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2508. 絶え間ない創造行為に彩られた生活


穏やかで優しい雰囲気が早朝のフローニンゲンを包んでいる。フローニンゲンにもようやく春がやってきたようだ。

天気予報を確認すると今日は快晴であり、これから一週間晴れが続く。今日の深夜が0度近くまで冷え込むが、明日以降は最高気温・最低気温ともに暖かくなる。一つの季節が終わりを告げ、新たな季節の始まりを知る。

昨日、近所の文房具屋に行くために軽くランニングをしたが、改めて身体を動かすことの効用に気づかされた。将来的には水泳を毎日行うことができれば理想だが、今は週に一度のランニングは欠かさずに継続していこうと思う。

ちょうど明日の昼は、近所のノーダープラントソン公園へランニングに出かけ、その足で行きつけのインドネシア料理店に立ち寄りたいと思う。身体を動かすことにより、心身の滞りが溶解されていくような感覚があり、なんとも言えない解放感を味わうことができる。

日々の生活の中で思考ばかりを巡らせるのではなく、自らの身体を通じて生きること。哲学者のメルロ=ポンティが「私とは身体である」とまで述べたように、自己の存在と身体は密接な関係にある。

身体に宿るもの、身体の意義そのものについてもう一度思い出さなければならない。日々の至る所で身体を意識し、適宜走りに外に出かけるということを欧州の三年目の生活でも大切にしていきたいと思う。

昨日ふと、生きている間に売れた絵が一枚だったゴッホについて思いを馳せていた。ゴッホが弟のテオに宛てた全ての手紙が収録された資料をまだ全て読み通すことができていない。

この夏から少しずつゴッホの手紙を紐解いていきたいと思う。ゴッホの絵が生前に一枚しか売れなかったことについて、妙に私の心を動かすものがある。絵が売れなかったことが私の心を動かすのではなく、絵が売れなかったとしても絵を描き続けたゴッホの生き様に心が激しく動かされる。

絵が売れなかったというのは世間からの評価が得られなかったことを意味しているだろう。ゴッホの絵はその当時の世の中にはほとんど認められなかったのだ。

それでもゴッホは絵を描き続けた。その姿勢には言葉を超えて打たれるものがあり、感覚的に激しいものが自分の内側に流れてくるのがわかる。

二週間前に訪れたブダペストのバルトーク記念館でも同様の体験をした。バルトークのとりわけ活動の初期において、彼の音楽が当時の世の中から認められなかったことを初めて知った。

実際にバルトークは、世間の音楽理解に落胆し、以降数年間ほど公的な演奏を控えた。そこからバルトークは本格的に民族音楽の収集活動に励むようになる。

演奏活動を中止している間にも、バルトークは音楽的な探究を継続させていった。世間から認められることがなくても己の探究活動と創造行為に従事し続けたゴッホやバルトークの姿勢には、私を突き動かす何かがある。

私の中で、創造行為に本格的に従事したいという思いが日ごとに高まっていく。とりわけ、作曲とデッサンにより真剣に打ち込みたいと思う自分がいる。

時間的にも量的にも、今よりもそれらの二つの実践に激しく打ち込みたいと思わせる何かが自分の中にある。また、そうした創造行為に合わせて、それらの創造行為に関する科学的・哲学的な探究にも従事したいという思いが強くある。

今の私は、科学・哲学・芸術の三つの領域に従事していながらも、それらの領域の実践が分断されてしまっているように思える。ここから私がなすことは、それらの領域を真に統合した実践を行っていくことであり、自分の日々の生活をそうした一つの統合体の中で営んでいくことだ。

科学・哲学・芸術の領域を、日記・デッサン・作曲という三つの創造行為を軸に越境していく。そこで得られた発見事項を論文の形も含めて何らかの手段を使って世に共有していく。

そのようなことに本格的に従事する自分の姿を創造している。誰も見ていないところで絶えず創造行為を営み続けること。それが一つの信条となり、その信条の具現化に向けた生活が徐々に実現され始めている。フローニンゲン:2018/5/3(木)07:44

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