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5895-5897: アートの国オランダからの便り 2020年6月11日(木)


No.650 音の揺りかご_A Cradle of Sounds

本日の言葉

Time is as fast as lightning; as instant and it’s gone. Eihei Dōgen

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本日生まれた11曲

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タイトル一覧

5895. 人間関係の深まりと今朝方の夢

5896. 関係性と自己:我ならざる我を通じた創作活動

5897. 良縁と幸運への感謝の念

5895. 人間関係の深まりと今朝方の夢

時刻は午前6時を迎えた。今、シトシトと小雨が降り注いでいる。それは本当に小粒の雨であって、目を凝らして見なければ見えないほどなのだが、屋根に溜まった水が落ちる音が聞こえてくる。

小鳥たちは雨宿りをしながら、清澄な鳴き声を上げている。

今日は1日を通して雨が降る時間帯が多いようだ。午後に雨が止んでいるか、もしくは小ぶりであれば買い物に出かけたい。

明日は晴れるようなので、天候次第では無理に今日買い物に行く必要はなく、天気の良い明日に買い物に出かけよう。

昨夜、人間関係について少しばかり考えていた。人間関係も、人間発達と同じく、焦らずにゆっくりと関係性を深めていくことが大切なのだ。

早急に関係を深めようとすると、発達において発達が停滞してしまったり、退行してしまうのと同じく、関係性にも停滞や退行のような現象が生じてしまうだろう。健全な発達を実現する上で、ゆっくりと進むことが要諦であるように、健全な人間関係を育んでいく際にも、ゆっくりと焦らず関係性を育んでいくことが大切だ。

そして、深い人間関係を醸成すると、あるいはその人のことを大切に思えば思うほど、無我の状態で交流することができるのだと思う。人と関係を結ぶことは、無我に至らしめる道なのかもしれない。そのようなことを昨晩考えていた。

それでは、いつものように今朝方の夢について振り返り、その後に本日の創作活動に入っていこう。今日は昼過ぎに1件ほどオンラインミーティングがあるだけなので、その他の時間は全て創作活動や読書に充てていこうと思う。

夢の中で私は、実際に通っていた小学校にいた。その日は土曜日であり、午前中の授業が終わると、昼からバスケの練習があることになっていた。しかし私は用事があったので、授業が終わってすぐに帰宅することにした。

実は大事な試合がその次の週末に迫ってきており、その日の練習を休むことは大変気が引けたのだが、それは仕方なかった。練習を休むことになった用事というのは大したものではないのだが、練習を休むことを気にかけながらも、私の中には、練習を休みたいという矛盾した気持ちが内側にあった。

授業が終わり、階段を降りて靴箱に向かった時に、1人の友人(HY)に声をかけられた。

友人:「あれっ、もう帰るの?今日の練習は?」

:「うん、今日はもう帰るよ」

友人:「そういえば、さっき俺たちのロッカーで何かしてなかった?」

:「あぁ、気づいた?練習着を畳んでおいたんだよ」

そのようなやり取りがあった。私はチームのキャプテンなのだが、先ほどどういうわけかロッカーに行き、何人かの友人たちの練習着を畳み、彼らのロッカーにしまっておいたのである。彼はそれに気づいたようだった。

彼と別れ、正門から出てしばらく歩いていると、小さなスーパーがあった。その前を通ろうとしている時に、向こうから、ここしばらく毎日見ているアメリカのテレビドラマの韓国人俳優が歩いてやってきた。私は彼に微笑み、彼らもまたそれに対して微笑み返した。

すると私の体は、なぜか教室の中にいた。教室では、若い予備校講師のような男性が、数学の問題を解説していた。それは比の発想を用いる図形と関数の問題だった。

講師の男性は、私を当て、その比の値がいくらなのかを答えるようにお願いしてきた。いきなりのことだったので、咄嗟に比の値を求めることは難しく、私はその場で考えた。結局その値がいくらになるのかがわからなかったので、講師の男性に解説の続きをお願いした。

黒板の右側に、展開された数式がずらりと並んでおり、その中にサインを微分したものが混じっていたのを覚えている。講師が行った板書でとても大切なものがあり、それを書き写そうとしたところ、講師は黒板をずらしてしまったので、私は斜め右後ろにいた親友(SI)にノートを見せてもらうことにした。

すると、彼は完璧にノートをとっているわけではないとのことであり、仕方なく私は左隣の白人男性に声をかけた。彼は日本語を話せるようだが、完璧な日本語ではなく、所々違和感のある日本語だった。とは言え、コミュニケーションには何の支障もないものだった。

彼にノートを見せてもらうようにお願いしたところ、彼も親友と同じく、ノートをきちんととっていないようだった。気がつくと、授業はもう終わっていて、昼食の時間になっていた。

何だか夢の時間が巻き戻ったかのように、昼食を摂った後にバスケの練習があるようだった。私は、昼食を購入しようと思って、近くの弁当屋に立ち寄った。

店に入ると、そこには複数の弁当屋が隣り合わせに並んでいて、各店の人たちが私に笑顔で挨拶をしてきた。私も彼らに挨拶をし、その後、どのような弁当が置かれているのかを見て回った。

