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2519. 大我に至る


昨日も考えていたことだが、四年間にわたって集中的に修練をすることの意義は計り知れない。一つの領域に関して毎日絶えず研鑽を積んでいくことの尊さと価値を昨日に考えていた。

作曲に関しては、日々の歩みは本当に遅いものだが、小さく一歩を積み重ねていきたい。本音を言えば、作曲実践に一日の探究時間の半分以上を充てたいところだが、今はそうしたことができない状況にある。

現在自分が関わっている学術研究と協働プロジェクトにも固有の意義と価値があることを忘れてはならない。だが、近い将来に必ずや、作曲を含めた創造活動だけに専念するような時がやってくるだろう。

芸術に立脚した人間発達の探究。そうした探究に邁進する日々を近い将来必ず送りたいと思う。

今は諸々の意味において別の修練を積む時期なのだ。学術研究や協働プロジェクトを通じて、そうした修練を積ませていただいている時期にあるのだ。

今日という日の研鑽がどれほど大事な意味と意義を持っているだろうか。自己の内側に横たわる創造的なものを真に開放し、創造活動を通じてこの世界に真に深く関与していくためには、毎日の研鑽が本当に欠かせないのである。それを常に肝に銘じて毎日の一つ一つの実践に励んでいこうと思う。

小さな自我が打ちのめされるような体験、言い換えれば自尊心が打ちのめされたことのない人間には真の仕事などなしえないことを横山大観の生き様から学んだような気がしている。

大観が創始した新たな絵画制作手法は、当時の世の中に受け入れられず、多くの批判を受けていたことを知る。大観の描く絵は「お化けのような絵」と評されることもあったぐらいであり、その絵画制作手法は「朦朧体(もうろうたい)」と揶揄されていた。

大観の人生史を辿ってみた時に、12年間の間に八人の近しい人を亡くしていることを知った。そこに画風の批判が重なっていた。

大観本人がのちに述べているように、これらの一連の出来事は大観を大きく揺るがすものであった。私が大観の作品と思想に打たれるものがあるのは、大観がそうした過酷な体験と向き合う中で自らの人格を陶冶し、涵養された人間性を通じて作品を作り続けたことにあるのではないかと思う。

近親者を立て続けに亡くすという不幸と自らの芸術手法に対する世の中からの批判は、大観の自己に付着する自我を焼き尽くしたに違いない。「人間ができて初めて絵ができる」という言葉、そして「世界人になって初めて、その人の絵が世界を包含するものになる」という言葉がそれを物語っている。

小さな自我から脱却し、大我に至る。大観はそれを成し遂げた一人の芸術家だったのだと思う。フローニンゲン:2018/5/5(土)07:12

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