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6042-6045: アテネからの便り 2020年7月24日(金)


No.1054 エーゲ海の風_A Wind of the Aegean Sea

本日の言葉

Generous love aims to achieve happiness through the realisation of the other. Ole Nydahl

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本日生まれた5曲

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タイトル一覧

6042.【アテネ旅行記】Go Toキャンペーンに見る国家のシャドー

6043.【アテネ旅行記】教育の抜本的見直しとシャドーに対する感性と理解の涵養の重要性

6044.【アテネ旅行記】日本への深層的な次元での精神的接近と本日のアテネ観光の計画

6045.【アテネ旅行記】アテネ国立考古学博物館を訪れて

6042.【アテネ旅行記】Go Toキャンペーンに見る国家のシャドー

時刻は午前4時を迎えた。昨日アテネに到着し、今日からアテネ滞在の2日目が始まり、本格的に観光をするのは本日からである。

今、アテネ時間で4時ということは、フローニンゲン時間で3時ということになる。一応昨夜からアテネ時間に合わせて、いつもと同じように午後10時前に就寝をした。

一度3時前に目が覚め、そこから再度睡眠を取ろうと思ったのだが、うまく寝付くことができなかった。というのも、あるテーマについて突如として考え出す自分がいたからである。

アテネ旅行の前日に、協働者の方の後援で対談講演会をさせていただいた。そのときに協働者の方が、「加藤さんはご存知ないかもしれませんが、日本ではGo Toキャンペーンについて今問題になっているんですよ」と述べた。

そのキャンペーンについては名前だけ耳にしたことがあったので、その内容について簡単に聞き、その場においてはそのような問題があるのかと思った程度だった。それがなぜか、つい数時間前にベッドの上でその問題について考えている自分がいた。

協働者の方からGo Toキャンペーンについて説明を受けたのは数十秒ほどであり、そこから何か自分で調べたわけでは決してないのだが、「またしても国はそうした問題解決策を打つことにしたのか」という言葉が自ずから漏れた。

そのキャンペーンは国内の観光需要を喚起させることが目的とのことだったが、その根幹には経済を刺激し、経済を立て直すという目的があるように思える。確かに、今回のコロナで国として経済的な打撃を受けたことは間違いないだろうし、現代国家の運営上、経済は重要な要素なのだが、1つの問題は「経済だけが国の運営で重要だ」という発想に陥っていないかということである。

これは集合規模でのシャドーなのかもしれない。国の運営上、経済というのは重要な要素の1つなのだが、決してそれだけが重要なのではない。

先日の対談講演会でも話題に挙がった「真善美」の観点で言えば、経済というのも当然ながら真善美の観点で考えていくべきものなのだが、それを真の領域だけを通じて、しかもそれがいまだ合理性段階の発想を通じて扱われている点にも大きな問題意識を持つ。

そこから考えていたのは、確かに経済が本当に危機的な状況になっていて、それに対して緊急の措置を施す必要がある場合には、経済だけに焦点を絞って手を打つことは自然であり、むしろそれが喫緊の課題であればあるほどに、それをする必要がある。例えば、目の前で火事が起こっているのであれば、一刻も早く家事を消すことが先決である。

しかしながら問題は、火事を消して終わりにするのではなく、そもそも火事がいかなる発想と行動から生み出されたのかを改めて検証することが重要なのではないだろうか。今回のコロナの件で言えば、コロナが要因になって経済が打撃を受けたという構図が見えるが、重要なことは単なる要因分析ではない。

「そもそも経済一辺倒の発想で運営していた国家のあり方がおかしかったのではないか?」というような、大前提を問うような考え方が重要だと思うのだが、そうした考え方はGo Toキャンペーンの背後にあったのだろうか?

