top of page

5289-5293:フローニンゲンからの便り 2019年12月4日(水)


本日生まれた10曲

本日生まれた曲はこちらのYoutubeチャンネルで公開しています。

本日生まれた曲はこちらのMuseScore上で公開しています。

タイトル一覧

5289. 人生の一回性と瞬間にとどまること

5290. 闇の優しさと今朝方の夢

5291. 朝の創造的な時間に思うこと:満たされた時の中を散歩しながら

5292. バイオダイナミック農法が教えてくれる大切なこと

5293. 命ある時間との友情を深めて

5289. 人生の一回性と瞬間にとどまること

——人間て、二回も三回も生まれ変わることは出来ませんからね。泣いても笑っても、今の生だけ。これ一回きりですよ。だから、この一回きりの掛け替えのなさを、本気で感じること。それが運命を生きることなんですよ——『雲の宴—上』

時刻は午前4時を迎えた。今朝は午前3時過ぎに起床し、このくらいの時間に起床するのが今の自分にとっては一番良いように思える。それは早すぎもせず、遅すぎもしないという点でちょうどいい。

昨日は午前1時に起床し、さすがにそれは早すぎたように思う。実際に午前6時を迎えた時点で1時間ほど仮眠を取る必要があったこともそれを物語っている。

この人生が一回きりであること。そして日々の生活における一瞬一瞬が一回きりのものであることについて昨夜考えていた。そして、その事実に打たれた。

何も昨夜に限ってその事実に気づいたわけではなく、ふとした時に、まるで寄せては返す波のようにその気づきは私のところにやってくる。人の人生が掛け替えのないものであるというのは、まさにこの一回性に基づくのだと思われるし、日々の瞬間が掛け替えのないものであるということも同様の理由だろう。本当に自分が日々一回きりの世界を生きているということに改めて畏怖心を抱く。

今日もまた一回きりの新たな一日がやってきた。この掛け替えのない一日を十全に生きること。その掛け替えのなさを十分に感じ、そして深く味わいながら生きること。それが自分の人生という一つの運命を生きることなのだろう。

昨夜、日々日記を書くことは、その瞬間にとどまることであり、その瞬間を味わうことだと思った。忙しなく流れていく現代社会の外側の時間に従うのではなく、自分が接触しているその瞬間の内部にとどまること。しかもそれを味わいながらにしてとどまることが重要だ。それによって、人生はより深まっていく。

私たちの魂は、時を味わいながらにしてとどまることを養分にして育まれていくように思える。それを忘れてはならない。

また日記を書くことは、その瞬間の感動を自己に定着させることでもあると思った。単に感動を感じておしまいにするのではなく、それを自己に定着させていくのである。その最良の手段として日記がある。

自分の場合で言えば、その他には作曲がある。言葉と音を通じて、その瞬間を味わい、そしてその瞬間の中にとどまること。そしてそこで得られた感動を、言葉と音を通じて定着させていくこと。それを今日も愚直に行っていく。フローニンゲン:2019/12/4(水)04:28

5290. 闇の優しさと今朝方の夢

時刻は午前4時半を迎えた。闇に次ぐ闇。不動の闇がそこにある。あるいは、波のように流動していく連続的な闇が絶えずそこに佇んでいると言える。

この時間帯はまだ小鳥たちの鳴き声は聞こえない。今朝はそれほどでもないが、今夜はマイナス1度まで気温が下がるらしい。小鳥たちにはあまり無理をしてもらいたくない。どこかの木々の葉にくるまりながら体を温めておいてほしいと思う。

朝日が昇り始めたら、ゆっくりと近くにやってきてほしい。そして、静かで美しい鳴き声を上げてほしいと思う。

いや、その鳴き声に形容詞をつけるような野暮なことはやめよう。ありのままの鳴き声でいいのだ。ありのままの鳴き声を奏でてくれるだけで十分なのだ。

闇は光よりも優しく、自分をそっと包み込んでくれる。光よりも闇の方が優しいということをどれだけの人が知っているだろうか。

闇の持つなんとも言えない落ち着きとまろやかを感じることができるだろうか。それは光にはない類のものである。

その落ち着きとまろやかさを感じながら、今日の活動をゆっくりと始めていこう。最初のものは、夢の振り返りにしよう。

夢の中で私は、実際に通っていた中学校の教室の中にいた。教室の位置から察するに、それは1年生の時に使っていた教室だった。

教室には先生はおらず、クラスメートだけがいた。どうやら、今からクラスメート全員で何かについて話し合いがあるらしかった。それは深刻なものではなく、楽しげなことをテーマにしたものだった。

