昨夜は久しぶりに大学時代の友人と会った。彼は現在アメリカの大学院に留学しており、彼と最後に会ったのはかれこれ三年前となる。
三年の月日はお互いを確実に変化させているようだった。私とは対照的に、彼は大学時代において学業が極めて優秀であり、今所属している大学も米国の名門大学である。
久しぶりの彼との対話を楽しみにしながら、私は待ち合わせの場所に向かった。二人でゆっくりと話す場所として選んだのは、ある中華料理店だった。
部屋全体がどこかとても白く感じさせる作りとなっており、一つ一つのテーブルがとても大きく、それでいてどこか落ち着けるような雰囲気を放っている不思議な店である。テーブルに腰掛けたところで、お互いの近況報告から始めることにした。
まずは、会社を退職し、米国の大学院に留学することになった彼の話を聞くところから対話が始まった。するとすぐに気づいたが、彼の日本語が幾分おかしい。
文法的な誤りや発音の誤りなどではなく、根本的に彼が以前話していた言葉ではなくなっていることに気づいたのである。人は内面の成熟に応じて文体が変化するのと同様に、書き言葉の変化が話し言葉に滲み出すことがよくある。
彼が口を開いて一言二言話をした時に、この三年間を通じて、彼の内側で大きな変容体験が起こったのだと最初は思った。しかし、話の続きを聞いてみると、どうもそれが私の早とちりであることが如実になり始めたのである。
そこには彼の言葉はなく、他者の言葉しかなかった。外装の見栄えだけが整った言葉をいくら発しても、何も響いてこないのだ。そんな言葉を発しては、人に何も響かないのだ。
自分の内側にある自己の言葉を見つけ、それを発しない限り、他者に何かが伝わることなどないのだ。仮に自分の言葉ではなく、虚飾で彩られた言葉を発し続ける限り、他者に伝わるのは浅薄さだけなのだ。
彼が留学の経緯から突然話題を変えた。どうやら、私の『成人発達理論による能力の成長』を読んでくれたようだ。
そこで彼はその感想を述べる際に、西田幾多郎の哲学を取り出した。三文字のある概念を用いて説明すれば、私が本書の中で述べていたことがより深く理解できるとのことだった。
また、本書の内容と東洋における発達思想には随分と関連があり、その点が特に印象に残っているという感想を述べてくれた。自分の書籍を読んでくれたのは大変嬉しいことだったが、彼の感想の全ては私に何も響いてこなかった。
仮に彼の言葉を紙に書き出せば、それはその紙を産んでくれた木に大変申し訳ない。資源の無駄になる無益な言葉を彼は発していたのだ。
運ばれた中華料理のどれもが見栄えがとても良く、一見すると美味しそうに思えた。だが、彼の話を聞きながらそれらの豪華な食べ物を食べても、一向に美味しさを感じられなかった。
料理も言葉も響くものがなければならないのだ。作り手は、込めるべきものを表現物の中に込めなければならないのだ。
そのようなことを思った瞬間に、私は夢から覚めた。真っ黒な闇が包むフローニンゲンの朝。
遠方から甲高い一羽の鳥の鳴き声がした。それは私の内側の芯に向かって一直線に届いた。
叫びにも似た一羽の鳥の声が私の内側に響き渡ったのは、その鳥の声がその鳥自身の内側から湧き出た固有の声だったからだ。2017/9/12(火)
No.181:Context in Word and Music Composition Our words become meaningful once they are placed in a specific context. I thought that it was true to music.
More specifically, I was wondering how musical notes become meaningful in the context of a piece of music. In addition, I was curious about how music notes construct a context.
Because I do not still comprehend how musical notes are placed in a specific context and how they construct a context, it is difficult for me to compose a piece of music.
My next step would be to delve into the nature and constructive process of contexts in a piece of music. Friday, 9/15/2017