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2601. 旅について


昨日の夕方、作曲実践の休憩がてら、この夏の旅行の計画について考えを巡らせていた。予定としては、八月にスウェーデンとフィンランド、そしてアイスランドを訪れようと思っている。

アイスランドにだけ七月中に行き、スウェーデンとフィンランドへは当初の予定通り八月に足を運ぶのがいいかもしれない、などということも考えていた。幸いにもフローニンゲンの空港からアイスランドの首都レイキャビクへの直行便が出ていたように記憶しており、距離的にも全く遠くない。

ただし、六月末にロンドンでの学会参加を兼ねた旅行があるため、七月と八月に旅行に行くことは少し慌ただしいだろうか。やはり八月に三つの国に足を運ぶ方がいいかもしれない。

今回は時間の都合上、それぞれの首都に滞在することになるだろうが、できるだけ自然が近くにあるような場所に宿泊し、街の中に出掛けて行くこと以上に自然の中でくつろぎたいと思う。

特にアイスランドを訪問した際は、レイキャビクから外に出て自然の中に入っていきたいと思う。欧州での三年目の生活は旅を積極的に行うことを通じて、人間が生きるとは何かについて見つめ直すことにしたい。それはすなわち自分の人生の見直しにも直結しており、自らの人生を深めることにもつながっていくだろう。

年内の旅行に関しては、八月に上記の三カ国を訪れ、十年以上の付き合いのあるドイツ人の友人に会いに行くために九月にはデュッセルドルフを訪れ、その帰りにボンに立ち寄る。十月には五年振りにボストンに行く。

11月は旅に行くことをせず、今年の年末年始はイタリアとエジプトで過ごそうと思う。もしかすると、イタリアとエジプトへ訪れるのは時期が少し後ろにずれ込み、1月の半ばあたりからになるかもしれない。

そのようなことを昨日考えていると、ふと幼少時代の様々な旅行の思い出が蘇ってきた。振り返ってみると、旅に関して私は非常に恵まれた幼少時代を過ごしていたように思う。それは全て両親のおかげだ。

話によると、私は生後数ヶ月から旅行に出かけていたらしい。生まれてから6歳まで東京にいた頃には、父が休みの際には東京から行ける範囲の場所に必ず旅行に出かけていたように記憶している。

山口県に引っ越してからは、中国・四国地方、そして九州を旅するようなことを絶えず行っていたように思う。また、私が中学校二年生の時に父がマレーシアに単身赴任になってからは、高校二年の春まで、春休みと夏休みはほぼ丸々マレーシアを拠点に滞在し、タイやインドネシアの旅行に連れて行ってもらっていた記憶がある。

そのように考えてみると、私は随分と色んな場所を幼少の頃から旅をしていたのだと知る。そして、幼少時代のそうした旅がどれほど大きな意味を持つものであったかを最近になって強く実感している。

旅の持つ意義は本当に計り知れない。とりわけ幼少期に経験する旅は感性を育むことにつながっており、成人期になって行う旅は育まれた感性をさらに磨き、生きることの意味を再定義することを私に促してくる。

今この瞬間の自分は間違いなく、幼少時代に積み重ねてきた旅の経験が元に形成されている。記憶を辿る形で、私は今後もあの頃の旅を振り返るだろう。

そして、旅の意義について今後も考えを深めていくに違いない。旅とは一体なんであろうか。旅が私たちに開示する意味はなんであろうか。

人生が未知であり、自己が依然として未知な存在であり続けているのと同様に、旅も未知な存在としてそこにあり続けている。そう考えると、人生、自己、旅は全て同一線上にある三点に思えてくる。

いや、それらは点ではなく、三つが一つなった全てなのだと思う。人生、自己、旅はきっと全てであり、全部なのだ。フローニンゲン:2018/5/23(水)07:16

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