教室の前の方に座っていた私は、これから始まる話し合いを楽しみに待っていた。すると、一人の女子が話し合いを仕切るために教壇に上がった。

いよいよ話し合いが始まった、と私は胸を高鳴らせていたが、突然廊下から激しい音が聞こえた。それは一気に教室に押し寄せてくる何かだった。気づいた時には、もう教室中が浸水しており、ドアからは大洪水のように水が激しく流れ込んできていた。

廊下はもう腰近くまで浸水しており、激しい流れによって、廊下を歩いて進むことはもはや不可能だった。というよりも、廊下に出た瞬間に足元をすくわれてしまい、流されてしまう危険性があるほどだった。

しかし私は廊下に出て、ロッカーに置いた荷物の中にある何かの道具を使えば、クラスメートの全員がこの状態から脱出できると思った。そのため、廊下に出て行ったのだが、本当に自分の体が流されそうになってしまい、身の危険を感じて教室に引き返した。

すると、一人の女性友達(YM)が、私の代わりにロッカーに置かれた荷物を取ってきてくれると言う。彼女は人間業とは思えず、まるでカッパか何かのような、水と友達である生き物の力を発揮し、難なく廊下を進んでいった。そこで夢の場面が変わった。

次の夢の場面では、実際に通っていた高校が舞台だった。私は教室で、高校1年性の時に同じクラスだった、野球部の中でも一番背の高い友人と話をしていた。しばらく楽しく話をしていると、何人かの女性友達が私たちに声をかけてきた。何やら、今から私たちの髪の毛を染めてくれるとのことだった。

野球部の友人はほぼ坊主に近く、「こんな髪でも染めれるの?」と、私は彼の頭を指差しながら述べた。すると、小中学校時代から付き合いのある女性友達の一人(MH)が、「全然大丈夫」と笑いながら述べた。

そういうわけだったので、私たちは髪の毛を染めてもらうことにし、何色に染めてもらうかを考え始めた。髪を染める際には、何かスプレーのようなものを使うのではなく、選んだ色の糸を髪の毛に編み付けるという、幾分手の込んだことをするらしかった。

何色にしようか考えているところで夢の場面が変わった。覚えている範囲での最後の夢の場面では、私は小中高時代から付き合いのある二人の友人(HY&SI)と一緒に、街中の売店で何か軽食を購入しようとしていた。

私は特に腹が空いているわけではなかったので、水だけを購入しようと思っていた。すると、友人の一人(HY)が、「起床してから8時間ぐらいが経つけど、まだ水を一滴も飲んでいないんよね」と述べた。

私は友人が一切水分を補給していないことに驚いた。すると、その友人の携帯が鳴った。電話をしてきたのは、どうやら彼の祖父らしかった。

彼が祖父に話しかける声はとても優しく、彼は祖父の前でとても謙虚な言動をしていた。その光景をとても微笑ましく思った。そこで夢から覚めた。フローニンゲン:2019/12/4(水)04:53

5291. 朝の創造的な時間に思うこと:満たされた時の中を散歩しながら

——昔は、働けば、その報酬にパンや葡萄酒や布地で支払ったものだ。だから、どれだけ働けばそれでいいか、分かったのだ。現代はカネだ。つまり数字さ。数字には限界ってものがない。これでいいっていう量が決まっていないんだ。だから、みんな狂気のように数字を増やそうとする。何でもかんでも数字に変えてしまう。人間の一生が決まっていて、一日に食べるものも決まっているなら、それ以上働くなんて馬鹿げていやしないか。だって生きることは楽しむってことだもの——『国境の白い山—旅人たちの夜の歌』

愛しい小鳥たちがやってきた。暗闇が徐々に薄れていき、世界は新たな一日の始まりをようやく告げ始めた。

深い青色の空が徐々に薄青い空に変わりつつある。そうした変貌する空を眺めながら、自分の変貌を思う。

毎日少しずつの変貌。毎日少しずつの歩み。それを思わずにはいられない。

やってきた小鳥たちは歓喜の歌声を上げている。その一粒一粒の声は小さなものかもしれないが、そのどれもが尊く、そして愛しい。

文豪のゲーテが朝の時間をとりわけ大事にしていたことは有名な話である。特に朝の時間を創造的な活動に充てていたことは有名だ。

ゲーテが晩年に完成させた『ファウスト第二部』は、毎朝「手のひらに乗るほど」の文章を積み重ねることによって生み出されたものだそうだ。私たちは毎朝どういったことを積み重ねているだろうか。

新たな一日の始まりを祝す喜びに満ちた朝、そして新たな創造の可能性に満ちた朝に、私たちは何を積み重ねているだろうか。そんな朝を無為に過ごすことはとても寂しいことのように思える。

