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6152-6155: アートの国オランダからの便り 2020年8月25日(火)


No.1273 初秋の朝の息遣い_Breathing of Early Autumn Morning

本日の言葉

Pride, arrogance: wretched defences. By suppressing them, you suppress the distance that separates you from others. Dugpa Rimpoce

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本日生まれた10曲

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タイトル一覧

6152. 哲学的アンダーレイバリング/正と負

6153. 今朝方の夢

6154. 愛着と温かみのある時間

6155. 共有責任/パルテノン神殿/オランダのコロナの感染状況

6152. 哲学的アンダーレイバリング/正と負

時刻は午前6時を迎えようとしている。今、空がダークブルーに変わり始めていて、1日の始まりを静かに伝えている。

ここ最近はめっきり寒くなり、日の出の時間も随分と遅くなった。今朝は曇りのようであるから、尚更暗さを感じる。

今日は正午より雨が降り、どうやらそこから夜にかけてだけではなく、明日も含めてずっと雨が降るようだ。特に明日は、強風の伴う雨が降るとのことなので、明日は1日中自宅にいることになるだろう。今日は昼前に、雨が降る前に近所のスーパーに行き、必要なものを購入しておこうと思う。

昨日に引き続き、ロイ·バスカーの批判的実在論について少しばかり考えている。「批判的実在論」の中の「批判」というのは、このリアリティにおいてまだ見えていないものがなんなのかを批判的に検証する精神や、原因分析をする際には、今目に見えている原因が果たして本当の原因なのだろうかといったことを考察する批判的精神を意味する。また、この世界においてまだ存在していないもの、つまり不在のものを在らしめるにはどうすればいいのかを批判的に検討していく精神も含まれる。

批判的実在論のもう1つの特徴としては、「哲学的アンダーレイバリング(philosophical underlabouring)」というものがある。これは、社会科学を含めた科学において、そこに横たわるガラクタのような思想的枠組み(誤った認識)を取り除き、科学的探究がより健全なものになり、科学的発見事項の解釈がより健全なものになっていくことを志向するものだ。

より正確には、科学がより健全な発達を遂げ、社会の幸福の実現につながっていくことを志向しているのが哲学的アンダーレイバリングと呼ばれるものだ。

アマゾンからの連絡によれば、一昨日に注文した書籍が本日から届き始める。そういえば、今回の一括注文において、スロヴェニアの哲学者のスラヴォイ·ジジェクの書籍は注文しなかった。

先日アテネに訪れた時に、街の大型書店に足を運び、そこでジジェクの書籍を何冊か見かけたが、あまり響くものがなかったので、今回は注文を控えた。その時手にしなかった書籍に関しては面白いものもあるかと思うので、ジジェクの書籍を検討するのはまた今度にしたい。

ジジェクの洞察とバスカーの洞察には重なるものがある。例えばジジェクは、私たちの主体は、実在の正の場を正の実体として認識する傾向があるが、実はそこには絶えず「負(不在のもの)」が内在していて、その負が正を補足しているという点を見落としてしまう傾向にあると述べている。

人との相互作用、社会との相互作用を含め、その中にも絶えず負が介在しているのだが、私たちはそこにあるもの、つまり正の実体だけを実体だと認識してしまう。私たちの全ての活動には負が介在していて、正としての実体は負によって支えられているということを見抜いたことはジジェクの洞察の面白さである。

この世界にまだ実在していないものとしての負が絶えず存在していて、それは実体を見えないところで下支えしているということ。また、不在のものを不在化を通じて実体として顕現させることは、負のものを代理させる形でこの世界に在らしめる行為だと言えるかもしれない。

すなわち、今こうして日記を書いていることや、これから行う早朝の絵画の創作と曲の創作は全て、不在という負で満ちた世界から負の代理としての正を形にしていく行為だと言えるかもしれない。そのようなことを考えながら、本日の創作活動に従事したいと思う。フローニンゲン:2020/8/25(火)06:20

6153. 今朝方の夢

時刻は午前6時半を迎えようとしている。今、ようやく辺りが明るくなった。今日もまた、自分の取り組みをゆっくりと前に進めていこう。

それでは今朝方の夢について振り返りをしておきたい。夢の中で私は、男女共同で使用するシャワールームにいた。そこはジムにあるようなシャワールームであり、すでに2人の男性がシャワーを使っていた。

