、どうやら今から映画の撮影が始まるらしい雰囲気になり、親友と私はその場を去る決心をした。フローニンゲン2021/1/5(火)06:26


6533. 至高体験の中で/今朝方の夢の続き


少しばかり小雨の足音が聞こえたかと思って窓の外を眺めると、そうはどうやら気のせいのようだった。相変わらず漆黒の闇の世界が広がっている。


漆黒の陶器の美しさ。これまでに見た漆黒の陶器の吸い込まれるような美しさが自ずから思い出される。


時刻は午前7時を迎えた。この時点ですでに日記を3つほど執筆し、これが4つ目である。また絵も3枚ほど描き、曲も2曲ほど作った。


日記を執筆し、絵を描き、曲を作るというのはいつもの流れであり、曲を2曲作り終えたら映画鑑賞に入り、そこからは創作活動と映画鑑賞を行ったり来たりするような形で日々を過ごしている。ここ最近はそこに詩集を読むということが入り、日々がさらに充実したものになっている。


映画と詩集が自己の起爆剤になっていることは明らかであり、自己の創作活動と充実さを爆発させている。爆発を通じた自己の溶解と再生がそこにある。それはいつもそこにある。毎日がそれが起こっているのだ。


アブラハム·マズローは「至高体験」を偶然の産物とみなしていて、決して意識的にそれを体験できないと述べていた。だが、マズローの理論を拡張させる形でコリン·ウィルソンは、至高体験を意識的に体験する道筋を示した。


昨夜は料理を作りながら、ウィルソンの肉声が吹き込まれた講義音声を聞いていて、彼の考えを参考に、今日も自らの活動に集中·没入する形で至高体験的に時間の流れと一体化していこうと思う。


今朝は4時半に起床するという決して早くない起床だったが、至高体験的な状態が絶えず続いている今の自分からしてみると、この2時間半の間に随分と活動に取り組んでいたことがわかる。早朝のヨガと瞑想の時間を除けば、まだ2時間しか経っていないのだ。それでも上述のように、すでにいくつもの取り組みを行っている自分がいる。


至高体験的状態の継続は、自己を高みに至らしめる。だからそれは至高体験と呼ばれているのかもしれない。


先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、実はまだ夢には続きがある。それらについても書き留めておこう。それを書き終えてから映画鑑賞に移っていく。


夢の中で私は、どこかの国の移民局にいた。そこはリゾート的な雰囲気があり、南国のどこかのように思えた。


移民局の申請窓口には、仕切りで区切られたブースがあり、そこで申請書に記入することができた。私はすでに申請書は記入済みだったが、ブースに座り、記入漏れがないかをもう一度確かめようと思った。


ブースに座ると、右隣にアメリカ人の女性が、左にアメリカ人の男性が座っていることに気づいた。右隣のアメリカ人の女性はまだ若いが、どうやら子供がいるようだった。若くして母親になったような雰囲気を発していて、すでに離婚しているようなオーラがあった。一方の左隣のアメリカ人の男性は、彼もまた若いのだが、少し神経質のような雰囲気を発していて、ブースに備え付けられたパソコン画面を熱心に見つめ、メールを打っていた。


両隣の人間観察をしていると、入り口でもらった番号札の数字が呼ばれた。申請窓口に向かうと、そこには恰幅の良いアフリカ系の女性がいて、彼女に申請書を手渡した。すると、まだ切手が貼られていないとのことだったので、切手をその場で購入することにした。


その女性は切手を机から取り出し、笑みを浮かべながら切手を貼って、金額を教えてくれた。申請料と切手を合わせて、3.6ドルとのことであり、一瞬その安さに驚いた。


財布を開けると、現金が数セントしかなかったので、カードでの支払いができるか尋ねたところ、銀行のデビットカードであれば大丈夫とのことだった。私は財布から、オランダの銀行が発行しているデビットカードを取り出し、それで支払いを済ませた。


すると、私の左手には、なぜかたくさんの名刺があった。いつの間にか、右隣に座っている女性の名刺も持っていて、彼女はどうやらコーチングを生業にしているようだった。名刺をたくさん持っているのはいいものの、いつかそれも捨てるのだろうと思ったところで夢の場面が変わった。


次の夢の場面では、私はサッカーグラウンドにいて、サッカーの試合に出場していた。その試合の前に、小中高時代の友人(TK)と後輩が所属するチームが、イタリアの名門ACミランと対戦していて、私はその試合を楽しみながら観戦していた。