それは冒涜とまではいかないにせよ、何かそれに近しいものがあるように思える。自分の人生に対して、自分の命に対する背理的な行為。そしてそれは、社会やこの世界に対する背理にもつながるように思えてしまう。

日々を楽しみの中で生きること。最近それを強く思う。

自分の魂が真に喜ぶこと——人はそれを「好きなこと」と呼ぶかもしれない——に絶えず従事する中でゆったりと時を通過していくこと。魂が思わず笑みを浮かべるような行為に没頭しながら、時間の中をゆっくりと散歩していくのである。それが魂を喜ばせ、魂を育んでくれる。

決して、冷たく温もりのない数字を追いかけるような愚行をしてはならない。自らが楽しみ、魂も楽しむ生活をするに際して、快適さは必要である。だが、そうした快適さというのは思っている以上に質素なものなのではないかと思う。

そうした快適さを超えて、過度に装飾的な生活を追い求めて躍起になっているのが大半の現代人の姿かと思う。そうした衝動を緩め、もう少しくつろぐことはできはしまいか。

今日もまた、私は自分自身が心底楽しみ、そして喜びを感じられることだけに従事していく。それだけをしていく。それ以外のことは一切しない。

もうそろそろしたら、真っ赤に光るリンゴを一つ食べよう。そして、窓の外を眺めながら、コーヒーミルで豆を挽き、早朝のコーヒーを楽しもう。

コーヒーのアロマが書斎を満たす時、私自身もそして魂も、きっと満たされた感覚を覚えるだろう。日々が、一瞬一瞬が、全て常に満たされたものとして感じられるように生きていくこと、そして働きかけていくこと。自助と手放すことの双方を通じて、これからも私は自分なりの生を営んでいく。フローニンゲン:2019/12/4(水)08:16

5292. バイオダイナミック農法が教えてくれる大切なこと

——「もの」に何かを「感じる」とは、「もの」と「私」の関係の表明であり、その「もの」についての「私」の在り方それ自体なのだ——辻邦生

つい今し方、朝の楽しみの一つである果物を食べた。その際に、バナナを2本ほど食べたのだが、昨日から1本のバナナに対しては、ゴマペーストを付けて食べることにした。

これまでは、アーモンドペーストとピーナッツペーストを使っており、バナナを2本食べる際には、一本一本に対して、別々のペーストを付けて味わっていた。ところが最近、街の中心部のオーガニックスーパーでは、アーモンドペーストの売れ行きがなぜだかすこぶる良く、棚に一つも置かれていないことがある。

もちろん、他のメーカーのものなら置かれているのだが、私が好むメーカーのものは売れ切れが続く。そうしたことから昨日は、ゴマのペーストを購入することにした。

すぐにそれが何を指しているのかわかないオランダ語で表示されていたため、製品説明を読むと、それがゴマだということがわかり、ゴマに含まれるセサミンには以前から関心を持っており、さらには製品説明の欄に書かれていた、エジプト文明とゴマの関係に関するエピソード——クレオパトラが美と健康のために摂取していたと言われている。また、豊かな香りと栄養成分の豊富さから「不老長寿の薬」とされていた——が興味深くもあり、それを購入することにした。

実はそれ以外に最も重要なことは、その製品がバイオダイナミック農法で作られているということだった。以前言及したように、欧州においては、オーガニックの製品認証を得ることよりも、バイオダイナミクスの製品認証を得ることの方が厳しい。端的には、バイオダイナミック農法で作られた製品の方が、単なるオーガニック製品よりも手間暇がかかっており、格も上なのである。

ルドルフ·シュタイナーが提唱したこの農法には以前より関心を示しており、これまで購入してた豆腐はバイオダイナミック農法によって作られたものであり、現在昼に食べている4種類の麦類のフレークもその農法によって作られている。

バイオダイナミクス農法の魅力や特徴はいくつもあるが、一つの特徴として、穀物を栽培する場合に、一度使った土地を長期間にわたって休ませることにある。なんと5年間も休ませるのだ。

私はそこに、土地に対する思いやりの念を見てとる。いや、それを感じる。

そのようにして休息を得た大地は、太陽の光や草花の養分を得ながら栄養を蓄えていく。そして5年後、再び私たちに素晴らしい贈り物を届けてくれるのである。

大地に感謝を表し、その感謝の念に対する返礼として素晴らしい贈り物を届けてくれる相互関係があること。そこにバイオダイナミック農法の魅力の一つがある。

土地を十分に休ませて、土地に栄養を蓄え、そこからまた実りを産んでいくこと。はて私たち人間は、そのように自らに十分な休息を与え、自らを養い、自らに実りをもたらすことをしているだろうか?

