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3212.【ボストン旅行記】人生とチャールズ川


今日も午前中からハーバード大学教育大学院(HGSE)の図書館に行き、先日ケンブリッジエリアの古書店で購入した書籍を二冊ほど持参して探究活動を進めていく。

今回のボストン滞在中には、四店の古書店を訪れ、気がつけば合計で18冊ほど書籍を購入していた。また、ボストン美術館では分厚い公式ガイドブックも購入したため、合計19冊ほどの書籍を手土産にオランダに戻ることになりそうだ。

購入した書籍のうち、すでに三冊ほど読み終えることができており、今日は二冊の書籍を読み進めていきたいと思う。

自分の無知さと一生涯付き合っていくこと。それを心に決めてから、探究活動のあり方も少しずつ変わってきているように思う。

数日前に、すでに70歳を迎えられておられる教育哲学者のキャサリン・エルギン教授と一対一の面談をする機会があった。その際にエルギン教授が笑みを浮かべながら、「私はまだ教育哲学についてほとんど何も知らない」と述べていたことを思い出す。

HGSEで長らく教育哲学について教えている教授でさえそうなのだ。「人間発達」及び「教育」というのは、本当に一生涯をかけて取り組むテーマだということを再認識し、その探究に終わりはないことを改めて実感する。

探究に終わりがないにもかかわらず、探究に乗り出していこうとする自分。これは無限なるもの、あるいは永遠なるものを求めようとする人間の性なのか。

今私は、とても大きく、そしてとても大切なテーマを見つけたのだと実感している。人間発達と教育。

その探究を進めていくことは、自分の人生に与えられた大きな役割なのだと思う。その役割を全うするための小さな一歩を今日も歩む。

何艘かのボートがチャールズ川を優雅に下っていく。八人乗りのボートが水面に停止しており、今それが動き出した。

一人乗りのボートが反対側からやってきて、チャールズ川を上っていく。上りと下り。下りと上り。川は人生を象徴している。

川の緩やかな流れ、そして川は環境全体と一体化しているという点も人間の人生と似ている。私たちの人生は個人の中で閉じられたものでは決してなく、それはこの世界そのものと一体化しているものなのだ。

川は本来明確な始まりも終わりも持たない。人為的な区分として始まりと終わりがあるだけだ。

人間の一生はどうだろうか?それもまた誕生と死の瞬間があることは確かだが、私たちの人生は誕生も死も越えうるものなのではないかと最近思う。

誕生前から自分が誕生していたと考えることはできないだろうか。死の後も肉体は朽ちたとしても、自らの根源的な存在は存続し続けると考えることはできないだろうか。

禅の公案に「原初の顔を見つけよ」というものがある。それはおそらく、誕生も死も超えた自己の存在本質を指し示そうとしているように思えてくる。

チャールズ川はどこにつながっているのだろうか。この川は全てと繋がっている。

川の始点と終点を区切るのは人間であって、自然はそれを区切ってなどいない。この川は海と繋がっている。いや海のみならず、空と繋がっている。

空と繋がっていない場所はなく、空と繋がっていない生物はこの世にいない。この世界の全ての場所と生きとし生ける全てのものがこの川と繋がっている。

川が人生なら、人生が川ならば、私たちの人生は全ての場所と全ての存在と繋がっていると言えないだろうか。私には、それが人間の人生であるように思えて仕方ないのである。ボストン:2018/10/3(水)07:53

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