「コロナによって観光需要が打撃を受けました。だから観光需要を増加させるための打ち手を打ちました」だけで発想が終わってしまっているのであれば、「ニキビができました。だからクレアラシルを塗りました」程度の次元の発想なのではないかと思う。学習理論の観点で言えば、こうした発想はシングルループラーニングの問題解決姿勢だと言えるだろう。

そこでは目の前に起こった現象にしか着目せず、その現象に対して打ち手を打つことはするものの、そもそもその現象がいかなる複合的な要因で生じたのかに対する考察はほとんどなされず、また打ち手の背景にある自身の発想の枠組みや前提を問うようなあり方はない。

複雑な要因を分析していく前者の姿勢も当然ながら重要なのだが、とりわけ後者が重要であり、それができるかどうかがダブルループラーニングの鍵を握る。協働者の方の説明を聞いている限りだと、今回のGo Toキャンペーンというのは、シングルループラーニングの発想で生み出された施策のようにしか思えなかった。

そこからさらに考えていたことは、おそらくこうした問題解決の姿勢というのは、何も今回のコロナの件だけで見られたものではなく、国家規模で以前から慢性的に見られていたものなのではないかということである。さらには、上記で述べたように、依然として金銭にばかり着目してしまう発想のあり方が個人や社会全体に見られ、それは個人と社会の双方の根深いシャドーなのではないかということについても考えていた。

おそらく、この根深いシャドーに個人と社会の双方が光を当てていかなければ、個人も社会も何も変わらないのではないかと思う。とりわけ、社会の変容において、社会のシャドーを浮き彫りにし、社会全体としてそれに真摯に向き合っていくことが不可欠なのだが、依然としてシャドーは隠蔽されたままである。

この点に対する具体的な関与の方法について模索を続けている自分がいる。今少しばかりその道が見えて来ており、その道を歩むことが1つ自分に課せられた重要な役割なのだろう。アテネ:2020/7/24(金)04:48

6043.【アテネ旅行記】教育の抜本的見直しとシャドーに対する感性と理解の涵養の

重要性

時刻は午前5時を迎えようとしている。アテネに到着してこれからアテネの滞在を満喫しようと思っていた矢先に、なぜGo Toキャンペーンについて考えていたのか不思議になる。きっとそこには、日本人としての自意識と母国を思う気持ちがあったからなのだろうか。

母国を思う気持ちが強いほど、やはり今の母国の現状には危惧をする。仮にコロナの1件だけではなく、今後国家として諸々の自然災害や他国の侵略的行為によって、国家的な危機に瀕したとしても、私は大して日本は変わらないのではないかという問題意識を持っている。

そうした危機に瀕したとき、おそらく国が取るであろう方針は、依然として物質経済的な次元のものしかないのではないかということに大きな憂いを持つ。そうした方針によって、再び一時期的に経済的な状況が改善されたとしても、本当に豊かな国の実現が果たされるのだろうか。

物質経済的な施策の重要性は言うまでもないが、物質経済的な形で全てをなんとかしようとする発想に限界があることに気づく必要があり、そして重要なことは、そもそもなぜそのような発想が生まれているのかという根本的な原因ないしは前提を問うことが本当に求められているように思う。

それを他人任せにすることはできず、それは国全体として考えるべき問題であり、同時に個人1人1人が考えるべき問題ではないだろうか。個人や社会の隠れた発想の前提を問う思考というのは、成人発達理論やインテグラル理論の観点で言えば、「後慣習的段階」の思考形態であり、そうした思考を育んでいくことは本当に大切だと思う。

その観点において、教育哲学者のザカリー·スタインが指摘しているように、子供と成人の双方の教育の抜本的な見直しは不可欠かと思う。スタインはまさに、現代社会の問題の根元に教育の失敗を見ている。

とりわけエリート教育の失敗、言い換えれば、国家を主導していくエリート層の教育が失敗に終わっていることを指摘している。確かに、金融危機を引き起こした要因を作り出したのは、ウォール街にいるアイビーリーグ出身のエリート層が主であったし、米国において戦争を主導しているのもそうした大学出身のエリート層である。

