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3474. 流れることのない流れそのものとして


今朝方起床してすぐに歯磨きをしている最中に、今日も自分の人生が新たに始まったことに対して不思議に思った。

オーストリアの詩人リルケは、何かを成し遂げていくためには、永遠に生きられるつもりで生きていく必要があると述べていたことを思い出す。しかし、私はそうした態度に少し違和感を覚えている。

この違和感はどこからくるものなのだろうか。人は物理的に永遠に生きることはできないが、精神的には永遠に生き続けることができる。

言い換えると、身体も心も消滅したとしても、魂的には永遠に生きることがそもそも可能なのだ。さらに述べると、それは可能というよりも人間の存在における所与の事実のようなものである。

「永遠に生きられるつもりで」という言葉に引っかかるものを感じたのは、魂の永続性が考慮に入れられていないように思えたからかもしれない。いずれにせよ、今日も自分の人生のある一日が始まったことには変わりない。それそのものが純粋に不思議である。

このところ、「自分が誰かわからなくなる」ということをようやく超えて、「自己とはそもそも自分にもわからないものである」という発想が芽生え、日常生活の中で、突然自分が消えたような感覚になっても何ら驚かなくなった。

以前であれば、そこには驚きと、多少の不安、ないし恐怖感のようなものが混じっていたように思う。だが今は、そうした感情はほぼ皆無のようである。

今朝方の感覚をもう少し正確に述べるなら、「ある一人の人間の人生のある一日が再び始まった」というものになるだろうか。私はどうやら、「ある一人の人間」の人生を生きているようである。

夢を見ない深い意識状態の中で、自覚的な自己はいないのだが、そうした状態における自己も自分であると見なせば、自己の存在範囲は一気に拡張する。どこまで拡張するかというと、このリアリティの細部及び全体にまで拡張する。拡張しないはずはない。

ここで、自己という存在が即リアリティの全てと同一のものであることがわかる。これは大変興味深い気づきである。

「ここからここまでが自分」という境界線が完全に取り払われ、自分は全てであることがわかる。全体との一体感がそこにある。

それは乳幼児が知覚している世界との未分化の一体感ではなく、分化が極限まで推し進められた先にある統合的な一体感である。起床直後に感じていたのは、そのような一体感であった。

時刻は午前六時を回った。今は雨が降っていないが、今日も断続的に雨が降るらしい。

今日も一日中家の中で過ごし、自分のライフワークに邁進していくことになるだろう。本当に毎日、私は自分のライフワークにしか従事していない。

ライフワークと呼べないようなものには一切従事していない。ライフワークだけに従事して毎日を過ごす生活が実現されたことを嬉しく思う。そして、それに対する感謝の念は途絶えることがない。

暗闇に包まれた通りを一台の自動車が通り過ぎていった。あの自動車のように、今日も時間があっという間に過ぎていくかもしれない。

そうであったとしても、あの自動車と自分がここにあったということには変わりなく、人生はあの自動車のように流れていくものであり、同時に流れることのない流れそのものとして永続していくものなのだろう。フローニンゲン:2018/12/3(月)06:17

No.1457: Facial Expressions of the Weather

As the weather forecast said, it stopped drizzling. Now it is fine.

Because the weather had not been so good recently, I appreciate today’s beautiful weather.

I can feel that my energy is vivacious. Groningen, 11:23, Tuesday, 12/4/2018

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