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3247. 人間心理を取り巻く短絡的なナラティブについて


時刻は午後の七時半を迎え、辺りはもう暗闇に包まれている。秋の深まりをこのところよく感じる。

季節が秋を迎えることによって、自分の内側で立ち現れる幾何学模様のイメージにも変化が見られるように思う。これは自分が毎日デッサンしているノートを見返してみるとすぐにわかる。

内側の世界と外側の世界には、それぞれ固有なパターンを生み出す力を持っているが、それら二つの力が相互作用しているような感覚を持つ。秋が進行することによって、自分の内側から生み出されるパターンを眺めてみるとそのようなことがわかる。

ボストンに滞在していた時にも気づいていたのだが、ここ最近はあまり夢を見ていない。厳密には、確かに夢を見る日もあるのだが、それが記憶に残っておらず、書き留めるほどではないという状態が続いている。

季節の進行に合わせて、自分の無意識の世界でも何かが着実に進行しているようだ。無意識の世界について思いを巡らせていると、私たち誰しもが持つ心の闇(シャドー)について考えが及んだ。

米国の思想家ケン・ウィルバーが提唱したインテグラル・ライフ・プラクティスにおいて、自分のシャドーといかに向き合い、それを分離させることなく再統合していくことの大切さが説かれている。また、心理療法の世界において最も焦点が当てられているのはおそらくシャドーの治癒だろう。

しかし私は最近よく、シャドーは単に治癒すればいいというものではないということを考えている。人間心理は複雑な生態系としての特徴を持っていることを考えると、むしろシャドーを治癒することが生態系の危機につながってしまうこともあるのではないかと考えているぐらいだ。

確かに、治癒すべきシャドーが存在するのは確かである。歴史上、自己のシャドーに飲まれ、破壊的な行動に乗り出していった例は枚挙にいとまがない。

一方で、社会的な、あるいは集合的なシャドーに立ち向かっていく際に個人の強力なシャドーをもとに活動を推進させている創造的な人物たちの姿を見ていると、彼らのシャドーは決して治癒されてはならないものに思えてくる。

一風変わった映画作品を数多く残しているアメリカの映画監督であるデヴィッド・リンチは、サイコセラピーを受けることを知人から勧められたが、それが自身の創造性の枯渇につながってしまうという洞察を持っていたがゆえに、友人の勧めを断ったという逸話を聞いたことがある。

ここからも、社会的に価値のある創造的なものを生み出すためには、個人の内側にあるシャドーが活力になっていることも十分に考えられるため、シャドーをすぐさま治癒の対象とみなすのは安直な態度であるように思える。これはもしかすると、とかく異質なものをすぐさま病理的なものとみなし、手当たり次第にそうしたものを治癒しようとする「精神的潔癖症」を患っている現代の風潮と関係しているかもしれない。

現在ウィルバーの書籍を監訳する仕事を引き受けたが、昨今の成人発達理論への関心の高まりに相まって、インテグラル理論に注目が集まるようになった際に、シャドー及び複雑な人間心理に関する短絡的なナラティブが蔓延しないかが非常に気になるところである。

シャドーというのは決して手当たり次第に治癒すればいいというものではなく、それを治癒してしまったがゆえに、自分の内側にある本当に大切なものを喪失してしまうことにもつながりかねないという発想を持っておくことは大切なように思える。フローニンゲン:2018/10/10(水)19:57

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