そして、その実りを世界に共有することを行っているだろうか?慌ただしく生活をし、休息をほとんど取らずに労働ばかりに従事している現代人とは真逆の在り方を体現しているのがバイオダイナミック農法であり、それは私たちに何か大切なことを教えてくれているような気がする。

先ほど淹れたコーヒーのアロマが書斎に広がっている。その芳しい香りに包まれているだけで幸福感が滲み出てくる。

私は今、一杯のコーヒーを感じているのである。そして、その一杯のコーヒーに感謝の念を抱いている。それがコーヒーと私との関係である。そこに私自身の在り方が反映されている。フローニンゲン:2019/12/4(水)10:09

5293. 命ある時間との友情を深めて

自分で挽いた豆を使って淹れたコーヒーを待つ楽しみ。豊かなアロマが書斎に広がり、コーヒーが蒸されるのを待つこの時間は本当に至福の時である。

つい先ほど仮眠から目覚めた時、なんとも言えない柔らかさと優しさの感覚に包まれていた。このところ午後の仮眠中に見るビジョンは鮮明さが増すだけではなく、優しさに溢れたものになりつつある。

そこで知覚されるものが幼少期のものであれば、なお一層のこと優しさの感覚が増す。それを見て私は、幼少期にどれだけ自分が愛されて育てられてきたのかを知る。

先ほどの仮眠中に見ていたビジョンは、父と母に関する思い出がもとになっていた。二人それぞれにまつわる固有のエピソードと共に、ビジョンの中の私は笑顔であった。父も母もまた笑っていた。

そうしたビジョンに加え、母方の祖母が現れるビジョンもあった。そんなビジョンから目覚めた時、なんとも言えない優しさに包まれていた。

再び書斎に戻ると、そこにはフローニンゲンの冬の午後の優しい太陽光が降り注いでいた。フローニンゲンの冬の気候は厳しいが、空に浮かぶ太陽の光はすこぶる優しい。この対極的なものがどれだけ私を育んでくれることか。

優しい時が自分を包んでいる。それは今書斎に降り注ぎ、自分を包んでいる太陽の光と同じ優しさを本質に持っている。

時間を味わうというのは、時間の中でくつろぎ、そして時間の中で遊ぶことなのだと思う。時間の中で遊ぶというのは、時間と手を取り合い、時間に身を委ね、自分の魂が喜ぶ活動に思う存分没頭することである。それが時間を友にするということであり、時間の中で遊ぶということなのだ。

そのように考えてみると、時間というのは唯一無二の親友のような存在であり、一回きりの固有な存在なのだということに気づく。ある一つの時間というのは、私たちの存在と同じほどに儚く、そして尊いものなのだ。それが時間の本質なのではないだろうか。

私たちは、値段の付けられた親友を見たことがあるだろうか。ぶつ切りにされた親友を見たことがあるだろうか。現代社会で私たちを取り巻いている時間というのは、残念ながら計量化され、ぶつ切りにされてしまった存在に成り果てている。

時間というのは果たしてそのような存在なのだろうか。決してそうではないだろう。私は、上記のように時間を唯一無二の命ある親友だとみなしたい。

また別の観点で言えば、ある変容から新たな変容への間、あるいはある深まりから新たな深まりへの間のことを自分の内的時間とみなしたい。時間とは本来、無機質な形で分割·計量できるものではなく、ある季節から新たな季節への移り変わりや、植物が種から花をつける変化の間を意味する分割不可能なものだったのではないかと思う。

時間を存在のある一定の深まりの期間、ないしは変化の期間と捉えることによって、時間に豊さがもたらされるのではないだろうか。時間の豊かさを取り戻したい。そして一人でも多くの人がそれに気づいてほしい。

インテグラル理論の観点で言えば、右側象限的な、計量化された無機質な時間から、濃密な主観的な時間への転換をもたらすことが、本来時間が持っている意味を救い出すことなのだと思う。時間とは本来、濃密な意味を持ち、具体的な事物と密接に結びついたものだったのだと思う。

時間がどのようにして人間社会に誕生したのかは知らないが、仮に天体の運行にその起源があるのであれば、まさしくそこでは天体という個別具体的な事物をもとにして時間が生み出されたのである。決して現代社会のように、数字だけが一人歩きする無機質な·無存在的なものではなかったのである。

時間から豊さと意味を救い出そう。時間から命を救い出そう。それができなければ、私たちは時間を殺し、時間は私たちを殺すだろう。

コーヒーのアロマが一段と書斎の空間に広がった。そうこの香りが広がったという変化の前後を持ってして、時間が流れたのだとみなそう。それが何分だったかなど関係がない。

果てしなく、限りなく優しい時間が自分を包んでいる。そして、自分に語りかけてくれる時間が絶えずそばにいる。そうした時間との友情を深めていこう。フローニンゲン:2019/12/4(水)14:57

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page