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1141. 内からの叫び


自分の内側の奥底から何かを叫びたいような気持ちに襲われることが日常度々ある。それは、物理的な身体を用いて叫びを発するのではなく、精神的な身体が発するようなより強烈な叫びである。

言い換えると、それは自分の存在が張り裂けるような音だと言っていいかもしれない。私は、自己の存在がはち切れる際に鳴り響く音のようなものを先ほど聞いた。

今の私は、少しばかり途方に暮れている。毎日、文字通り毎日、自分の内側から回答に窮する問いが自分に向けて投げかけられる。

それは回答に窮するというよりも、回答が不可能に思えるような問いばかりであり、そして、それらの問いに対して自分が何から着手し、どのようにそれらの問いと向き合っていければいいのかがわからないような状態なのだ。

哲学的な素養もなく、哲学的な訓練を一切受けていないことが、今の私を大いに悩ませる。目の前に積み上げられる哲学的な問いの一つ一つにどのように向き合っていけばいいのだろうか。どのようにそれらの問いに取り組んでいけばいいのだろうか。 一切の手掛かりもなく、状況は混迷を極める。それらの問いは、ひどく個人的な問題とひどく社会的な問題が複雑に絡み合っている。

ある問題は個人的なものであり、別の問題は社会的なものである、というものではないのだ。そうではなく、全ての問題が等しく個人的であり社会的なものであることが、それらの問いへの回答をさらに難しくさせる。

目の前の視界が遮られてしまうほどの問いの壁を前にした時、そこで救いの手段を求めたのは、過去の偉人が書き残した哲学書であった。しかも、それらは純粋に形而上学的なものではなく、社会の具体的な問題と密接に関わった哲学書である。

それらの哲学書を貪るように読みたいという抑えがたい気持ち、いや、それらを読まなければ一歩も身動きができないところにまで自分は追い込まれている。問いが問いを解決すること以上に、問いが問いを呼び込み、難問が自分の目の前に、日毎に高く積み上がっていくのがわかる。

そうした状況が、私を哲学の方向に突き動かす。以前の日記で書いたように、哲学というものが、これほどまでに個人的かつ社会的、実存的かつ実践的なものだということに気づいたのは、欧州での生活を始めてからだった。

書斎の本棚に手つかずの哲学書は、この日のためにそこにあったのだと思わずにはいられない。この夏、私は読める限りの哲学書を読み、今の私の目の前に積み上がった問いとどのように向き合えばいいのかの方法を明確にし、それらの問いに答えようとする形で日々を過ごしたいと思う。

とにかく、今の私が直面する種々の問題に無配慮に立ち向かっていくのではなく、それらの問いへの向き合い方に関する方法論の確立を真っ先に行っていく必要があるだろう。2017/6/6

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