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5964-5967: アートの国オランダからの便り 2020年7月6日(月)


No.904 夕方の優しさ_Gentleness in the Evening

本日の言葉

When you expect something, when you aim at something, right there you dilute your energy. Taizan Maezumi Roshi

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本日生まれた12曲

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タイトル一覧

5964. 渇きを癒す読書の再開

5965. 今朝方の夢

5966. 社会との協創によって実現される発達と「発達」という暴力:ヴィゴツキー、ピアジェ、ハーバマスの観点より

5967. 発達の「組織化」と「適応」

5964. 渇きを癒す読書の再開

時刻は午前5時半を迎えた。早朝に降っていた小雨が一旦落ち着き、今は平穏な世界が広がっている。とはいえ今日は断続的に小雨が降るようだ。また、気温に関してはかなり寒さを感じる。

ここ最近は真冬の時とほとんど同じ格好をして室内で過ごしている。今もまさにそうだ。換気のために開けている窓も、もう少ししたら閉める必要があるほどに寒い。

ここ最近はまた日記の執筆量が増えている。それは読書のおかげだろう。少し前に意図的に書物から離れ、それによって書に対するある種の飢餓感が生まれてきていた。

今、再び旺盛な読書をすることによって、その渇きを癒している自分がいる。書から離れたり、書に接近したりという良い循環が流れていて、現在は書物と向き合うフェーズにある。

毎日自分の関心領域に関する思想書を読むことによって、対象に対する理解が深まり、それによって実践がより豊かなものになっているのを実感する。まさにknowingがdoingを変え、そしてbeingを変えてくれていることを実感している。

しばらく前に、書斎の机の右の一角に書籍を積んでおくことをやめていたのだが、昨日からまた書物を積んでおくことにした。それらは、これから読みたいと思っている書籍たちである。

再読の書籍も含めて、今はテオドール·アドルノ、マックス·ホルクハイマー、ニコラス·ルーマン、ヨルゲン·ハーバマス、エリッヒ·フロム、アーネスト·ベッカー、ハーバート·マルクーゼ、ザカリー·スタインの書籍などが積まれている。そうした思想書に合わせて、科学書としては、カート·フィッシャー教授の追悼論文集が積まれている。

今週末に知人とオンライン対談をさせていただくことになっており、それに向けていくつか書籍を読んでおきたい。積まれている書籍の全てに目を通すことはできないだろうが、できる限り目を通しておこう。

今日は、ルーマニアの社会心理学者セルジュ·モスコヴィッシの“The Age of the Crowd: A Historical Treatise on Mass Psychology(1985)”の続きを読む。字が細かく、400ページほどの分量を持ち、内容としても密度がある本書を1日で読むことができず、結局数日間ほどかかった。

初読は本日の午前中に終わる予定だ。群衆心理学について学ぶ際に、この書籍は核となる文献になるだろう。

本書の中で引用されていたいくつかの書籍を別途購入したいと考えており、その時には群衆心理学の創始者とも言えるグスタフ·ル·ボンの"The Crowd: A Study of the Popular Mind (1895)”を購入しよう。出版年は随分古いが、現代においても得るものが非常に多いだろう。

読書に並行して、今日もまたいつものように創作活動に励んでいく。社会で大規模に進行する人間の同質化や画一化に抗う意味での創作活動。

創作活動は、自己の固有性の発見と維持·涵養につながり、それが群衆化の対抗手段になりはしないだろうか。創作活動を通じて、未熟な群衆に堕すことを防ぎ、一方でより成熟した群衆へと向かっていく道はないだろうか。

それぞれが固有な存在としての自己を維持しながら、それでいて個人が分断されずに自律的な有機体としての集合を形成していく。そのような姿をぼんやりと頭に描く。フローニンゲン:2020/7/6(月)06:06

5965. 今朝方の夢

時刻は午前6時を迎えた。今、フローニンゲン上空の空は薄い雲ので覆われている。それは雨を降らせるような雲ではないが、天気予報によると、昼前から再び小雨が降り始めるようだ。

