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2506. この世界に存在する無数の観察対象


今朝は六時過ぎに目覚め、六時半から一日の活動を開始させた。起床した時間と一日の活動を開始した時間は共に昨日とほぼ同じ時間帯である。

興味深いことに、今日も早朝の空に満月が見える。ぽっかりと浮かぶ白い月を眺めていて興味深いと思ったのは、満月が見える位置が昨日と異なることだ。

昨日とほぼ同じ時間帯に満月を見つけることができたが、昨日は自分の視線から一直線の位置に満月があった。一方、今日は随分と東の方に満月が寄っている。

感覚的に10度ほど東の方角に満月が寄っているように思う。もしかすると観察をする時間帯が少しずれており、観察時間のズレがそうした変化を生み出していたのかもしれない。

今目の前に見えるうっすらと白く輝く満月がどのように変化するのかについてはもう少し観察を重ねたいと思う。昨日は、もうしばらくすると満月が早朝の空から姿を消してしまった。

今日もそうしたことが起こるのであろうか。その辺りも含めて、今朝は月をもう少し観察したいと思う。

昨日の夕方にふと思ったが、ある一つの事物を観察し続けることの意義のようなものがあるように思う。逆に言えば、日々繰り返しある対象と接し、それを継続的に観察しなければ見えてこないものがあるのだ。

継続的な観察を長大な時間にわたって行っていくことによって、初めて開示される側面というのが森羅万象には存在しているかのようである。これは何も外的な世界の現象だけに当てはまることではなく、内的な世界の現象についても当てはまるだろう。

私は知らず知らずのうちに、自分の内的世界を絶えず観察するようになった。何がそうした観察を促しているのかは分からない。

だが、そうした促しそのものを含めて、日々自己の内的世界を観察しなければ日々を生きていけない自分がいることは確かだ。内的世界の観察に関しては、多くの先人を見習う必要があるだろう。

とっさに脳裏に浮かんだのは、精神分析学の始祖であるフロイトだ。ウィーンでフロイト博物館を訪れた時、そこに所蔵されている品々を眺めながら、フロイトがどれだけ心の世界の探究を真摯に続けていたのかがわかった。

ある種異常とも呼べるほどに心の世界を観察し続けることによって、フロイトにしか見えないものがフロイトに開示され始めた。自分の夢を千を超えるほど分析したり、無数のクライアントの精神分析を行うなど、フロイトが積み重ねた観察は膨大な量に及ぶ。

そうした膨大な観察とそれに伴う考察が、精神分析という一つの学問領域の確立につながっていったのである。今日も私は内外世界に対して諸々の観察を続けたいと思う。

観察をしようという能動的な意識というよりも、自己が観察に導かれていくという自発的な何かが自分の内側にある。自然な形で無数の観察を続けていくこと。観察の継続とそこからの大きな発見に至るには、自発的な形で自己を動かす力に身を委ねるのが最善だろう。

ふと顔を見上げると、満月の位置が動いているのがわかった。この数十分の間に満月が動いていたのだ。

ここからわかるのは、先ほどの10度のズレの原因は、やはり観察時間の違いにあるのかもしれないと思った。天文学について一切の知識がないため何とも言えないが、自転と公転の周期のズレから、これから日を追うごとに観察時間のズレのみならず、そうした周期差が月の見える位置を動かしていくかもしれない。

月を発見したのが昨日であり、そこから少しばかり観察をしてみただけで、様々な探究の余地がこの現象にあるということがわかる。私は今日も、必ずや諸々の興味深い観察事項と出会うに違いない。

この世界には無数の観察対象で溢れている。そう思うだけで今日を生きることが楽しみになってきた。フローニンゲン:2018/5/3(木)06:58

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