我が国においても、政治経済的な問題の根源を生み出しているのは、難関大学と呼ばれる大学を卒業したエリート層かと思われる。そうした観点において、真に国を導き、国を豊かにしていくためのリーダーを養う教育は非常に重要だと思われる。

それはもちろん、エリート層への教育を見直すだけではなく、全ての国民に施す教育のあり方そのものを抜本的に問いただしていく必要があるだろう。しかし私は、やはりそれだけでは十分ではないように思える。

スタインが指摘するように、教育は人間の意識と知性を涵養していく上で、端的にはknowing, doing, beingをより深いものにしていく上で不可欠のものである。しかしながら、教育を根本的に見直すだけでは足りない何かがあるように思う。それが何かというと、シャドーに対する認識の欠落である。

少なくとも、リーダーを担う人間は、自身のシャドーに対して深い認識を持つ必要があるだろし、社会のシャドーが何かに対する鋭い認識を持つ必要があるだろう。そうでなければ、Go Toキャンペーンのように、意思決定者のシャドーと社会のシャドーが残ったまま、それらが投影される形でなされる対処療法的な打ち手が後を絶たなくなってしまう。

シャドーに対する感性を育むことや理解を深めることも教育の範疇と言えばそうかもしれないが、スタインだけではないが——スタインの主著“Education in a Time Between Worlds: Essays on the Future of Schools, Technology, and Society (2019)”にはシャドーについての言及はほとんどないが、ある対談インタビューにおいては集合規模でのシャドワークの重要性についても言及している——、そうした指摘を行っている教育哲学者はあまりいないこともあり、ここに書き留めておくことにした。アテネ:2020/7/24(金)05:24

6044.【アテネ旅行記】日本への深層的な次元での精神的接近と

本日のアテネ観光の計画

時刻は午前5時半を迎えようとしている。1つ前の日記では、今日から本格的に始まるアテネ観光の具体的な計画を書くつもりだったのだが、いつの間にか当初の目的から離れ、日本が直面する問題について考えている自分がいた。

ちょうど来週から欧米での生活も9年目に入る。今この瞬間において、このようにしてアテネにいるだけではなく、もう丸8年間も物理的に日本から離れて生活をしている自分がいる。

欧米での8年間の生活において、精神的に日本から離れる時期もあったが、ここ最近は再び日本に接近しているのではないかと思う。それは以前と比べて、より深層的な次元での精神的接近である。

今日からアテネを歩き回る観光を始めようと思っていたので、本音を言えば、もっと熟睡したかったのだが、深夜にふと目覚め、日本が現在直面している問題について考えることを突きつけられている自分がいた。おそらくそれは、日本だけの問題というよりも、この地球全体の問題とも繋がっているように思える。

数日前の日記で書き留めたように、それはもう人間中心的な発想で解決できるような問題では決してなく、そうした発想から脱却し、さらには集合規模で蔓延するシャドーと真に対峙しなければ解決できないような問題なのだと思う。

自分自身が自分のシャドーと絶えず向き合うこと、自分が属する社会のシャドーに絶えず認識の光を与えていくこと、そして社会のシャドーを指摘するだけではなく、社会がどうすればそのシャドーを変容させていくことができるのかについて具体的な指針を示していくこと。それらに関与していこうという気持ちが日々強まる。

今回アテネ旅行に持参した書籍で扱われているロイ·バスカーの思想を学んでいることや、フランクフルト学派の第1世代·第2世代の批判理論を学んでいることや、群衆心理学の探究を進めていることは、おそらくそうした気持ちの現れだろう。

そのようなことを思いながらふとホテルの窓から外を見ると、午前5時半を過ぎても辺りは真っ暗のままである。フローニンゲンにおいてはもうこの時間帯は明るくなっている頃だ。

調べてみると、アテネの日の出の時間はおよそ6時半とのことであり、随分と遅いのだなと思った。天気予報を確認すると、気持ちいいぐらいに滞在期間中の全ての日に快晴マークが付されている。雲1つない快晴の日がここまで続くことを体験するのは、南カリフォルニアのアーバインに住んでいた頃に経験したことがあるぐらいだ。