彼らのうちの1人がシャワーを使い終えた後に、私はシャワーを使うことにした。しばらくシャワーを浴び、シャワールームから出ようとした時に、見知らぬ女性がやってきて、その女性としばらくそこで立ち話をすることになった。するとそこからは、続々と男女がシャワールームにやってきた。そこで夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、私はある著名な投資家の自宅にいた。厳密には、その投資家の方と一緒に、自宅にあるプールで遊んでいた。

私以外にも何人かの若手投資家が招待されていて、私たちは投資の話など一切することなく、プールで子供のように遊んでいた。そのプールは海のように広く、ある若手投資家が、その著名な投資家が所有するジェットスキーのような乗り物を使って、アクロバティックなパフォーマンスを披露し始めた。

一堂、そのパフォーマンスに感銘を受けたのだが、その若手投資家は少し調子に乗って、最後に空に向かって思いっきりジャンプをし、水面から数メートルほどの高さに到達し、そこからそのまま水面に落下した。すると、ジェットスキーの板の部分が破損してしまい、著名な投資家は呆れた表情を見せながらも、笑っていた。

ジェットスキーを破損させた若手投資家に対してその投資家の方は、冗談交じりで、弁償代を1万円ほど請求した。私はそれを聞いた時、思わずその金額の少なさに笑ってしまった。その投資家も若手投資家も笑っていたが、若手投資家はちゃんと1万円を払った。

すると、私の体はいつの間にか、実際に通っていた中学校にあった。靴箱で靴を取り、自宅に戻ろうとしている最中だった。

靴箱から歩き始めてすぐに、見知らぬ女性に声をかけられた。どうやらその女性も投資家のようだった。しかし、投資については初心者のようであり、投資手法を教えて欲しいと私にお願いをしてきた。

その女性はまだ若く、カネの亡者のような目をしていて薄気味悪かった。そこで私はその女性を相手にせず、空を飛んで逃げることにした。

しかしその女性はバネのようなジャンプ力を使って、私の身体に触れてこようとした。それがさらに気持ち悪かったので、私は高度を上げてなんとか振り切って逃げようとした。

自宅のマンションに到着し、そこは何重にもセキュリティーがあるので安心かと思ったが、気が気ではなかった。そのマンションには投資で成功した友人が住んでいて、彼のところに立ち寄ってから自宅に戻ろうと思った。

彼の自宅のベルを鳴らし、部屋に入れてもらったところで、ストーカーのような先ほどの女性について話をし、彼に注意を促した。今朝方はそのような夢を見ていた。

実際のところは、覚えていた最初の夢の場面の前にも別の夢があったように記憶している。また途中にも別の場面が挿入されていたように思う。それらはスリル感と喜びの感覚を引き起こす場面だったことだけは覚えている。フローニンゲン:2020/8/25(火)06:44

6154. 愛着と温かみのある時間

——芸術が始まる時、言葉が沈黙の国を過ぎてゆく——辻邦生

時刻は午前10時を迎えた。日記を書く際に、自分はよくその瞬間の時刻に言及している。それは何も、外側の客観的な時間を確認するためだけではなく、その内側にある自分固有の時間に気づくためでもある。何よりも後者の方が自分にとって大事なのだ。

物への執着はあれど、愛着を喪失した現代人。元々私たち日本人は、稲を刈り取る行為と結び付ける形で「ハカ(計·量)」という言葉を生み出した。すなわち、時間を計測する際には、稲の愛着の感情が根底にあったはずなのだ。

それが今となってはどうだろう。時間の計測において、時間を感じることの中に何かしらの愛着はあるだろうか。

物への執着はあれど愛着のない現代人は、時間をこの現実世界と離れた抽象的な産物としてしか認識できなくなっているのかもしれない。端的には、物を物としか認識できないほどに想像力が枯渇し、人と同じように物を愛するような気持ちを失い、愛するという行為を通じて時の肉感を感じることができなくなってしまっているのだ。

日記の冒頭でよく時間について言及するのは、時の肉感を感じるためなのかしれない。そして、その肉感のある時の背後にある何らかの愛着の感情を大切にしようとしていることの現れなのかもしれない。

音楽が時間芸術という側面を持っていることから、失われた温かみのある時間感覚を取り戻すような曲が作れないかと考える。

本当の安らぎは、機械的な均質的時間の中にはない。真の安らぎは、肉感のある温かみのある固有の時間の中に寛いだ時に得られるものなのだ。

一昨日に書籍を50冊ほど注文したのだが、本日、文学批評家のエドワード·サイードが音楽に関する興味深い書籍を数冊ほど出版していることを知った。また彼と交友関係のあったアルゼンチン人のピアニスト·指揮者のダニエル·バレンボイムも音楽の力に関するいくつか興味深い書籍を出しており、近日中にそれらを購入しようと思う。