それでは早速今朝方の夢について振り返り、今日の活動に入っていきたい。夢の中で私は、小中高時代の女性友達(MK)と一緒に、田舎の山奥で塾を経営することになっていた。

それは彼女からの提案であって、その土地には塾のようなものは一切なく、学校の授業を補完する形で教育を担う場があってもいいかと思ったので、私は特に深く考えずに彼女の提案に乗った。

早速彼女と一緒に塾のある場所に車で向かうことにした。時間は夜の時間であり、辺りは随分と暗かった。

彼女が車を運転してくれており、道中、塾に関する話を聞いた。先生は一体何名いるのかということを尋ねたら、先生は私だけとのことだった。それでは彼女は何をするのかといえば、事務作業をするとのことだった。

田舎とは言え、仮に生徒が多く集まって来たら、1人で全ての生徒を受け持てるかどうか懸念があった。私は英語と数学を担当することになっており、学年は小学校から高校までと幅が広かった。

全ての生徒を受け持てるのか懸念があったが、私は彼女に、数学に関しては予習など一切せず、その場で問題を解くということを伝えた。すると、彼女は驚いた表情を浮かべており、それで本当に大丈夫なのかどうかを聞いて来た。

確かに私は数学が好きであり、以前に数学の講師として働いていたこともあるのだが、むしろその場でいかなる問題にも対応できそうなのは数学ではなく英語の方だった。そうしたことから、自分が述べた発言を訂正したい気持ちになったが、それを訂正しようとする前に、塾の近くの駐車場にやって来た。

駐車場に車を止めて車から降りると、辺りに塾の建物は見当たらなかった。彼女に塾の場所を聞くと、そこから牧場を通り抜けた先にあるとのことだった。すごい場所にあるな、と私は思ったが、長閑な牧場を眺めながら塾に向かうのも悪くないと思った。

彼女は何か雑務があるようであり、先に塾の校舎に向かうとのことであり、足早に牧場を進んで行った。私はゆっくりと景色を眺めながら歩いていた。

すると、牧場の一角に危険地域のような場所があり、塾に行くためにはそこを超えていく必要があるようだった。そこは鉄線のようなもので囲まれていて、看板には獰猛な動物が出現するので注意せよということが書かれていた。どうやら、狼や虎などの獰猛な動物がそこに出没するらしかった。

私は恐る恐るフェンスに近づき、そこからは宙に浮かんで空を飛んでいくことにした。しかし、フェンス越しにはすでに獰猛な動物たちの姿が見えており、結局フェンスを越えていくことにためらいの気持ちが生じて、私は慌てて引き返すことにした。彼女には申し訳ないことをしたが、塾ではもう働けないと思った。そこで夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、私は実際に通っていた小学校の体育館にいた。そこはとても綺麗な体育館であって、私が高学年になったときに新しくなったものだ。

体育の授業の一環として、当初は体育館の中でみんなとフットサルをするはずだったのだが、フットサル用のボールがないとのことであり、そうであればバスケをしたいと思った。しかし、バスケットボールもないということが判明し、多くの生徒たちはバレーを始めた。

最初私も渋々バレーに加わったが、やはり自分が行いたいのはフットサルかバスケだったので、自分のところにバレーのボールが来た時に、それを思いっきり天井に向かって蹴り上げた。すると、ある友人がそれはバレーのルールに反すると述べ、私はそれを承知でボールを蹴り上げていたのだが、その行動を持ってして、私はバレーをするのをやめた。

体育館の外を眺めてみると、何人かの女性友達たちがバスケをしている姿が目に入った。「なんだ、外であればバスケができるのか」と思い、私はすぐに外に駆け出していった。

そこにはちょうど、数人ほど男性友達もいたので、彼らを交えて、3on3をすることを女性友達に提案した。ところが、その男性友達の中に1人、体臭がきつい友達がいて、彼女たちは彼が加わることを嫌がっているようだった。

