top of page

3285. 意思の表れとしての日記


平穏な雰囲気が辺りを包んでいる今日のフローニンゲン。季節はもうすっかりと秋なのだが、今日は桜の風が吹いてきそうな雰囲気である。特にそれは早朝の時間帯においてそうであった。

今はあいにく雲が空を覆っているが、それでも穏やかな雰囲気であることには変わりない。先ほどランニングから自宅に戻ってくる最中に、小鳥の群れが木々を次から次に移動していく姿を見た。

小鳥たちが鳴き声を発しながら木々を移動していく様子を眺めながら、その行動の意味することは何なのかを考えていた。私は動物行動学者ではないから、小鳥たちの行動の意味は皆目見当がつかなかったのだが、とても興味深い集団行動をしていると思った。

実は今も、書斎の窓の外には、小鳥たちが右から左へ、左から右へ移動していく様子が時折見られる。紅葉の進んだ木々にやたらと止まるものだから、木の実でも食べているのかと想像をしてみた。 

ランニングをしている最中に、自分が日々執筆している日記は、確かに日々の思考や感覚の足跡を残すためなのだが、それ以上の意味があるように思えた。それは端的には、日記は自らの意思の表れに他ならないのではないか、というものだった。

日々執筆している日記に関しては、もう少ないとか多いとか、量に関して問題にすることはほとんどなくなった。質に関してもそうだ。それについてもほとんど気にかけていない。

重要なことは、そこに自らの意思が表れていることであり、意思さえ形となっていれば、量や質など問題ないことに気づかされた。ちょうどいつも足を運ぶスーパーに行く途中の橋を渡ったところで、そのような気づきが得られた。

自分が綴る日記は自らの意思の表れであること。それを忘れないようにして、これからも日記を書き続けていく。

午前中、読書を進めながらふと、作曲の勉強と実践、そしてシュタイナーの思想及び霊性発達の探究が、いつか自分の生活の核になるだろう、ということを思った。今は作曲の勉強に関してはほとんどできておらず、単に実践があるだけだ。

理論について学習することは本当に少なくなった。というよりも、これまでもほとんど理論について学んでいないように思う。

理論を学ぶ必要性は痛感していながらも、そして確かに理論書を何冊か読んできたが、それらは学びのうちに入らない。作曲の勉強を本格的に行い始めるのは数年後からになるかもしれないが、今からでもできることは少しずつ行っていく。

特に、フーガの技法について勉強を再開させようと思う。アルフレッド・マンが執筆した“The Study of Fugue (1958)”を読み返すために、ソファの上に積まれていた本書を、書斎の机の右隅に積み重ねられた書籍の上の方に置いた。今週末の土日に、それらを最初から読み返し始めようと思う。

シュタイナーの思想に関しても、深く学びたいという思いがありながらも、今はその他に学ぶことが多く、シュタイナーの思想を学ぶことに時間が充てられていない。だが、この探究項目に関しても、近い将来に必ずシュタイナーの思想を深く学ぶ日がやってくることを予感している。フローニンゲン:2018/10/18(木)13:54

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page