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3269. 新たな教育テクノロジーの負の側面


あと一時間ほどで昼食の時間を迎える。今日は昨日よりも遅く起きたため、昼食の時間があっという間にやってきた感覚がする。

科学・哲学・人間発達に関して、先ほど少しばかり考え事をしていた。例えば、ある発達心理学の実証研究によって、ある教育テクノロジーが何らかの知性を向上させる効果があることが分かったとする。

そこで脳科学者は、知性に対する効果だけを調査しては片手落ちであるから、そのテクノロジーが脳の発達に及ぼす効果を調査したところ、そこでも効果が証明されたとする。つまり、ここで行われていることは、知性のみならず、はたまた脳のみならず、子供たちの内面領域(知性)と外面領域(脳)の双方の発達を促す教育テクノロジーの効果を測定することである。

仮に、それらの二つの領域において何かしらの効果が発見された途端に、多くの人は何をし始めるだろうか。容易に想像できるのは、その教育テクノロジーを推奨し、子供たちにそれを与えることだろう。

だが、この行動はとても安易なものに見えないだろうか。過去に何度も指摘しているように、科学研究の背後にあるイデオロギーが何であり、そうした研究の前提となっている科学者の価値観や、研究手法に潜んでいる盲点などを考える必要があることは確かだが、それ以外にもより重要な問いを投げかけてみる必要があるだろう。

それは何かというと、「そもそもそうした教育テクノロジーを活用できる子供たちとは一体どのような子供なのか?」という一見素朴な問いである。ここで何を言わんとしているかというと、端的には、そうした教育テクノロジーを活用することが、社会的な不公平さを生み出し、例えば既存の教育格差をさらに拡大することに加担しないだろうか、ということである。

つまり、新たたな教育テクノロジーの恩恵を受けることができるのは、この世界においてごく一部の子供たちだけであり、そのテクノロジーの導入が新たな社会的不公平さを生み出し、教育格差を拡大しかねないということである。

新たな教育テクノロジーの導入が、既存の実力社会主義的な側面と癒着すれば、問題はさらに大きくなっていく。これは単なる思考実験というよりも、実際にこの現実世界ですでに顕在化している問題なのではないだろうか。

十中八九、ほぼ全ての人たちは、そうした教育テクノロジーの誕生を手放しで喜ぶだろうが、視点を上げて考えてみると、そうした安直な喜びに浸っていることなどできないことがわかってくる。人間発達や教育の問題に取り組むにあたり、科学的な思考の枠組みと哲学的な思考の枠組みの双方がなければ、社会的な問題を助長しかねない危うい思考に陥ってしまう可能性が高いことが見えてくる。

そうした脆弱な思考を乗り越えていくことは、研究者、実践者の双方にとって重要であろうし、本来は一人一人の人間がもう少し強靭な思考を育んでいく必要があるように思う。フローニンゲン:2018/10/15(月)11:15

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