仕方ないので、彼とマッチアップするのは自分だと説得すると、彼女たちはそれを了承し、ようやくバスケができることになった。今朝方はそのような夢を見ていた。

最初の夢においては、牧場のような場所から飛んで逃げるときの速度が尋常ではないほどに早かったのを覚えている。また、逃げ出した先にも印象的な光景が広がっていたように思うのだが、それについては細部が思い出せない。フローニンゲン:2020/7/6(月)06:32

5966. 社会との協創によって実現される発達と「発達」という暴力:

ヴィゴツキー、ピアジェ、ハーバマスの観点より

時刻は午後4時に近づこうとしている。今、空は晴れていて、太陽の姿を拝むことができている。

先ほど、改めてカート·フィッシャー教授の追悼論文集“Handbook of Integrative Developmental Science (2020)”を読んでいると、色々と考えさせられることがあった。それらについて備忘録がてらまとめておこうと思う。

まず1つには、ヴィゴツキーとピアジェの発達思想と関連づける形で、発達現象に伴う規範的側面について触れておきたい。教育哲学者のザカリー·スタインが指摘しているように、「発達」という言葉には、科学的な記述的側面と、価値的な規範的側面に関する二重の意味が絶えず内包されている。

とりわけ後者について、どうして発達という言葉に絶えず規範的側面が付き纏っているのかについて考えていた。この点についてはすでに数日前の日記にも書き留めたが、新たな観点を与えてくれたのが、ヴィゴツキーとピアジェの発達思想だった。

ヴィゴツキーが強調するように、発達とは様々な種類における社会的な協働作業によって実現していくものであり、この点については、ピアジェも「相互承認」を通じた発達という考え方を採用している。またそもそも、社会というものが規範的な行動や規範的規則によって構成されており、私たちは社会のそうした側面に絶えず触れながら、そして絶えず影響を受けながら生きることを通して発達を遂げていくのだから、発達には絶えず規範的な側面が伴うというのは当然と言えば当然だろう。

であればここで、健全な発達の形というものも見えてくるのではないかと思う。以前、成人発達理論とインテグラル理論に造詣の深い知人とやり取りをさせていただく中で、「高度な発達を遂げた人というのは、単に複雑な思考ができるだけではなく、この社会の文化や制度に内包された構造的な問題に自ずと関心を持つはずなのではないか?」というような投げかけをしていただいたのを覚えている。この指摘は正鵠を射たものだと改めて思う。

ヴィゴツキーやピアジェが指摘するように、人間の発達というものが、本来社会との協創によって成し遂げられるものを考えると、健全な発達を遂げていくというのは、絶えず社会課題を内在化(internalization)させていくという側面があるはずである。もちろんながら、発達には多様な領域があり、全ての発達領域における発達が社会課題を内在化させる形で進んでいくわけではないが——実際には、社会的な生き物である人間が携わる全ての学習・実践領域は必ずどこかで社会と接しているものだと思うが——、今私たちが直面している社会の課題を乗り越えていくために必要な発達というのは、多分に上述の要素を持ったものなのだと思う。

また、高次元な発達について議論していく際には、ハーバマスが指摘するように、高次元の発達段階がいかような思考内容·行動内容を持つのかについて、絶えずリアリティチェックをする必要があるだろう。生粋の発達科学者の多くがケン·ウィルバーの発達モデルをほとんど参考にしていないのは、ウィルバーはもちろん非常に優れた発達モデルを提唱しているのだが、とりわけウィルバーが提唱する高次元の発達段階というものが、サンプル数の少なさゆえに、それらの段階にある人々が現代社会の具体的な状況及び課題に対してどのように思考し、どのように行動するのかが明確ではないことが挙げられる。

人間発達に関する知識を積み上げていく際には、リアリティチェックを怠ることなく、そしてそれを発達に関する議論や実践に規範的な形でフィードバックをしていく必要があるのではないかと思う。こうしたリアリティチェックとフィードバックを怠り、発達の科学的な記述的側面だけを取り出して発達について議論や実践をしていくことはおかしな方向に私たちを導いてしまうだろう。

