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3381. ピアジェの発達理論を毛嫌いする人たち(その1)


午前中に雷の音が聞こえ、雨が激しく降るかと思っていたら、そうではなく、小雨がぱらつく程度だった。時刻は午後の三時半を迎え、今は全く雨が降っておらず、灰色の雲が空を覆っているだけだ。

午前中と午後の時間を使って、ウィルバーの“The Eye of Spirit: An Integral Vision for a World Gone Slightly Mad (2001)”の二読目を行っていた。本書の中には、ウィルバーの芸術論が二章に渡って紹介されており、それらの箇所については再び読み返すことになるだろう。

その他の章を読みながら、いくつか考えさせられることがあった。主なものとしては、ピアジェの発達理論を毛嫌いする人たちに関する問題だ。

過去に何人かの知人から、とりわけ日本の教育者、ないしは教育学を研究する学者の中に、ピアジェの発達理論を頭ごなしに否定する人たちがいることを聞いていた。その批判の仕方について話を聞いてみると、随分と浅薄なものであることに驚かされた。

彼らの発想が持つ問題は多岐に渡るが、先ほど考えていたことをいくつか列挙しておきたい。最たるものとしては、「発達段階」という言葉が示す階層的な概念を相当に毛嫌いしていることが伺え、同時に彼らは「階層」という概念をとても狭く認識しているようだ。

ウィルバーが指摘しているように、階層という概念が持つ意味は大きく分けて二つあり、一つは発達可能性としての階層であり、もう一つは支配的な意味での階層である。

前者に関しては、私たちのリアリティはホロン(全体と部分の入れ子構造)で構成されているという考え方のもと、原子や分子などの物質のみならず、私たちの知性にもホロン階層があり、私たちが発達を遂げていくというのはまさにそうしたホロン階層を上がっていくことであり、ここでは階層そのものが発達の可能性として捉えることができる。

ホロン階層については重要な特徴がいくつかあるが、詳細はウィルバーの書籍に書かれているため、ここではそれらを取り上げることをしないが、つまり一つ目の意味の中には、一般的に「階層(ヒエラルキー)」という言葉が暗に示すような、上位のホロンが下位のホロンを抑圧するというような意味はない。ウィルバーも明示的に、私たちの発達はヒエラルキーではなく、ホラーキー(holarchy)であると述べている。

一方で、「階層」という言葉には、支配的な意味も確かに存在している。これは、発達構造を誤って捉えたものであり、下位のホロンの価値を蔑ろにする形で、上位のホロンの優位性のみを強調する考え方として階層を捉えたものである。

おそらく、ピアジェの発達理論を毛嫌いする人たちは、ホロンとしての発達構造の特性を認識しておらず、一般的に「階層」という言葉に内包されている支配的な意味に過剰な反応を示しているのではないかと思う。

ウィルバーも指摘しているが、「階層」ないし「レベル」という言葉を極度に嫌う人たちは、「階層やレベルという考え方は断固として認められない」というレベル付けが自らの主張の中に含まれていることに盲目的である。

つまりここでは、「レベルというものは認められない」という自己の主張が、「レベルというものが存在する」という主張よりも優位なものであると暗黙的にみなしながら、レベルという考え方を抹消しようとするのである。

ピアジェの発達理論を毛嫌いする人たちは、どうもそうした自己矛盾的な思考に陥っており、発達の持つホロン特性を良く理解していないのではないかと思われる。フローニンゲン:2018/11/10(土)15:50

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