2人とも名門チーム相手に健闘しており、ちょうど私はミランの関係者と知り合いだったので、2人をミランに売り込むようなことを試合後にそっと伝えた。そのことを2人に話すと、2人は恐縮しながらも喜んでいた。


雨の滴が頬を伝ってきた。空を見上げると、上空は灰色に染まっていて、雨雲から小雨の粒が落ちてきていた。


私は、小雨の粒を顔で受け止めながら、2人の友人が出場していた先ほどの試合を思い出していたのである。ふと我に返ると、まだ試合中であることに気づいた。


再び試合に集中し、そこから数分ほどプレーしたところで突然試合をしているコートではなく、練習コートに瞬間移動した。そこで私は、高校時代のサッカー部の副キャプテンの友人と一緒に練習をしていた。


彼は変化をつけたトレーニングを絶えず意識しているようであり、ボールコントロールの技術に長けた彼も、変化をつけたトレーニングによって、ミスが出るとのことだった。私はそこから彼と一緒に、変化をつけた種々のトレーニングを楽しみながら行った。


トレーニング後、私の中には抑えがたいある思いがあった。以前のチームはボール回しがほとんどできないような技術的にレベルの低いチームだったので、技術的にレベルの高い今のチームで、試合中の流れるようなパス回しに早く参加したいという気持ちで一杯だった。フローニンゲン2021/1/5(火)07:33


6534. 日本の春に思いを馳せて/詩的言語/セルフイメージ


時刻は午後7時半を迎えた。辺りは真っ暗であり、これから気温がどんどん下がっていく。明日は午前中から雪が降るらしい。


今日の午前中に、日本の春に思いを馳せる瞬間があった。日本の春の陽気の麗かさを思い出したのである。


日本の春をもう何年も味わっていない。これまでは年末年始に一時帰国するか、近年は秋に一時帰国していたこともあって、日本の春を最後に経験したのはいつだったろうか。


この10年において、2015年に1年だけ日本に住んでいて、その時に春を味わったきりである。今年は日本に帰ることをせず、次回は再来年の春に日本に帰ろうと思っている。生命力に溢れた日本の春がとても懐かしく、4月に入ってすぐぐらいに帰国すれば一番いい時期だろうか。


今日は街の中心部に買い物に出かけたところ、少しばかり様子が違っていた。道ゆく人たちはマスクはほとんどしていないのだが、店が軒並み閉まっていて、食料品を扱う店ぐらいしか開いていなかった。


そういえば、1/19まで街がロックダウンしていることを思い出したのである。予定では、街の中心部のデパートで新しい掛け布団を購入しようと思っていたので、その店が閉まっていたことは残念だった。ロックダウンが終わる1/19以降にまた出直そう。


デパート以外にも書店が閉まっていて、何か良い詩集はないかを確かめに行こうと思っていたので、それもまた持ち越しである。幸いにも中央市場はやっていたので、そこでオーガニックの椎茸を購入し、その足でオーガニックスーパーに立ち寄って必要なものを購入した。


今日は映画を5本ほど見て、創作活動にも十分に打ち込んでいた。また、詩集も読み進めることができていた。


詩集を読んでいると、言語で記述不可能な知覚世界を言語を通じて詩的に表現していくという道を選んだ詩人たちに共感の念を改めて抱いた。ルーミーは、本質的には言語で表現しきれないトランスパーソナルな世界観を詩的言語を用いて巧みに表現した優れた神秘思想家である。


井筒俊彦先生がかつてルーミーについて書いた文章があることを思い出し、その文章を含めて、手持ちの全集のうち、4巻ほどに詩についての論文が掲載されていて、早速それら4つの全集を引っ張り出してきた。明日以降、ゆっくりとそれらの論文を読み進めていこう。


先ほど夕食を作りながら、コリン·ウィルソンが存命中の音声講義を聞いていた。ウィルソンがその中で、セルフイメージについて言及をしていた。


セルフイメージが私たちの行動や情報の受け取り方を規定していくことはよく知られていることだが、それについて改めて考えを巡らせていた。今の自分のセルフイメージはどのようなものだろうか。そしてそれに紐つく無意識的な行動にはどのようなものがあり、どのような情報と日々接しているのだろうかという内省をしていた。


ここから意図的にセルフイメージを作り替えていくことによって、日々の行動や接する情報の種類や質が変化していくのではないかと思われる。この点についても実験的に色々と試してみよう。フローニンゲン2021/1/5(火)19:53

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