またそもそも「発達」という言葉が、先進国のエリートたちが生み出した構成概念(construct)に過ぎない点も忘れてはならない。言い換えれば、この地球上には発達などという言葉を気にせずとも、あるいは社会経済的・文化的に発達という言葉と無縁な形で存在している人々や地域が存在しており——そうした人々や組織は先進国にも当然ながら存在している——、そうした人々や地域に対して発達という言葉を押し付けるのは、別種の暴力ではないかと思う。

発達という言葉が地球の隅々で志向対象(orientation)になれば、発達をめぐって協創ではなく競争が後を絶たず、発達という言葉が嗜好対象(preference)になれば、発達という現象は単なる消費対象に成り果ててしまうだろう。その結果として、人間は高度な発達に向かうことを絶えず煽られる形で生きる消費的な生き物に成り下がってしまい、この社会はそうした消費的生き物の集合になってしまうのではないかと思う。

この世界が維持存続していくためには、多様性が不可欠であり、そうした多様性を確保するためには、発達を希求するゲームとはそもそも無縁な人々や集団、あるいはそうしたゲームから降りる意思表示をした人々や集団に対して、発達及び「発達」という言葉を強要する暴力は避けなければならないことである。フローニンゲン:2020/7/6(月)16:39

5967. 発達の「組織化」と「適応」

時刻は午後7時半を迎えようとしている。つい先ほど夕食を摂り終えて、再び書斎に戻ってきた。

ここから少しばかり作曲実践をし、就寝前には絵をいくつか描きたいと思う。今日もまた創作活動と読書に打ち込む充実した1日だった。平穏な環境の中で、落ち着いて自分の取り組みに取り組めることを本当に感謝しよう。

今日も読書を通じて色々な気づきを得ることができ、自分の考えを少しばかり前進させることができた。読書が本当に良い刺激と養分になっている。

ある対象について知ろうとするとき、知るという行為は無限に深まるものなのだから、知ることの限界に対して不必要に気にかけることはない。仮にある対象について知ったことに確証を持てず、絶えず懐疑が付き纏うのであれば、それは「デカルト的不安(Cartesian uneasiness)」と呼ばれる現象を患っているかもしれない。

知ることについては、絶えず内省的であるべきだが、懐疑の渦に飲み込まれてしまうことは一種の精神病的な状態を引き起こしかねない。そもそも、フーコーが指摘しているように、何が正しいかに関しては、社会による目には見えないメタパワーが働いているのであるから、知の正しさを検証するよりも先に、そうしたメタパワーの所在を突き止め、それがどのような影響を私たちにもたらしているのかを分析したほうがいいように思えてくる。

今日は改めてピアジェの思想に触れていたのだが、ピアジェは発達の根幹に2つの現象を見出している。1つは差異化と統合化に代表される「組織化」という現象であり、もう1つは様々な環境やコンテクストに対する「適応」という現象である。

後者の概念について言えば、それはカート·フィッシャーの「文脈依存性(コンテクスト依存性)」という概念に関係しているものだが、その方向で考えを広げていくのではなく、社会課題に自覚的な実践者との関係性で適応という概念を考えていた。

発達というのは、ある既存のコンテクストに適応していくという側面があり、それは差異化を経た上での統合化を意味している。自己とコンテクストの差異化や、これまで自分が立脚していた既存のコンテクストと新しいコンテクストの差異化が行われた後に新しいコンテクストに適応するという統合化のプロセスが始まる。

このプロセスは、自己が様々なコンテクストに開かれ続けている限りは永遠に繰り返されるものなのだろう。コンテクストと自己、及び新旧のコンテクストを差異化する際に、おそらくコンテクストに固有の課題を認識させられることが要求され、この発達プロセスを繰り返していくことを通じて、やはり社会の大きな構造的な課題にいつしか自覚的になる時がやってくるのではないかと思う。

この論点に関係することは、本日の日記の中でも書き留めていた。同種の論点について何度も書いている自分を見ていると、今の自分は発達の社会実践的な側面とその実践に強く関心があるようだとわかる。フローニンゲン:2020/7/6(月)19:39

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