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2810. テレマンの曲と生命のつながり


早朝から曇り空が続いている。天気予報を確認すると、一日のどこかで晴れ間が顔をのぞかせるようだが、それがいつなのかは定かではない。

とにかく今日は肌寒い。書斎の窓を開けることは極力控えることになるだろう。そうした肌寒さの中にあって、どこか自分の内側で花の挨拶が聞こえてきそうだ、ということを先ほど思った。

確かに外は肌寒いのだが、そうした寒さを忘れさせてくれるような暖かさがどこか辺りに立ち込めている。もちろんそれは決して肉眼で見えるようなものではない。心眼でのみ見えるような類いのものだ。

心眼を用いて暖かさが立ち込めてくるのを眺めていると、花々がこちらに向かって挨拶をしてきてくれるかのような感覚になる。花はいつでもこちらに向かって挨拶をしてきており、挨拶の声を聞くことはいつでも可能なのだということを知る。

書斎の中にはフィリップ・テレマンの曲が鳴り響いている。今日はこれからテレマンの曲に範を求めようと思っており、その前にテレマンの曲を聴くことにした。いや、おそらく今日は一日中テレマンの曲を聴くことになるだろう。

テレマンの曲を聴きたいという衝動が自分の内側の中にある。ヘンデル、そしてバッハとも親交のあったこの偉大な作曲家の曲に浸る形で一日を過ごす。

テレマンから汲み取れるものを少しずつ汲み取っていく。一度に大量に何かを汲み取ろうとするのではなく、焦ることなく少しずつ汲み取れるものだけを汲み取っていく。

今日は肌寒さだけではなく、少々風が強い。目の前の街路樹の葉の揺れがここ数日よりも大きなものになっている。空を飛ぶ鳥たちもこの風の影響を受けているようである。

未だ新緑と形容できるような青々とした街路樹に生命力を感じる。できるだけ長くその生命力を感じていたいと願うのは私だけだろうか。おそらくそうではないだろう。

街路樹に休みに来る鳥たちも同じことを思っているに違いない。秋がやってきて、街路樹の葉が散るまでにはもう少し時間がある。

この瞬間の街路樹の生命力を味わうこと。私にできるのはそれくらいだろうか。だが、それをするのとしないのとでは大きな違いがあるように思える。

今というこの瞬間に発露する他の生命の生命力を感じること。それは紛れもなく、今この瞬間の自分の生命力を感じることに他ならない。

二つの異なる生命のつながりをここに見てとることができる。生命はつながり、お互いの生命力は影響を与え合っているようだ。だから私は街路樹を眺め、だから小鳥は街路樹の上で休むのである。

先ほど過去に作った曲を聴いていた。すると、熱情は断片的な情熱の単なる寄せ集めなのではなく、その総体だということに気づいた。

全体と部分の話、そして熱情と情熱の話。単に部分を寄せ集めても、一つの全体として機能するわけではないことに関心を持つ。

雲行きが怪しくなってきたが、今日は本当にこれから晴れるのだろうか。今日も一日中窓の外に広がる景色を眺めながら、探究活動と創造活動に励んでいく。フローニンゲン:2018/7/9(月)08:42

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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