そのような文献調査を進めながら、芸術作品を鑑賞する時には、ことさら創造的参加をするという意識を持ということを改めて思った。絵画や音楽を鑑賞する際のみならず、楽譜を読む時にもそうした意識を持つ。

芸術への創造的参加を通じて、豊かな人間感覚を取り戻しながらにして育み、社会変革の道を模索していく。すなわち、芸術への創造的参加を人間の非人間化(dehumanization)に対抗する形で営む人間性回復実践として行っていく。そのようなことを先ほど考えていた。フローニンゲン:2020/8/25(火)10:16

6155. 共有責任/パルテノン神殿/オランダのコロナの感染状況

時刻は午後7時を迎えた。先ほど夕食を摂っている最中に、部屋の呼び鈴がなり、注文していた書籍を受け取った。先日注文した50冊のうちの数冊が届けられた。また後ほど開封しよう。

天気予報の通り、今日は夕方から雨が降り始めた。明日は1日中雨が降るようだ。

今日の気温は低く、午前中一杯は長ズボンを履いていた。明日以降もずっと同じぐらいの気温であるため、朝は長ズボンを履く必要がありそうだ。もうすっかり秋である。

人生を通じて、絵画と音楽の創作プロジェクトを進めていくこと。それは1つの大きなプロジェクトであり、決して終わりはない。

日常の様々な事柄や体験を題材に、ただひたすらに創作活動を続けていくこと。それを大切にしたい。

また、日々の生活を通じて見たことを見たと言い、感じたことを感じたと言うこと。そのシンプルなアクションが大切だ。なぜなら、それを見たのは自分だけかもしれないし、それを感じたのは自分だけかもしれないのだから。このリアリティの一端を見たのは自分だけかもしれず、それを感じたのは自分だけかもしれないのだ。

コスモスの多様性。多様なコスモスの一端を見た幸運、感じた幸運に出会えたのなら、その幸運を他者に分かち合う必要があるのだ。

見たこと、感じたことを形にして伝える共有責任が創作活動に従事する者にはあるように思える。全ての人が何らかの形で創作人なのであるから、共有責任とは全ての人に平等に備わっている普遍的責任なのだ。

午後にふと気づいたのだが、アテネのホテルから見えていたのは、確かにパルテノン神殿だったということだ。私の知識があやふやだったため、ホテルのレストランのテラス席から最初にその建造物が見えた時、パルテノン神殿だと思った。しかし、それは丘の上にあったから、あれはアクロポリスの丘の何か別の建物かもしれないと数日後に思ったのだ。

しかし本日ふと、アクロポリスの丘にあるのがパルテノン神殿だということを今更ながら気づき、思わず笑ってしまった。ホテルの朝食の時に、レストランのテラス席から毎朝見ていたのはやっぱりパルテノン神殿だったのだ。それを思うと、あの朝の時間がまた貴重な時間だったことに気づく。

その他にも本日初めて知ったこととして、オランダ12州のうち、コロナの感染者数はフローニンゲン州が1番少なかったようだ(370人:現在時点)。フローニンゲン州よりも人口密度の低い州はたくさんあることを考えると、フローニンゲン州の対応が功を奏したのかもしれない。

感染者数だけで見れば、フローニンゲンの感染者数は群馬県の感染者数(384人)と同じぐらいだ。一方、オランダで一番感染者数が多かった州は、ロッテルダム、ハーグ、ライデンから成るゾイトホラント州であり、その数は12,189人ほどである。日本で言えば、1番感染が多かい東京都(19,428人)と2番目に感染が多い大阪府(7,901人)の中間ぐらいの人数だ。

人口密度の観点で言えば、ゾイトホラント州の感染率は東京や大阪よりも高かったのだろう。そうした調べ物をしながら、この秋の一時帰国について思った。

今のところ、9月から関空も欧州からのフライトを受け入れるようなので、何とか一時帰国できそうだ。もちろん、方針の変更などがあるような先の見えない世の中なのでまだ何とも言えないかもしれないが、とりあえず現時点においては今年の秋に日本に一時帰国できそうである。フローニンゲン:2020/8/25(火)19:24

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