今日の最高気温は34度、最低気温は23度とのことである。気温の推移を見ると、興味深いことに午前8時までは気温が下がっていく傾向にあり、気温のピークは午後4時ぐらいに迎える。昨日の感覚だと、気温は高くても湿度がさほどないおかげか、アテネの夏は過ごしやすいという印象を受けた。

今日はどこに行こうかと考えたときに、今日は平日ということもあるので、土日に混雑しそうなアテネ国立考古学博物館に足を運ぼうかと思う。コロナによる入場制限により、平日にも混むリスクがあるとのことなので、今日は朝から動こうかと思う。

できるだけ朝早く博物館に行き、ゆっくりと見学をした後に、ちょうど帰り際にはいくつかの古書店を通ることになりそうなので、時間が許せば5店ほどの古書店を覗いてみようと思う。そこでは何か良い美学書と出会うことができれば幸いだ。アテネ:2020/7/24(金)05:55

6045.【アテネ旅行記】アテネ国立考古学博物館を訪れて

時刻は午後6時半を迎えた。アテネ滞在の2日目は充実感と共にゆっくりと終わりに向かっている。今日から本格的に観光を始めたのだが、本日はアテネ国立考古学博物館を訪れた。

普段フローニンゲンで生活をしている時には朝食らしいものは摂っておらず、リンゴを1つだけ食べるだけである。一方で、旅行中においては午前中から動き回ることもあり、ホテルの朝食をしっかりと摂るようにしている。

今回滞在しているホテルは4つ星ホテルであり、とても快適であるだけではなく、朝食も素晴らしかった。レストランが10階にあって、外のテラス席で朝食を食べたのだが、その時にはなんとパルテノン神殿を拝むことができて驚いた。

また、パルテノン神殿の向こう側にはエーゲ海が広がっていて、レストランのテラス席からの眺めは格別であった。朝食を摂り始めたのが午前7時過ぎであったから、まだ気温も高くなく、大変心地良かった。

本日訪れたアテネ国立考古学博物館についてであるが、所蔵されている骨董品や銅像などの数が豊富であり、全てをくまなく見ていると切りが無く、関心のある物だけを見て行ったのだが、それでも数時間ほど博物館に滞在することになった。今日は歩き疲れたこともあり、また展示品から得られた直接的な感覚を十分に消化し切れていないこともあるため、明日以降に博物館に関する具体的な感想を書ければと思う。

博物館を訪れた後は古書店を巡ってみた。4店巡った古書店のうち、1店は閉まっていて、3店については残念ながら目星の書籍はなかった。一方で、古書店近くの新書を扱っている書店に足を運んでみると、そこで2冊ほど興味深い書籍を見つけ、それらを購入することにした。

1冊は、精神分析の観点から芸術について扱っている“Art & Psychoanalysis (2013)”であり、もう1冊はテオドール·アドルノが執筆した“Quasi Una Fantasia: Essays on Modern Music (1963)”である。この2つの書籍以外にも、ジャック·ラカンやスラヴォイ·ジジェクの興味深い書籍もあったのだが、それらはこの書店でわざわざ購入する必要はなく、フローニンゲンに戻ってから注文すれば良いと判断した。

本日の国立考古学博物館を訪れたことによって、古代ギリシャの歴史的な品々を見ることはもう十分であるような気がした。そうしたこともあり、明日からは美術館をゆっくりと巡っていく。

当初予定になかったが、博物館をこれ以上巡ることをやめて、その代わりに現代美術館を2つほど訪れることにした。朝や夜に本日購入した書籍をホテルでゆっくりと読み進め、日中は美術館や古代遺跡を巡るようにしたい。

また、本日足を運んだ古書店以外にも、アテネにはまだいくつか足を運んでみたい古書店があるので、滞在中にそれらの店にも立ち寄ろうと思う。今日は昨日よりも早く就寝し、明日に備えたい。アテネ:2020/7/24(金)18:43

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