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1758. これから


今学期の試験が無事に終わり、少しばかり安堵している。試験会場から自宅に戻る途中で社会科学キャンパスに立ち寄り、そこで来学期に受講するコースの必読論文を印刷した。

「システマティックレビューの執筆方法」というコースの課題論文は、すでにポータルサイトにアップロードされており、それらを全て印刷した。このコースに対する期待感は強く、実際に毎回のクラスの課題を通じて、自分でシステマティックレビューの論文を執筆していくことになる。

これまで一度もシステマティックレビューを執筆したことがなく、それは私にとって初めての経験となるが、今年の修士論文にせよ、さらには今後の博士論文や書籍にせよ、システマティックレビューの執筆方法は非常に有益な文章執筆方法であり、その理論と方法をこの機会に習得することができるのはとても有り難い。

自分の研究テーマや実務の性質を考えてみた時に、今後本格的なシステマティックレビューを執筆する可能性は低いが、この文章執筆方法の発想は、今後の小さな論文や書籍の中にも活用していきたいと思う。

あるいは、何か調べ物をし、それをまとめるようなレポートを書く際にも、アプローチとしては同様のものを活用することができるのではないかと思っている。システマティックレビューについてはこれから深く学ぶことになるが、端的に述べれば、それは定量的かつ定性的な文献レビューの代表的な方法だと言える。

似たような論文執筆技法にメタアナリシスというものがあるが、こちらは完全に、定量結果をメタ的にレビューしていく方法のことを指すと理解している。現在、私が在籍している「実証的教育学」のプログラムに在籍している者は私だけだが、プログラムの内容の充実振りには大変満足している。

正直なところ、昨年のプログラムにおいても随分と科学的な発想とアプローチに関して体系的な訓練を受けたと思っていたが、今年のプログラムはそれ以上である。人間発達と学習について、このように厳格な科学的トレーニングを積むことができる毎日を有り難く思い、その充実感は申し分ない。

少なくとも何とか後10年ほどは、こうしたトレーニングを積めるような立場と環境を維持したいと思う。大学で教える立場になることを何とか先延ばしにしたいと思うのは、教授陣たちは一様に、こうしたトレーニングを提供する側に回った途端に、自らにそうしたトレーニングを課さなくなることを私は知っているからである。

そこには地位の問題や時間の問題なども絡んでくるだろう。幸運にも、私にはいくつかの仕事が他にあるため、学術の世界において教授としての地位を求めるのではなく、そうした地位とは離れたところに位置取り、類を見ない形で長期的な継続トレーニングを自らに課していこうと思っている。

仮にここからの10年間において、大学で教えることになったとしても、それは博士課程におけるティーチングの一環にとどめておきたい。もし、望まない形で教授のポジションが与えられた場合にも、その大学における他の教授の授業を毎学期聴講し続けたいと思う。

自分が科学者としてのキャリアを歩もうと志したのは、30歳を迎える頃であり、その時になって初めて、自分が科学者であることに気づいた。それまでの30年間がどれだけ知的に怠惰であったかを私は知っているため、もうあのような怠惰な生活を送りたくないのである。

規律と克己ある形で、絶えず鍛錬を続けていく生活の中で人生を終えていきたいと強く思う。昨日、同志を求めるような無意識が働いていたのか、博士号取得に関するギネス記録を眺めていた。

すると、申請されている記録上、博士課程を三つ持っている人が世界にいるようだ。ギネス記録が博士号三つというのは、随分と少ないように感じた。というのも以前から、自分の関心領域に沿って探究を続けていけば、知らず知らずのうちに、博士号を三つほど取得することになるだろうと思っていたからである。

言うまでもないが、学位の数にこだわりなどなく、自分の関心に沿って学術機関で時を過ごしていたら偶然にそのような数の学位になったというだけである。現在は、欧米で取得する三つ目の修士号のプログラムに在籍しているが、そのような数になったのも、純粋に自分の関心を探究できる場所に身を置いた結果として、そのような学位の数になっただけである。

成人になると、修士号以上の学位は、基本的にはキャリアアップのために取得されることが多いだろう。しかし私の場合は、間違ってもそのような形で学位を取得しないようにしている。

今、「キャリアアップ」という言葉を記載することも若干ためらわれたが、そのような形式で学位を取得しようという気持ちが一寸でも入り込む場合、そこには真に有意義な探究は実現されず、真に深めるべきものが深まらないであろうことを知っている。

話が脇道に逸れたが、とにかく私はこれからも、社会が投げかけてくる甘言や偽言を払いのけ、探究そのもののためだけに探究を続ける。「探究」などという言葉を使う必要のない日が早く来て欲しい。

それが人生そのものに、日々そのものにならなければならない。探究などという言葉を使っているうちは、探究などしていないのであり、全く何も始めていないのである。

欧米で生活を始めてから六年が経つが、やはりまだ何も自分の中では始まっておらず、これからなのだという気持ちが強い。他人の声のするところには一切足を踏み入れず、他人の声など一切聞かないようにする。

そうしたあり方が今後ますます重要になるだろう。2017/11/9(木)16:08 No.403: Waltz Accompaniment Last night, I was thinking about how to apply inversions to a waltz accompaniment.

Basically, the lowest note of a chord is played alone on the first beat, whereas the middle and highest notes are played together on the second and third beats in a waltz accompaniment.

If I want to apply inversions to the bass part, how can I do that?

I have to invert a note when I apply an inversion, which automatically breaks the principle of waltz accompaniment.

I was wondering about whether it was acceptable or not. I need to check an exceptional case to use inversions for a waltz accompaniment. 09:16, Wednesday, 11/22/2017

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