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6336-6338: 日本滞在記 2020年10月18日(日)


No.1498 鞍馬山のエネルギー_The Energy of Mt. Kurama

本日の言葉

The master is immersed in the moment of the life he lives. Zen proverb

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タイトル一覧

6336.【京都滞在記】鞍馬山の訪問に向けて/今朝方の夢の断片/ハイパー·メリトクラシーの到来について

6337.【京都滞在記】フィンランドへ繋がる道/写譜と伊藤若冲/道具的理性の反乱

6338.【京都滞在記】鞍馬山を訪れて


6336.【京都滞在記】鞍馬山の訪問に向けて/今朝方の夢の断片/ハイパー·メリトクラシーの到来について


時刻は午前3時半を迎えた。日本に一時帰国してからは基本的に起床時間は安定しており、大体3時半から4時半の間に起床している。


こうした時間に起床することによって、朝の時間がとても有意義に活用できていて、1日が充実感と共に終わっていく。今日もまたそうした日になるだろう。


今日は、京都随一のパワースポットと呼ばれる鞍馬山に足を運ぶ。朝食を摂るために、午前8時過ぎにレストランに行き、そこでゆっくりと朝食を味わう。


1時間ぐらいかけてゆっくりと朝食を摂ったら自室に戻り、そこでまた少しばかり読書でもしようと思う。昨日購入した3冊の用語集をざっと読み通しておきたい。


鞍馬山に向けての出発は、午前10時前となる。今日は昨日とは異なり、きちんと目的地に辿り着けそうだ。


昨日は、比叡山行きのバスが停まる場所がよくわからなかったが、今日はまず最初に京都駅から電車に乗り、国際会館駅で降りて、そこからバスに乗ればいい。ここのバス停は分かりやすそうなので、今回は問題ないだろう。


高山寺と同様に、鞍馬山でも山の気を分けてもらおうと思う。マルセル·モースの社会発達論の観点を敷衍すれば、エネルギーを贈与してもらったからにはきちんと返礼をしようと思う。


鞍馬山から単にエネルギーを分けてもらうのではなく、こちらの気も返していこう。それによって、鞍馬山のエネルギー体も自己のエネルギー体もさらに相互発達をしていくだろう。


一昨日に、明恵上人ゆかりの高山寺に足を運ぶことによって、夢の世界に何か変化があるかと思ったが、さほど変化がない。今朝方も確かに何かしらの夢を見ていたのだが、それほど覚えていない。


覚えていることがあるとすれば、感覚的に幸福感をもたらすものであったということだ。そして、主要な登場人物としては、見慣れない女性が出ていたことを覚えている。


時代の雰囲気が人の肉体や精神に与える影響について昨日考えていた。エートスというのは確かに時代や社会といった大きなものに備われる集合的意識や慣習を指すのだと思うが、もっと小さな単位で考えることもできるだろう。1つの県や1つの組織など、そうしたところにもエートスがある。


昨日考えていたことの続きとして、境界知能、ソシオパス、サイコパスの人たちがこの社会には一定数存在しているにもかかわらず、彼らの存在を抜きにして、対話力や人間力などの新たな能力を求めようとするハイパー·メリトクラシー(超·能力主義)の時代が到来していることについて考えを巡らせる。


境界知能を持つ人たちにとっては、ハイパー·メリトクラシーは過酷であり、一方でソシオパスやサイコパスの人間は社会が求める能力をうまく高め、社会の中で評価されるポジションを構築していくに違いない。


その結果として、前者の人々は社会が要求する新たな能力を獲得することができずに虐げられ、後者の人間たちは評価され、諸々の格差が拡大していくのではないかと危惧する。社会は今後どのようになっていくのだろうか。京都2020/10/18(日)03:57


6337.【京都滞在記】フィンランドへ繋がる道/写譜と伊藤若冲/道具的理性の反乱


時刻は午前4時半を迎えようとしている。ちょうど今、風呂から上がって来た。やはりシャワーではなく浴槽がある部屋に変えてもらって良かったと思う。


いくらシャワーを浴びても、芯から体を温めることは難しく、リラックス効果も浴槽に浸かる時と随分と異なるため、浴槽に浸かることは自分の日常には欠かせない。


オランダにいる時は、夜にしか浴槽に浸からないが、旅の最中は朝にも浴槽に浸かるようにしている。それによって、血流を良くするだけではなく、心身をゆっくりと目覚めさせ、1日の活動に向けた準備をするようにしている。


幸いにも今日は天気が良いようなので、鞍馬山を巡るにはうってつけだ。朝食を摂るまであと4時間弱あるので、その間は創作活動と読書に取り組みたい。旅をして、日記を執筆し、絵と音楽を作ること。それが自分の日常となり、人生となった。


おそらく本日に鞍馬山を訪れた際にも感じると思うが、先日に高山寺を訪れた際に、山や森の中で暮らすことに対してより一層強い思いを持つようになった。明恵上人のように、山や森の中で暮らすこと。贅沢を言えば、そこに川か湖のようなものもあれば理想である。こうした想いは、フィンランドにつながっている。


昨年神保町の音楽書の専門店である古賀書店で購入した楽譜のうち、フィンランド人の作曲家のセリム·パルムグレン(1878-1951)とレーヴィ·マデトヤ(1887-1947)の楽譜をオランダに持って帰ることにした。


