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1263. 光の織物:存在が光になるまで


出版された書籍を過度に気にかけることをやめてから、再び平穏とした日常に戻りつつあることを実感している。意識が散漫になることなく、自分がなすべきことに集中できる日々が取り戻されつつあることはとても喜ばしい。

書籍に向かっていた精神エネルギーが、自らの仕事に向けられ、また自分の内側に向けられることによって、全てが再び順調に動き出していることを感じる。そうした日々の充実感を感じながらも、絶えず自分の内面を巡る問題について、様々な角度から様々な深度で向き合わなければならないことに関しては何ら変わりはない。

日々の生活がどれだけ充実していようが、そうした自らの内面に関する問題は消えることなく、それと向き合うことを私に突きつけてくる。幸福は自己を巡る問いと常に手を結んでおり、私が幸福感を感じる時には常に問いがそばにいる。

そして、幸福感を感じられないような時にも問いがそばにいることを考えると、本当に人間の一生は問いに囲まれたものなのだということが理解される。いや、私たちの一生は、問いに囲まれているというよりも、問いそのものに他ならないと言えるかもしれない。

昨日、行きつけのインドネシアンレストランで昼食を購入し、それを持って自宅に戻ってくるとき、ある家の庭にバラが育てられているのを発見した。そのとき、ドイツの詩人リルケが残した「一本のバラは全てのバラ」という言葉を思い出した。

リルケのこの言葉は、敬愛する日本人作家の辻邦生先生に多大な影響を与えた言葉でもある。辻先生の著作を読む中で、私はリルケのこの言葉に何度も出会ってきたのは確かである。

しかし、その言葉は確かに素晴らしいと思うことはあっても、真にこの言葉の意味するものを自分の存在を通じて理解することは一度もなかったように思う。だが、昨日目に止まったバラによって、リルケが残したこの言葉の意味することの一端が掴めたような気がしたのである。

それは、何かが私の中に大量に流れ込む感覚として知覚され、逆に、私から外側の世界に何かが大量に流れ出すような感覚として知覚された。「一は全につながり、全は一につながる」という訳の言葉が、私の口からこぼれた。

私はもう一度、英語で出てきた独り言を日本語に変換し、再度自分に言い聞かせるようなことを行っていた。仮に、私の内側から生み出される一つの言葉が、自己を取り巻く大きな世界の中の貴重な部分であり、それでいて世界全体であるならば、自分の言葉を紡ぎ出していくことには大きな意味があるのではないかと思うに至った。

第二弾の書籍を執筆し、それを世の中に送り出したことに対して、ある種の虚無感に襲われていた私にとって、リルケのその言葉は啓示的な意味を持つものであり、私に光をもたらしてくれるものだった。今日も昼食時に、なぜ自分は日本語で文章を書き続けなければならないのかについて、大きな葛藤と対峙することになった。

これは米国で生活を始めた五年前からたびたび向き合ってきた問題であるが、今日もそれと向き合った。この問題と向き合う機会が増せば増すほど、この問題が解決されることはなくても、少しばかり希望の方向へ自分の解答が進んでいることがわかる。

その直後に現れた問題が、先ほど書き留めていた人工知能に関するものであった。自分の一生をかけて、自分の人生の全てをかけて成すべきことに関して、私は完全な光の中を歩いているわけでは決してない。

だが、リルケを含め、詩人や思想家の言葉の中に小さな光を見出し、そこで得られた光を、少しずつ自分の内側で大きな光として編み直していくようなことに私は従事しているのだと思う。この作業は、自分の存在が完全な光になるまで続くだろう。

そして、その日がやってくるまで、私は光を求めることをやめはしないだろう。2017/7/5

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