書くことが見つかってから書く、というのであっては話にならない。そんなことを自分に言い聞かせる。
何を書こうとしているのか全くわからないのだが、とにかくまだ何かを書き残している感覚が残っている。今この瞬間に書斎の窓の向こうに見える太陽のように、激しい何かが自分の内側にあるのがわかる。
どうやら太陽は外側の宇宙に存在しているだけではなく、自分の内側の宇宙にも存在しているようだ。もしかすると、外面世界に存在する森羅万象の全ては、実はそっくりそのまま自己の内面世界に存在しているのかもしれない。
少しばかり心を落ち着かせるかのように、内側から出てこようとするものをゆっくり文章の形にしようと思う。
今日はまた一冊の書籍との幸運な出会いがあった。昼食前に、「デジタルラーニングと学習環境」のコースのクラスに参加した際、途中の休憩時間に、社会学部の建物にあるトイレに向かった。
この建物の一階には、教授たちがもう読まなくなった書籍が寄付されている場所がある。実際にはそれらの書籍は、廊下に置かれた一つの長机の上に陳列されている。
大抵はオランダ語のものなのだが、中には英語の書籍も混じっている。思い起こせば、私はこの二年間において、何冊か非常に貴重な書籍をこの場で入手することができたように思う。
今日もトイレに行くついでに、このテーブルの前を通った。すると、一冊大変興味深いタイトルの書籍が置かれていた。
それは、“The Call of Service: A Witness to Idealism (1993)”という書籍だった。このタイトルと書籍全体が醸し出す雰囲気が私を強く惹きつけた。
フローニンゲン大学に来てから、科学の世界に本格的に浸るようになり、この手の書籍を読む機会は滅法減っていた。科学的な専門書でもなく、厳格な哲学書でもない。
これは単なる一般書であり、日本でよく翻訳出版される類の書籍のように思えた。中身をパラパラと眺めてみると、やはり文体も記述方法も一般読者を対象にしたものであることが一目瞭然であった。
しかし、この書籍には何か非常に大切なことが書かれているように思った。それは専門的な科学書であるとか、厳格な哲学書であるとかは関係ない。
何か大切なこと、とりわけ真理につながる事柄がこの書籍の中に散りばめられているように思えたのだ。ここ最近私が感じていた、この世界からの促しと世界への奉仕という事柄に関係するようなタイトルは、何か運命的なものを感じざるをえなかった。
本書のタイトルの中に散りばめられているのは、「使命」と「使役(あるいは奉仕)」という言葉である。私は、本書とのこの出会いも、この世界からの促しによるものなのではないかと思う。
クラスの休憩の最中に本書と出会う幸運を得た私は、大切に本書を手に握りしめ、教室に戻った。
昼食後、フローニンゲンの中心街を散歩している時、日本語で日記を書くように、作曲を通じて自己を表現する日が来るだろうか?ということを考えていた。それはちょうど、フローニンゲンの街の象徴であるマルティーニ塔の前で得られた問いだった。
私が自らの英語に期待しているのは、もはや科学や哲学の領域における論文を書くことだけであり、逆に日本語にはそれらを一切期待していない。日本語と英語の役割が自らの中で明確になっていく。
そうした最中にあって、作曲という音楽言語を通じた表現行為は特殊な立ち位置にあるように思う。ここでもおそらく、音楽大学や音楽院を卒業した作曲の専門家は、学術論文を執筆するような形で作曲を行っていくのだろう。
私にはそんなことはできないし、それは私の望むことでは決してない。学術論文のような曲は作らない。
ただ、膨大な数の日記のような曲を作り続けるだけである。しかも、それは誰かのために書くわけでも、もはや自分のために書くわけでもない。
ただ書くためだけに書き、書くことすらを超越するために書き続けるという意思がある。マルティーニ塔を見上げ、自宅に戻る決心がついてからもこのテーマについて考えていた。
日本語で日記を記すかのように、それでいて日記には表現できないものを自由に表現するところまで、作曲技術を高める精進を日々行っていきたい。その道のりがどれだけ遠くても、決して歩き続けることをやめないだろう。フローニンゲン:2018/3/14(水)16:56