確かに、どの弁当も美味しそうだったのだが、結局私は何も買わずに店を後にし、学校に戻ることなく自宅に帰宅することにした。フローニンゲン:2020/6/11(木)06:25

5896. 関係性と自己:我ならざる我を通じた創作活動

人間関係の背後に未熟な自己あり。そのようなことを思う。

人と交流し、人と関係を持つたびに、自己の未熟な側面が自ずから浮かび上がってくる。これは避けることのできないものであり、人間は他者との交流によって成熟の歩みを進めていくことがわかる。

関係性の中で自己が初めて措定され、関係性の中で初めて自己の存在が浮かび上がる。自己は関係性なしでは存在しえず、育まれもしない。

人間関係を構築していくことの難しさは依然として感じている。それはすなわち、自己が存在することの難しさを暗に示しているのだろうか。

自己が関係性によって定義されるということから、人と関係性を構築することが難しいというのは、自己を定義することの難しさに結びついており、それはつまり、自己がこの世界に立ち現れることの困難性も意味しているように思う。

今朝方降りしきっていた小雨が止み、今は穏やかな朝の世界が戻ってきた。相変わらず空はうっすらとした雲に包まれているが、静寂さはある。その静寂さが自己を落ち着けてくれる。

ここでもまた関係性の主題が立ち現れる。静かな世界とこのようにして関係性を結んでいる自己がそこにいて、自己はそうした関係性なしでは成立し得ない。

落ち着いた自己が存在することの背後には、それ相応の関係性が必ずのあるのだ。自己を見るというよりも、自己を顕現させているその関係性に目を向けていこう。そこにまた何か気づきや発見があるだろう。

自己が未熟だというのは、自己を取り巻く関係性が未熟だということを意味しているのだろうか。そう言えば私はこれまで、人と深い関係を築くことを長らく避けていたように思う。

ここから自己が深まるためには、深い人間関係が必要なのだろうか。深い人間関係を求めているというよりも、深い人間関係があちらからやってくるような気配を感じており、それに対して少しばかり戸惑っている自己がいるように思う。

自己は深まることを望みながらも、自己を深める人間関係を拒むような反応も見せる。それは自己に備わる免疫機能のようなものなのだろうか。はたまた、これもまたヨナコンプレックスの一種なのだろうか。

深みに至ることを望む自己とそれを避けようとする自己。今自分の中には、そうした相矛盾した願いを持つ自己がいる。

先ほど曲を作っている時に、音が自ずから形になっていく姿を見守っている自分がいた。自ら音を生み出すという能動的な形ではなく、ある種受動的な自ずから音が生まれてくるのを見守るという姿勢。創作活動においてはそれが大事なように思えてくる。

我を立たせようとすると、音に淀みが生じる。一方、我を手放し、我ならざる我を通じて音が望むままに自ずから形になっていくときは、その音に深く安らぎを感じる自分がいる。このあたりの自己感覚もまた今後のテーマの1つとなるだろう。フローニンゲン:2020/6/11(木)09:16

5897. 良縁と幸運への感謝の念

時刻は午後7時を迎えた。今日も1日がゆっくりと終わりに近づいている。

今日は1日を通して曇りがちな日であり、午前中には小雨が降っていた。幸いにも明日は晴れとのことであるから、明日は午後にでも近所のスーパーに行ってこよう。

本日、ある協働者の方とオンラインミーティングをさせていただいたところ、日本はもう梅雨の時期に入ったということである。気温も上がり、雨も降り始め、随分と蒸し暑いということを聞いた。こちらは依然として肌寒いが、ここ最近は少し雨が降る日が続いている。

今日もまた、1人静かに良縁と幸運について考えていた。ここのところは、何かの導きかのように、良縁と幸運が身を包んでいる。それには本当に感謝をしたい。

今朝方書き留めたように、自己の存在は人との関係性によって存在しているということを忘れないようにする。また、自分は良縁と幸運の産物であることも忘れないようにしたい。

そうした思いがあれば、日々を我ならざる我として生きていくことができるだろう。その中でなされる営みこそが他者や社会に資するものなのだ。

午後、作曲実践をし終えた後にひと休憩していると、自分にとって創作活動とは、生きるという営みそのものであって、他者からの称賛など必要ないことを再度確認した。自分なりに生きることに自分なりの満足感と納得感を持つこと。生きることに称賛を求めないのと同じように、創作活動にもそれを求めない。

明日もまた作りに作る時間を過ごしたい。自分が良縁や幸運に恵まれていると改めて強く認識するようになったのは、創作活動を始めてからになるだろうか。

創作活動を始めることによって、良縁や幸運に遭遇する機会が増えたことは偶然ではなく、背後になりかありそうだ。このあたりは薄々もうそれがどういう原理なのかに気づき始めている。

しかし、それを言葉にしてしまうことは野暮だろう。重要なことは、そうした良縁や幸運に絶えず感謝の念を持つことであり、引き続き作りに作ることなのだ。

そよ風の吹くフローニンゲンの夕暮れ時に、静かな至福感を感じる。自己は至福感であり、至福感は自己である。フローニンゲン:2020/6/11(木)19:14

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