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2681. 人生


先ほど終えた教会コンサートの余韻がまだ残っている。今回はオルガンコンサートではなく、アンサンブル形式だったが、四月にブダペストで参加した聖イシュトヴァーン大聖堂でのオルガンコンサートが自然と想起された。

コンサートが終了した後の何とも言えないあの余韻にまだ包まれている。マルクスは「宗教はアヘンである」と述べたが、音楽もまた然りなのではないかと思わされる。そうした側面は音楽の魅力であり、魔力でもある。教会を出た直後にそのようなことを思った。

コンサートが終わると何とも言えない余韻に包まれながら私は教会の外に出た。コンサートに参加する前と後では見える景色が微妙に異なる。

コンサートに参加することによって、私の知覚は間違いなく変容していたようだ。音楽がもたらす意識の変容作用。それに加えて、コンサートの最中に背筋を昇り抜けていく音楽的高揚感を私は幾度となく感じていた。

教会の扉を開けて外に出ると、どこか酩酊状態のような自分がいた。意識ははっきりとしており、思考も鋭敏なのだが、このリアリティがコンサートの参加前と異なって見える。

リアリティをその外にある別のリアリティから覗いているような感覚と言ったらわかりやすいだろうか。そのような感覚で私はこのリアリティを眺めていた。

教会からすぐそばに街の中央市場がある。今日は日曜日であり、そこでは何かイベントが催されていたようだ。イベントの道具を片付ける人たちの姿を眺めている自分を天高くから眺めている自分がそこにいた。

自分には意識があるのだが、その意識すらも外側から眺めているような感覚があった。意識の圏の外側からこの意識を把握しているという奇妙な状態で私は街を歩き続けていた。

今日のコンサートはアンサンブル形式であり、コンサートの最中に私は演奏者たちが一つのチームとして演奏を奏でているのだとふと思った。そして、チームが一丸となって一つの演奏を奏でることの素晴らしさを改めて感じていた。

よくわからないのだが、私の頭の中には、高齢者や病気を持った人たちと共に作曲を楽しんでいる自分の姿が想起された。いつか日本に帰り、季節ごとに別の県にある田舎の病院を訪れて、そこで患者の人たちと作曲を通じて交流している自分がそこに見えた。

なぜそのようなことを想起したのだろうか。創造活動に従事する楽しさと喜びを誰かと分かち合いたい。今の私はそのようなことを無意識的に思っているのかもしれない。

創造活動に伴うこの生の喜びと充実感を伝えるにはどうしたらいいのだろうか。創造活動によってもたらされる喜びと充実感、そして幸福感を独り占めするのはもうやめよう。そんな馬鹿なことはしてはならない。

他の誰かに伝えたいことはそれなのだ。一体これを誰にどのように伝えたらいいのだろうか。

伝えたいと思う人の姿はまだ見えず、伝える手段も持ちえない今の自分。私は表現活動に今後も打ち込んでいくだろうが、表現活動の意義とその方法について他者に共有するための術を学んでいく必要があるかもしれない。

人生がまた新たな方向に動き出していく。動かない人生などない。

なぜ私は今日あの教会にいたのか。なぜあの教会であのような感覚や考えを持ったのか。

意識の圏の外に出て自分を眺めた時に見出したものを自らの存在に定着させていかなければならない。ようやく自分の進むべき道が見えてきたような気がする。

絶え間ない創造活動に従事するということ。そして創造活動からもたらされる生の喜びと充実感・幸福感を他者と分かち合うこと。それだけだ。

それだけができればこの人生に望むものは他にない。そしてそれ以外にやりたいことなどない。

創造活動、創造活動、創造活動。創造活動の共有、創造活動の共有、創造活動の共有。

それらが自分の人生であり、自分の人生はそれらだ。フローニンゲン:2018/6/10(日)20:10 

No.1062: After Rain

It rained a couple of days ago. After it stopped, everything in this world looked fresh to me.

I suppose that this world continues to create something new at every moment. Groningen, 07:48, Thursday, 7/12/2018

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