その他にもまだ随分と楽譜が実家に置いてあったのだが、結局彼ら2人の楽譜だけを今回持って帰ることにしたのである。この行動の背後にもまた、フィンランドを求める自分の一端が垣間見える。


一時帰国中はなかなか写譜の実践ができないが、オランダに戻ったら、また旺盛に写譜をしていこう。一昨日に細見美術館を訪れた際に知ったのだが、キャリアの初期において、伊藤若冲も模写を懸命に行っていた。

中国画を1000枚以上模写することによって古典を学んだという話がとても印象に残っている。


若冲は仮に模写をしても、最終的には自分の絵としてそれをものにしてしまう独創性があった。自分もまた模写を通じて、模写の対象を我ものとし、それを超えていくようにしていきたい。


昨日は、理性と現代の方向性について考えていた。何かの目的を達成するためだけに理性を働かせようとする現代の風潮に危険性を見る。それはまさに、ホルクハイマー、アドルノ、ベンヤミン、フロムなどのフランクフルト学派が警鐘を鳴らしていたことである。


端的には、批判理論を提唱する彼らフランクフルト学派は、近代以降のヨーロッパの理性が、何らかの目的を達成するための道具として用いられて来たことが全体主義やナチズムを生んだと分析した。そうした道具的な理性は、視野が狭く、多面的に物事を考えることができず、いとも簡単に経済的·政治的な枠組みに取り込まれてしまう。


現代の理性のありようを見ていると、全体主義やナチズムを生んだ当時とさして変わらないのではないかと思えてくる。その結果として、全体主義やナチズムのようなものをまたしても招いてしまうのではないだろうか。あるいは、それらに変わるより悲惨な主義や運動を招いてしまうことが起こり得るのではないかと思えてくる。


理性のありようを見つめるために理性を働かせることもまた道具的理性がなすことなのだろうか。そうであったとしても、より高次元の観点から理性を見つめることは大切だろう。


また、理性ではなく、感性を通じて理性を見つめ直していくこと、さらには歪んだ理性を治癒していくことが現代では強く求められているに違いない。そうでなければ、道具的理性は高度に発達したテクノロジーと病理的な社会の精神と結託し、暴走してしまうだろう。京都2020/10/18(日)04:38


6338.【京都滞在記】鞍馬山を訪れて


時刻は午後3時半を迎えた。先ほど、鞍馬山の訪問からホテルに戻って来た。


幸いにも今日は天気が良く、鞍馬山を観光するにはうってつけであった。気温は少々肌寒いぐらいであり、鞍馬山を歩くのにはそのぐらいの気温がちょうど良かった。


京都駅から鞍馬山までは思っていた以上に近く、移動で疲れることはなかった。その分、鞍馬山を歩いて回ることができたように思う。


端的には、先日訪れた高山寺同様に、鞍馬山のエネルギーを思う存分に味わうことができた。鞍馬駅でバスを降り、そこから仁王門に向かった。門内へ一歩踏み込むと、そこはもう鞍馬山の浄域であり、聖なる感覚が身を包んだ。


そこからは歩いて本殿を目指した。本殿にはかの有名な六芒星のパワースポットがあり、そこでしばし佇んで、自己を超えた世界に対して想いを寄せていた。


本殿の中で、鞍馬山に関する小冊子ほどのガイドブックを購入した。そこには霊性学的な観点で大変興味深いことがいくつも書かれており、ぜひ手元に置いておきたいと思ったのである。


このガイドブックに記載されていたことにはついては追々日記の中で言及していくことになるだろう。本殿を後にすると、そこからは霊宝殿、魔王殿を通って行き、貴船神社を終着地点とした。


鞍馬山を登山する最中は、気がとても落ち着いていて、尚且つ気が自分の内側に充満している感覚があった。明日からは2日間ほど東京に滞在し、明後日には対談講演会があるが、神聖なエネルギーに身を纏って対談に臨めるだろう。


今日はこれから返信が必要なメールに返信し、読書をしてから夕食を摂る。夕食後には、1件ほどオンラインミーティングがある。


そう言えば、以前、明恵上人のことを中国の高僧と述べていたが、今回明恵上人ゆかりの高山寺を訪れ、その後色々と調べていると、明恵上人は和歌山県出身の日本人であることを知った。明恵上人が中国の高僧だと思っていたのは一体何の誤解だったのだろうか。


昨日ふと、自分はアメリカの社会学者ロバート·パークがいうところのマージナルマン(辺境人)の性質を持っていると思った。マージナルマンとは、どこの文化圏にも属すことなく、一貫したアイデンティティを持たない者を指す。彼らは文化的なアイデンティの確立に困難を覚えるが、様々な文化の辺境に位置している分、多様な文化を客体化することができ、時に創造的な事をなしうる。


今回一時帰国をしている最中において、継続的にマージナルマンの感覚が自分を包んでいる。そうした中で、職業を旅人とするのは少し難しいかもしれないということをふと思った。


現在旅を続けているが、旅の最中においては、どうしても創作活動や読書が疎かになってしまう。旅から得られる刺激や感覚は貴重であるが、旅をずっと行うことは自分にとって好ましくない。


旅は程々にして、探究活動と創作活動という自分の天職に集中していこうという思いを新たにする。京都2020/10/18(日)15:44

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