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2515. 素晴らしき一日


今日はなんと素晴らしい一日なのだろうか。今日という一日が持つ光とその輝きに思わず目がくらむ。

今日の日の素晴らしさと美しさをこの瞬間に誰かに共有することができなくても、それを文章として書き留めておくことによっていつか誰かと共有したいという思い。そんな思いを駆り立てるような一日が続いている。

午前中、過去の日記を編集し、昼食前に私は近所のノーダープラントソン公園へランニングに出かけた。今日は雲一つない青空が広がっており、風も穏やかだ。

今日は金曜日であるが、その時間帯には公園でくつろぐ人たちの姿を多く見かけた。各々がその人なりのくつろぎ方を持っており、その人なりの固有の時間をこの公園で過ごしていた。

ある人は犬と散歩をし、ある人はベンチで座って休んでいる。ある人は公園をランニングし、ある人は芝生の上に寝転んで本を読んでいる。そんな光景を目の当たりにしながら、私は公園内を走っていた。

公園の真ん中にある池に向かっている時、池の前の並木道が、どこか四年前に私が住んでいた東京の府中の公園の姿と重なった。あの頃私はよく、府中の森公園に走りに出かけていた。

あの時の春に見た光景がノーダープラントソン公園での今の光景と重なった。私はほのかな風に揺れる新緑の木々を眺めながら、ゆっくりと足を前に進めていった。

公園を抜け出てからは、街の中心部に向かい、行きつけのインドネシア料理店で昼食を購入した。今日は本当に良い天気であり、インドネシア料理店からの帰り道も心が躍るのを抑えることは難しかった。

これからしばらくの季節は、本当にランニングに最適だと思う。少なくとも週に一回はノーダープラントソン公園へ走りに出かけようと思う。とにかく存在は身体を基礎にしているということを忘れてはならない。

午前中、以前作った自分の曲を聴きながらデッサンをしていると、曲の複雑性とデッサンで描かれるシンボルの複雑性には何かしらの関係があるかもしれないと思った。つまり、曲に体現された意味の深さとデッサンとして開示される記号世界の深さが共鳴しあっているかもしれないということだ。

私が作った曲は非常にシンプルなものであり、そのシンプルさに対応するかのような簡素なシンボルがデッサンによって生まれた。おそらく、非常に緻密に構成された曲を聴きながらデッサンをすると、より精巧なシンボルが生まれてくるのではないかと思わされた。

曲の中にはやはり固有の複雑性が宿っており、それは意味世界の深さだと言い換えることができる。実験的に、自分が作った曲のみならず、過去の偉大な作曲家が作った曲に対してもデッサンをしてみようと思う。

早朝に、作曲と俳句や短歌と関連付けた事柄を書き留めていた。そこからふと、短い曲の中に自分の内的感覚をうまく表現することができるのかどうか疑問に思ってしまう自分が現れた。

しかし、バルトークが『ミクロコスモス』という一連の作品で成し遂げていたように、それは可能だと認識を新たにした。短い曲の中で一つの内的感覚を十分に表現することは可能なのだ。そのヒントがバルトークのミクロコスモスの中にある。

今日は時間が許せば、ベートーヴェンの曲に範を求めるだけではなく、バルトークの作品にも範を求める形で曲を作っていきたいと思う。

一息に大きな宇宙を作ろうとしないこと。小さな一つの息の中に小さな宇宙がすでに宿っており、それを積み重ねていくこと。それをあと何十年にも渡って積み重ねていくこと。

横山大観、葛飾北斎の姿勢と生き様に範を求めること。今日もこれからできる限りの創造活動に従事していく。フローニンゲン:2018/5/4(金)13:19

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

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