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1302. 人間証明とあの日とこの日


今日はまだ書物にも論文にも触れていない。何かを書き残しているような感覚が内側を走っているからだ。

絶えず書くことによって、自らを規律付けていくような生活。書くことによって、自分自身をこの世界の中に刻み、そこから新たな自分を刻みだしていこうとするような生活。

すなわち、刻印からの刻成を絶えず行うような生活。自分の場合、それは書くことによってしか実現され得ないものである。

書くことによって、新たな自己が刻成される時、初めて自分が絶えず生成を続けるこの世界の中に刻印されていくことを知る。そして、自分自身がこの世界の生成の波に関与しているのだということがはっきり理解されるのだ。

しかし、それは書くことによってしか実感され得ないものであり、書くことによってしか見えてこない現象だ。書くことを通じた自己刻印と自己刻成を行い、それによってこの世界になんとか関与しようとするのが今の自分の偽らざる姿である。

先ほど、ソファに腰掛け、朝食のりんごを食べながら、こうした自分の姿についてぼんやりと考えていた。このような生き方をせざるえを得ない自分について考えていたのだ。

もはやそうしなければ生きることができないという衝動的かつ無意識的な行動を生むのは、今の私が組み込まれている発達段階の作用だろう。自らの内面の成熟段階について冷静になって考えてみると、そのような生き方を超えた生き方というものがあることに否が応でも気づかされる。

だが、それがどのような生き方なのかわからないということ。そして、そうした生き方の特徴は、発達理論の説明の中にすでに記述されているが、その特徴が自らの生の中でどのように発現され、それを自らがどのように感じ取っていくのかは未知である。

次の段階の特徴を眺めることはいくらでも可能なのだが、その段階を自己の内側から生きるというのは全く次元の異なる話である。間違いなく今の私は、現在の自分の内面の成熟段階がいかほどであり、日々の行動を生む行動論理がどのような性質を持っているのかを把握している。

それに加え、次の段階の特性すらも見据えることができているのだが、新たな段階を通じて生きることはまだほど遠いように思える。今の地点がわかり、次の地点の輪郭がもはや見えているのに、その地点にたどり着けないもどかしさ。これは人間発達のさがである。 私は文章を絶えず書きながら、このような生き方があるのだということを自ら証明しようとしているのかもしれない。人間証明。

私が毎日文章を書き留めているのは、一人の人間が、真に人間になろうとする道を検証するためであり、人間が人間らしく生きることは何なのかを追究し、人間らしさの証明を自ら行おうとしているのではないかと思うのだ。

それが、書くことによる人間証明と呼ばれるものだ。私は、毎日文章を書くことによってしか、その一日がそこにあったのだということを証明できなくなっている。

「あの日の自分がなければ今日という日の自分はなかった」という言葉は、自己存在の核心を突くものではないだろうか。私は、「あの日が確かにあったのだということ」を未来の自分に伝え、未来の自分は今この瞬間の自分と一寸離れずつながっているのだということを証明したいのだ。

それを伝えるためには、それを証明するためには、書くしかないのである。あの日の自分とこの日の自分が絶えずつながっているのだということ。

私はそれを証明するために、文章を書き続け、今日という一日を心底大切に生きたいのだ。2017/7/14

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