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3794. 心耳・魂耳


時刻は午前10時を迎えた。天気予報の通り、少し前から小雨が降り始めた。それは決して激しい雨ではなく、天から静かにしたたり落ちてくるような雨である。

雨滴の付着した窓を前景として、裸の街路樹、さらには鬱蒼とした薄い雨雲が広がっている光景は、どことなく趣深い。こうした景色に趣を感じられるほどに、自己涵養が進んでいることがわかる。

そしてそれは、単に趣を感じられるだけに留まらず、趣を起点にしてさらなる自己発見につながる思考や感覚が生み出されていく様子を確認することができる。今日もまた、北欧にほど近いフローニンゲンという街で、心満たされた一日を送る。

これからも、絶えず心が満たされた、心が豊かな生活を送っていこうと思う。そうした生活を送ることは至上の幸福感をもたらし、それ以上に大切なことはないだろう。

今日はこれから、バッハの四声のコラールに範を求めて作曲実践を行う。本来は、コラールを参考に作曲をする時には対位法を含めて、諸々の理論的な側面に気をつけなければならないと思うのだが、今の私はそうした知識をまだ深く獲得しておらず、現状においては、ハーモニーに関する様々な観点を試すために、バッハのコラールを参考にしている。

今から曲を作る際には、曲の前半部分に教会旋法の一つの手法を適用し、後半部分でセカンダリードミナント、さらにはサブドミナントマイナーを活用していこうと思う。とりあえず、キーはメジャーキーを選択したい。

「コラール」というのは、そもそも賛美歌を指しており、人が歌うものである。ここでふと、人は歌を歌うが、時も歌を歌っているように最近感じられることについて考えを巡らせていた。

時も歌を歌っているということに気付けるかどうか、これもまた人間として真に生きているかどうかを示す指標だと思う。時は絶えず異なる音色の音楽を奏でており、それは絶えず変化している。

ゆったりとした音楽の時もあれば、早い音楽の時もある。時が相対的であるという特質は、まさに時が奏でる音楽に注目をしてみるとよく分かる。

時が奏でる音楽を聴くためには、物理的な耳を働かせるのではなく、心の耳を働かせることが大切である。心には眼だけではなく、耳まであるということに気づいたのは比較的最近のことであった。

そこからさらに、魂の眼だけではなく、魂の耳があることがわかる。シュタイナーの音楽思想に関する書籍を読んでいると、シュタイナーはおそらく、魂の耳の存在を提唱し、音楽を魂の耳で聴く重要性を説いていたのだと思う。ここからは、心の耳、さらには魂の耳の感覚を養っていく。

先日の日記で書き留めたように、日々綴っている日記は、誰かが読んでいようがいまいが全く関係なく、絶えず書き続けられるものとして存在している。それと全く同じことが、日々の作曲実践にも当てはまる。

私は、誰かが聴いていようが聴いていまいが全く関係なく、これからも音楽を作り続けていく。

早朝に、過去に作った曲をMuseScoreのオンライン上にアップロードしていたところ、一人の外国人から以前作った曲に対してコメントが付されていた。私はこうしたコメントには一切反応しないようにしているのだが、それは非常に好意的なコメントであった。

そうしたコメントのあるなし、聴く人の有無にかかわらず、絶え間なく曲を作り続けていく。そのようにしてこの世界を生き、この世界に何かしらの貢献を果たしていく。フローニンゲン:2019/2/8(金)10:27

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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